8話 死
――何が起きた?
両断されたミリアの身体。手首から先を失ったセイナ。返り血を浴びた寧。
理解が、一切追いつかない。
無論、誰が正義で、誰が悪か――そんなことを考える余裕は、もうどこにも残っていなかった。
その渦中において、最初に動いたのは寧だ。一歩、また一歩。迷いのない足取りで、静かにセイナとの距離を詰めていく。
「おい……寧?」
考えるより先に、口が先走っていた。今の寧を、セイナに近づけさせてはならない。
理由なんて分からない。
ただ、本能だけがそう告げている。
だが――その声は、寧の足を止めるには至らなかった。
まるで聞こえていないかのように、あるいは最初から無視するつもりだったかのように。一定の歩幅で、まっすぐに歩み寄っていく。
乾いた土を踏む音が、やけに鮮明に感じた。
「や……め……」
セイナの喉から、小さな音が漏れる。
彼女は、地面に膝をついたまま、肩で息をしていた。視線は彷徨い、焦点は合っていない。自分の身に何が起きたのか、まだ理解が追いついていないみたいだ。
寧は、彼女の言葉にも耳を貸さなかった。
「おい!寧……!寧ってば!!」
もう一度、叫んだ。聞こえていないはずがない。
それでも、彼女は振り返らなかった。まるで、俺という存在がこの場から切り落とされているみたいに。
止めなければ。今すぐ寧を抑え込まなければ。
頭の中では、何度も同じ言葉が反芻される。
――なのに、足が動かない。
「……痛いよね」
虚ろな声だった。ただ、事実をなぞるだけのような乾いた響き。寧はそのまま歩みを止めず、セイナの目の前まで来ると、ゆっくりと屈んだ。
次の瞬間、自分の袖を迷いなく引き裂いた。それを、セイナの傷に当てて、きつく縛る。
――止血だ。
その手際は、妙に慣れている。無駄な動きが一つもない。
最早、彼女の考えていることは、全くと言って良いほど分からなかった。
寧はその手を止めることなく、静かに口を開く。
「貴女の痛みは分かるよ。でもね……」
少し、間があった。そして。
「あの茶髪の子の痛みは、こんなもんじゃなかったんじゃない?」
セイナの体が、ぴくりと跳ねる。
「……は?寧、お前何言って――」
思考が止まる。体温がやけに煩い。汗が異常に冷たい。
今の寧の言葉は、明らかにおかしい。
だって、それじゃ――
「貴女がやったんでしょ?」
寧は、顔も上げずに言った。手を動かしたまま、あまりにも自然に。あまりにも当たり前のように。まるで、最初からそうとしか考えていなかったかのように。
「な、何言ってんだよ……!」
否定は反射だった。セイナが何かを口にするより早く、俺の口から出た言葉だった。
「違うだろ……だって、セイナは……」
言葉が続かない。
視界の端に、ミリアの身体が映る。
その横に、セイナの震える肩。
「ねえ、答えなよ。なんで殺したの?」
問いは柔らかい。が、逃げ場を与えない。
「……っ、ちが……」
掠れた声が、地に落ちる。
セイナのものだ。否定の言葉――そのはずだった。
けれど、その響きはあまりにも頼りなく、芯を失っていた。まるで誰かに向けた言葉ではなく、自分自身に言い聞かせるための、空虚な音のように。
寧の手は止まらない。
淡々と、無駄のない動き。指先に迷いはなく、そこにあるのはただの作業に等しい。
それ以上、彼女は何も聞かなかった。
寧が縛り終えると、セイナはその場に崩れるように、両肘を地面に落とした。浅く荒れていた呼吸が、少しずつ、少しずつ整っていく。
青ざめていた頬にも、微かな血色が戻り始めていた。
沈黙が落ちる。
誰も言葉を発さない。
吹き抜ける風だけが、木々の葉を揺らしていた。さらさらとした音が、やけに穏やかで――この場の空気とは、どこか噛み合っていない。
その不自然な静けさを、寧の声が裂いた。
「……なんで殺したの?」
先ほどと同じ問い。
だが、今度は逃げ場を完全に塞ぐように。
深くて、重い――そんな雰囲気を纏っていた。
セイナは答えない。
「助かるため?」
沈黙。
「それとも……見捨てた?」
その一言で、セイナの肩がわずかに落ちた。
張り詰めていた何かが、音もなく緩んでいくように。
糸が切れたみたいに、力が抜けていく。
「……こ、怖かった」
絞り出された声は、あまりに小さい。
「何が?」
寧は間髪入れずに問う。その声音には、責める色も、慰める色もない。ただ事実だけを掬い上げようとする、冷たい静けさがあった。
「……死ぬのが」
セイナが、ゆっくりと顔を上げる。
赤く充血した瞳が、こちらを捉えた。
泣いていたのか。
それとも、まだ泣いているのか。
――判別なんて、できるはずがなかった。
ただ、一つだけ確信的なことがあるとするならば。
その目に宿っていたのは、取り繕うことすらできなくなった“恐怖”だけだということだ。
「……ミリアのオリジンじゃ、この先、勝てないと思ったの」
ぽつり、と零れた言葉は、風にさらわれるでもなく、その場に重く沈む。
「一緒にいたら――私も死ぬなって、思った」
