彼女の息は、氷と刃にて②
暫くの間、言葉はなかった。
足元で土を踏む音だけが、一定のリズムで続いている。枝を踏み、葉を払い、同じような景色の中を進んでいく。
森の中は、思っていた以上に静かだった。さっきまでの轟音が、嘘みたいに何もない。
だが――何もないわけではない。
時折、端末が震える。そして表示されるのは、見たこともない名前と、その横に据えられた脱落の二文字。
今こうしている間にも、この島のどこかでは、誰かが命を賭けて名札を取り合っているのだ。
その時だ。
ふと、隣で寧が小さく息を吐いた。
「……ねえ、さっきの」
唐突でもなく、かといって自然でもない。
沈黙をなぞるように、そっと差し込まれた声だった。
「幼馴染って、どんな子なの?」
足を止めるほどではない。
しかし、ほんのわずかに、歩幅が揃わなくなる。
「どんな子……か」
視線は前に向けたまま、言葉を探す。
強い、とか。優しい、とか。いくらでも言いようはあるはずなのに、どれもしっくり来ない。言葉にするには、もっと細かい何かがいる気がした。
「セイナは――」
言葉が途切れる。
頭の中に浮かぶのは、戦闘時の姿でも、さっきの光景でもない。ずっと昔の、どうでもいいような記憶だ。
「小さい頃から……すぐ無茶する奴でさ」
口にしてから、微かに苦笑が漏れる。
「自分の腕に自信があるんだよ。実際、強いしな」
風が、葉を揺らした。擦れ合う音が、頭上で小さく鳴る。それに身を任せるようにして、一呼吸置いた。
「……そのくせ、変なところで面倒なんだ。ちょっとしたことで機嫌が悪くなったり、しょうもないことで張り合ってきたりして」
呆れたように言いながらも、自分の口元が綻んでいるのが、確かに分かった。それに釣られたのか、隣にいた寧もくすりと笑みをこぼした。
「なんか、想像つくかも」
「そうか?」
「うん。レイジの言い方、ちょっと楽しそうだったし……良い子なんだろうね」
思わず、言葉に詰まる。
自覚はなかった。否定するのも違う気がして。
視線を下げ、曖昧に息を吐く。
「で?もう一人の子は?」
隣で、小さく伸びをしながら寧が続けた。まるで、俺のことなんて全く気にしていないみたいだ。
その無関心さが、逆に助かる。
一度、視線を前に戻す。
今度は、さっきよりもすんなり言葉が出た。
「ミリアは……セイナとは正反対で、結構大人しいタイプなんだ」
視界の先、同じような木々の並びをなぞる。頭の中に浮かぶのは、さっきまでとは少しだけ違う温度の記憶。
「無口で、人見知りも激しい。仲良くなるまでは、話題作りでさえも苦労したな」
「けど――打ち解けたら、誰より周りが見えてる奴でさ。俺とセイナが困ってる時は、いつもきまって隣にいる」
言葉を選ぶように、一拍だけ間を置く。
「あんまり感情出さねえから、誰からも好かれるタイプじゃないけど……俺たちだけは知ってる。あいつがどういう奴かって」
言い終えたあと、それに合わせるように風が止んだ。森の騒めきが遠のいて、静けさだけがやけに際立つ。
その静寂を切り裂くように、隣で寧が身を乗り出す。
「ねえ、もっと聞かせてよ」
軽い調子だった。いかにも寧らしく、子供のように目を輝かせている。
「二人のこと。昔話みたいなそうい――「キャァァァァッッ!!」
一瞬、思考がフリーズした。
悲鳴だ。誰かの、悲鳴。
寧の言葉は、その悲鳴によって掻き消された。
「今の……レイジ!」
寧の声が、若干強張る。
それでも、意識はそちらに向かなかった。
胃の奥が、じわじわと冷えていく。
とても、嫌な感覚だった。
理由なんて、考えるまでもない。
――俺は知っている。あの声の持ち主を。
反射的に未来を見ようとした目を、意識的に強く抑え込む。ぼんやりと浮かぶその景色は、手を伸ばせばいつでも掴むことができる。
けれど――
見てしまえば、確定してしまう。その先にある光景が。
―――――――――――――――――――――――――
「――ジ。――ジ!」
明るくて、澄んだ声が耳を突く。でも、まだ遠い。
「――レイジ!!」
今度は、耳元のすぐ傍で弾けた。
思わず両手で耳を塞ぎ、声の方向へと振り返る。
すると――そこにいたのは、セイナだった。
「レイジ……どうするの!」
肩まである滑らかな黒髪を、いつも通りのハーフアップにして綺麗にまとめている彼女。
だが、その表情にいつもの強気な姿勢はなく、わずかに焦りが滲んでいる。
(これは……?)