誰に向けたものでもない。
ただ、逃げ場を失った心が、ようやく外に滲み出ただけの告白だった。
「それで、殺したの?」
寧の声は、相変わらず静かだった。
責めるでも、咎めるでもない。ただ、その事実の輪郭を確かめるように。
「……殺そうとした時、迷った」
「迷ったけど……怖くて」
言葉を継ぐたびに、呼吸が乱れる。胸の奥に押し込めていたものを、一つずつ引き剥がしているみたいに。
「でも、二人で生き残っていける自信も……なくて」
そこで、声が途切れた。
沈黙が落ちる。
風の音さえ、今は遠い。
セイナは俯いたまま、指先を地面に押し付けていた。爪が土に食い込むほどに力を込めているのに、その身体は、どうしようもなく弱々しい。
「でも……あの子、六点だったから」
「二時間後の位置情報で……死ぬって、思っちゃったんだ」
その“思っちゃった”が、あまりにも軽くて。
けれど、その軽さこそが、取り返しのつかない事の重さを生んでいる。
「……だから、切ったんだ?」
寧の問いは変わらない。
どこまでも静かで、どこまでも逃がさない。
セイナは、答えなかった。
答える必要がないことを、自分でも分かっていたのだろう。
悪意じゃない。怨恨でもない。
そんなものは、どこにもなかった。
ただ、怖かっただけだ。
ただ、生きたかっただけだ。
――ミリアは、セイナの“弱さ”に殺された。
でも、それでは一つだけ、納得がいかない。
「お前は、そんな弱い奴じゃなかっただろ……?だって、あの日の夜も――」
そこで止まった。口に出して、初めて気付いたから。
あの夜、廊下で剣を構え直した時のこと。襲撃犯目掛けて、真っ直ぐに立ち向かっていった時のこと。
迷いのない目だと思っていた。強い奴だと思っていた。
でも今思えば、あの夜だってあいつの手が一番震えていたではないか。
「あの時は……レイジも隣に居たからね」
――あぁ、そうか。
あの震えに。あの目の奥にあった、必死さに。
気づいてやれなかったのは――他でもない、"俺"だ。
◇
どれくらい、こうしていただろうか。
端末には、何十件もの通知が溜まっている。
――やがて、寧がゆっくりと立ち上がった。
崩れたままのセイナを見下ろし、その視線はどこまでも静かで、どこまでも無機質。
責めも、憐れみもしない。ただ、冷徹に現実を見据えるだけの目。
「……人は、選ぶの」
ぽつり、と落ちた声は、誰に向けたものだったのか分からない。セイナに向けたのか、それとも、この場にいる"全て"に対してなのか。
「助けるか、見捨てるか。逃げるか、立ち向かうか」
淡々と、言葉が積み重なる。
「みんな、いつも選んでる」
風が吹く。木々が騒めき、その音だけが妙に大きく聞こえた気がした。
「貴女の選択は――理にかなった正解だったんじゃない」
――もし、それが正解だったら。
そんな考えが、ほんの一瞬だけよぎって。
セイナは、ゆっくりと首を横に振った。
「……間違いだよ」
小さく告げられた、短い言葉。
俺は、何も言えなかった。
何を言っても、この場の重さを変えることはできないと悟っていたから。
「でも……レイジは、ちゃんと選べるよね」
不意に、セイナがこちらを向いた。
赤く滲んだ瞳が、淀みなく俺を捉える。
その表情は、さっきまでの怯えとは違う。
「全部――見えてるもんね」
そう言って、セイナは微笑んだ。
その笑顔が――彼女の全てを許してしまいそうで。
「……ああ」
反射的に、口から出た言葉。セイナの表情を見て、肯定しなければいけない気がした。
――でも、違う。
本当に、俺が言いたかったことは。
「俺達と過ごしてみて……どうだった」
一拍空けて、静かに問う。
口が言うことを聞かない。いや、口だけではない。心も体も、全てが嘘を吐いている。
本当に俺が伝えたかったこと。
それは、たった一文の短い言葉。
――"俺は、何も見えてなんかないよ"。
セイナの怯えも、ミリアの死も、この結末も。
見えているものなんて、一つもなかった。
そのことを、セイナは知らない。彼女は何度か考え直すような素振りを見せて、ようやく口を開く。
「最っっっ高に楽しかったよ。ありがとう!」
――見覚えのある、いつもの笑い方だった。
特別な意味などない。日常の延長線にある表情。
腕相撲だとか、ジャンケンだとか。そんな些細な勝負のあとには、きまってこうして笑っていた。
その強気な姿勢からは想像もつかない、可愛らしい笑みだった。もうこの景色も、何度見てきたか分からない。
寧が、足元に転がっていた短剣を拾い上げる。
血の跡が乾きかけた刃。さっき、空を裂いたあの軌跡が、まだ目に焼き付いている。
彼女は、それを軽く投げた。
放物線を描いた短剣は、俺の足元へと転がってくる。
セイナは逃げなかった。抵抗もしなかった。
ただ、目を閉じた。
――それが、答えだ。
◇
「強いね、レイジは」
俺の背中に向けて、言葉が投げかけられる。
それに、何かを返すことはなかった。
『[脱落]美剣セイナ――死亡』