先程までの空気とは一転、セイナの背景にあるのは真っ暗な闇と、学校のような長い廊下。
――俺達が育った、夜の施設だ。
廊下の先からは、白い光が点々と窓から差し込んでいる。天井の蛍光灯は半分以上が落ちていて、点いている灯りもどこか頼りない。床に伸びた影が、不自然に歪んでいた。
本来なら、物音一つしない時間帯だ。それなのに。
――パンッ!!
遠くで、何かが弾ける音がした。乾いた、短い音。続けて、壁に何かが当たる鈍い衝撃。
それが銃声だと理解するまでに、時間はかからなかった。
「……襲撃犯」
セイナの隣で、短く呟いたのはミリアだった。
動揺しているセイナとは対照的に、ミリアは表情一つ動かさない。
ああ、と胸の奥で何かが噛み合う。
そうだ。これは――あの夜の記憶だ。
オリジナーの養成施設は、その希少性が故か、度々こうした事件が起きる。だが、大抵の場合は、オリジナーの大人か警備員によって迅速に処理されるものだ。
それが起きないということは、そういうことなのだろう。
「大人が来るまで待つの……!?」
セイナが二人を見回しながらそう聞いた。彼女の手には、短い剣が握られている。
おそらく、オリジンで生み出したものだろう。
その手は、震えていた。
「それじゃ遅い。それに、セイナちゃんもここまで来たからには……答えは決まってるでしょ?」
ミリアが、ゆっくりとセイナへ視線を向けた。一瞬だけ、二人の間に無言のやり取りが走る。
俺はその光景を、ただ黙って見守るのみ。
そして――
「……分かったわ」
短く、セイナが答えた。その肩に、ミリアが軽く手を添える。
覚悟が決まったのだろう。セイナは、剣を軽く構え直す。その切っ先は、迷いなく廊下の奥へ。
彼女の瞳に、さっきまでの焦りはない。代わりに、いつもの強気な眼差しだけが残っていた。
ここで、ミリアが一歩踏み出す。
「うん。じゃ、先陣は私が切るから」
そう小声で呟き、前へ進む。
その足取りは、妙に軽く見えた。
――廊下の奥、灯りの届かない暗がりに、人影が揺れている。距離は、およそ三十メートル。
アサルトライフルのようなものを右に抱え、深くフードを被った、いかにも今回の犯人らしき風貌。
ミリアは、その影との間合いを一気に詰めていく。
(……近づきすぎだ)
胸の奥で、何かが引っかかった。
ミリアの足取りに異変はない。寧ろ、驚くくらい順調だ。普通なら、このまま犯人の動きを止めて終わり――そのはずだった。
ミリアの背中が、前へと滑る。
影との距離は、一気に縮まっていく。
残り十メートル。
その瞬間、影がこちらを向いた。
――だが、遅い。
ミリアの踏み込みの方が、ほんの一瞬速い。
次の瞬きには、目の前まで迫っている。
途端、影の動きが止まった。そう、ミリアのオリジン。
影の身体から銃が滑り落ちる。
もう、凶器はない。ミリアは深く息を吐きながら、足元に転がった銃へ手を伸ばした。
――決まった。誰もがそう思った、その時。
「……え?」
ミリアの声が、わずかに漏れる。
刹那、彼女の身体に赤い線が走った。
横一文字。
音は、ない。
そのまま、崩れるようにしてその場へ倒れ込むミリア。
それだけが、現実。
「ミ……ミリアちゃん!」「ミリアッ!!」
――視界が、ぐにゃりと歪んだ。
見れば、ミリアはまだ目の前で立っている。だが、その体は今にも全速力で接近を始めようとしていた。
(今のは夢――じゃなくて……!)
空気が、一気に押し寄せてきた。理解も、一緒に。
「――セイナ、行けっ!」
気付けば、叫んでいた。
「え?なん――」
反射的に返しかけたセイナの言葉が、途中で止まる。
こちらの様子を見て、何かを察したのだろう。
瞬間、身体の横を猛烈な風が吹き抜ける。
「了ッ!」
言葉より早く、身体が動いていた。セイナはみるみるうちにミリアを追い抜かし、影との距離を詰めて行く。
影は、勿論セイナの接近を感知していた。そりゃ、あれだけでかい声で叫べば、誰でも気付く。
それでも――俺たちの方が、一枚上手だ。
「剣製!」
「蛇に睨まれた蛙!」
決着は、一瞬だった。
影の喉元に、剣の切っ先が当てられる。それでも、抵抗する素振りは見せない――というよりは、できなかった。
やがて、遠くから慌ただしい足音が近づいてくる。
施設の職員たちだろう。取り押さえられていく犯人を、三人は少し離れた場所から眺めていた。
「レイジ……」
ミリアが、こちらへ振り向いた。こんな時だというのに、相変わらず無機質な表情をしている。
「何だ?」
「さっきの」
一拍、間があった。
「見えてたんでしょ。やられるの」
ミリアは、それ以上聞いてこなかった。ただ、にへらと笑って、飛びついて来たセイナを正面から受け止める。
そして――
「……ありがとね」
誰にも聞こえない声で、小さく呟いた。
―――――――――――――――――――――――――
走りながら、気づいた。さっきから、涙がこぼれそうになっている。それを、奥歯を噛んで押し込んだ。
今じゃない――今は、走れ。
木の根を踏み越え、枝をかき分け。もつれかけた足を、気合いだけで立て直す。
やがて、視界が開けた。
野原のような場所だった。名前も知らないような花たちが、色とりどりの景色を形作っている。
なのに――
そんなものは、一つも目に入ってこなかった。
全部、色が抜け落ちて見えた。
その理由は、至って単純。
それらを一切感じささせないほど、一際目を引くものがあったからだ。
それは――地面にしゃがみ込んでいる、小さな背中だった。
肩が大きく上下しているのが分かる。ここからでも、息の荒さが伝わってくる。
全身が、微かに震えているのも、はっきりと見える。
――そして、その先。
――呼吸が、止まった。
見た瞬間、頭が理解を拒んだ。
目に映っているものと、それが意味すること。
理解できない。したくない。いや、なんなんだこれは。
いつもみたいに、未来視のもう片方なんじゃないのか?
あぁ、きっとそうだ。
暫くしたら、いつも通り未来視だったってオチだ。
そうじゃなきゃ――。
「おい……」
――あれ。
足に、力が入らない。俺は、何で泣いているんだろう。
気付けば、目線が下がっている。
あぁ、膝をついたんだ。
くせのある茶髪は、真っ赤に染まっていた。小さな身体は、力無く横たわっていた。
でも、顔だけは、妙に綺麗なままだ。
――顔だけは。
「ミリア……?」
問題は、その下。
腰から下が――繋がっていない。
綺麗に、断たれている。
まるで最初からそういう形だったみたいに、何の違和感もなく。
血は既に土に吸い込まれていて、もう流れてもいない。随分前に、全部終わっていたのかもしれない。
声が、出なかった。
もう、戻ってくることはない。いつもの鉄仮面ぷりも、にへらと崩した笑顔も。「ありがとね」の響きも。
「あぁ……」
セイナの肩は、まだ震えている。声もなく、地面に両手をついたまま、動けないでいる。こちらが来たことにも、気づいていないのかもしれない。
それを、ずっと見ていた。
どれくらいそうしていたのか、分からない。
十秒だったかもしれないし、一分だったかもしれない。ただ、セイナの後ろで膝をついたまま、俺は何も言えなかった。言葉が、どこにも見当たらなかったから。
やがて、セイナが口を開いた。
「……来てたんだ」
ひどく掠れた声だ。喉が、うまく開いていないみたいな掠れ方だ。
「……ああ」
「悲鳴、聞こえた?」
「……聞こえた」
短いやり取りだった。端的で、中身のない、会話とも呼べないような何かだった。
沈黙が、重い。
ミリアの茶髪は、なおも美しかった。赤く染まっていない場所は、無駄に光を反射して、眩しいくらいに。
「……誰にやられた」
気付けば、口にしていた。
地獄の果てまで追いかけ回して殺してやる。いや、それじゃ生温い。ミリアが受けた苦痛の何倍にもして殺してやる。絶対にただでは死なせない。
しばらくしても、セイナは黙ったままだった。こんな状況だし、きっと聞こえていないのだ。
もう一度、問いかける。
「なぁ、セイナ一体何が――」
目が、合った。
赤かった。泣いていた。
ずっと、こうして居たんだと思う。
でも、その手が握り締めていたのが、ミリアの手だとしたら。それならば、どれほど良かったことだろう。
しかし、現実は非情だ。
何故だか、セイナが持っているのは短剣だった。
戦いに敗れたまま、ずっとこうしていたのか。
でも、どうしてその切っ先をこちらに向けているんだろう。なぜ、そんな目でこちらを見るんだろう。
――いや、待て。
どう見ても、コイツの刃は完全に俺へと向けられている。瞳は、狩人のそれだ。
そして、その獲物は間違いなく俺。
喉が、ひくりと鳴った。
咄嗟に顔を伏せる。反射的に、腕を顔の前に掲げる。生存本能が、どうにか頭部だけでも守ろうとした。
――その時だ。
一つの影と共に、すぐそこまで差し迫っていた短剣が、大きく宙を舞った。赤い液体と、一緒に。
空中で弧を描いたそれらは、鈍い音を奏で、地面へと転がった。
「いだっ……!」
セイナの喉から、苦痛を押し殺した声みたいなのが漏れ出ている。
「……は?」
理解できなかった。いや、理解していなかった。
ミリアの事も、セイナの事も――そして、寧の事も。
「大チャンス……逃しちゃったねぇ。幼馴染ちゃん?」
その目は、いつもの色をしていなかった。




