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第六章 静かな夜

 武は家に入ると、そのまま真っすぐ、いつも食事をしている自分の席へ向かって腰を下ろした。


 席に着くなり、武はすぐに目を閉じ、そのまま微動だにしなくなった。


 これこそが、昼間のような事態が再び起こるのを防ぐために、武が考え出した対策だった。


 このあと食事をする時も、ずっと目を細めたまま、ぼやけた視界で料理の位置だけを確認する。それ以外では、絶対に母さんの姿をはっきり見ない。


 これなら、さすがにもう問題は起きないだろう。


「回復薬は全部できた? ちゃんとしまっておくのよ~」


 由美子の澄んだ甘い声が、台所の奥から聞こえてきた。


 武は何も答えなかった。今は頭の中を空っぽにして、少しでも冷静になり、何にも気を取られないようにしようとしていた。


「ふんふ~ん、ふんふ~ん、ふ~ん♪」


 由美子は軽快な調子で鼻歌を歌っている。どうやら、とても機嫌がいいらしい。


 やがて台所から「ポンッ」という音が聞こえ、炊きたての白米特有の香りが少しずつ漂ってきた。


 目を閉じていても、武には由美子が今、茶碗にご飯をよそっていることが分かった。このあと由美子は、ご飯の入った茶碗と箸を自分の前に置くはずだ。


 案の定、急ぐでもない足音が、少しずつ武へ近づいてきた。


 何度か「トンッ」という低い音がして、目の前の食卓に何かが置かれたのが分かった。


 しかし、その直後。


 温かく柔らかな感触が、武の頬を両側から包み込んだ。


「武くん、目どうしたの? 何かで傷つけちゃった? それとも砂でも入ったの?」


 由美子の焦った声が、武のすぐ耳元から聞こえてきた。


「大丈夫、大丈夫。ちょっと急に、目を閉じたままご飯を食べたらどんな感じなのか試してみたくなっただけ」


 武は相変わらず目を閉じたまま、由美子の問いに答えた。


 由美子は数秒ほど黙り込んだ。


 由美子からすれば、きっと何かあったに違いない。そうでなければ、武が何の理由もなくこんなことをするはずがなかった。


「もう、この子ったら……。どうして急にそんなこと思いついたの? ママ、びっくりしちゃったじゃない」


 その言葉が終わると同時に、武の目の前が真っ暗になった。


 頭全体が大きく、柔らかく、豊かな何かに包み込まれ、そのまま髪を優しく撫でられる感触が伝わってくる。


 武はすぐに何が起きたのか理解したが、この状況では止めるわけにもいかなかった。


「大丈夫、大丈夫よ~。何があっても、ママはずっと武くんと一緒にいるからね~」


 由美子はこの上なく優しい声でそう言った。


 どうやら由美子は、魔術の才能のことで武が大きな心の傷を負ったのではないかと心配し、抱きしめたらしい。


 何しろ、魔物の脅威にさらされているこの過酷な世界では、魔術の強さの限界は、その人間自身の成長の限界とほとんど同じ意味を持つ。


 自分の魔術の才能が目覚める瞬間にすべてを賭けている者も多く、そのために、さまざまなジンクスまで生まれているほどだった。


 それでもなお、名のある一族の子孫が、魔術の才能に恵まれなかったことで精神的に追い詰められ、自ら命を絶ったという話が伝わってくることもある。


 由美子が武へできる限りの優しさと寄り添う時間を与えているのも、そんなことが起きないようにするためだった。


 残念ながら、武はそんな複雑な事情など知る由もない。


 今の彼に分かるのは、母さんの濃厚な体の香りが絶え間なく鼻腔へ流れ込み、その香りによって全身の細胞が活性化し、身体がますます昂ぶっていくことだけだった。


 心拍も代謝も同時に速まり、無数の思考が武の頭の中を駆け巡っていく。


 密かに潜んでいた影もまた、その身を動かし始め、今にもその枷を突き破ろうとしているかのようだった。


 武がもう耐えきれそうにないと感じた、その時だった。


 突然、胸元に焼けつくような熱を感じた。


 直後、全身を満たしていた興奮が、まるで海の水が引いていくように急速に消えていった。


 熱を感じたのは、ほんの一瞬だけだった。


 冷静さを取り戻した武は、自分の思考がずいぶんとはっきりしたことに気づいた。もう先ほどまでのように、頭の中が滅茶苦茶に乱れてはいない。


 武は呆然とした。


 自分の身にいったい何が起きたのか、まるで分からない。


 反射的に胸元へ目を向けたが、そこには何もなかった。


 武がそのことを不思議に思っていると、今度は彼の腹が、長いあいだ飢えていた狼のように一足先に唸り声を上げた。


 武のお腹から鳴り響いた音を聞くと、由美子はすぐに彼を抱きしめていた両腕を解いた。


 そして二人は目を合わせ、どちらからともなく笑みを浮かべた。


 由美子が浮かべていたのは、心から武を気遣う優しい笑顔。


 一方、武が浮かべていたのは、後ろめたさと気まずさに満ちた引きつった笑いだった。


「ふふっ、どうやらもう待ちきれない子がいるみたいね」


「先にご飯にしましょう! どれもママが心を込めて作ったのよ」


 由美子はくすりと笑いながら軽く手を振り、武の視線を食卓に並んだ豪華な料理へと優しく導いた。


 焼き上がったばかりの肉は、表面に食欲をそそる薄い焼き色がつき、脂がジュウジュウと音を立てている。その隣には、シャキシャキとした炒め野菜、濃厚で甘みのあるスープ、そして炊きたての白米がたっぷり入った大きな茶碗が並べられていた。


 辺りに漂う料理の香りに、武の食欲は一気に刺激された。


 腹の底から再び強烈な空腹感が湧き上がり、今すぐ目の前の料理を全部ひと口で飲み込んでしまいたいほどだった。


「うんうん、いただきます!」


 武は両手を合わせ、この上なく敬虔な様子でそう言った。


 そして待ちきれないとばかりに箸を手に取り、勢いよく料理を頬張り始めた。


 由美子は、いつもの調子を取り戻した武を見て、思わず小さく笑みを浮かべ、ようやく胸を撫で下ろした。


 食事は何事もなく順調に進み、武が先ほどまでの制御できない奇妙な感覚に邪魔されることもなかった。


 それ自体は喜ばしいことだった。


 だがその一方で、武は自分の身体に何らかの問題が起きているという確信を、ますます強めていた。


 早く原因を突き止めて解決しなければ、このままではいつか本当に取り返しのつかないことをしてしまいそうな気がする。


「そういえば、武くん」


「ん?」


「来週、町に行くでしょう?」


「どうしたの?」


 武は大きな肉を一切れ箸でつまみ、そのまま口へ放り込んだ。


「何か買いたいものはある?」


 由美子は武のためにスープをよそいながら尋ねた。


「うーん……分かんない」


 確かに武は、水属性の魔術について書かれた本を何冊か買いたいと思っていた。


 だが、自分の水属性魔術など水やりにしか使えないことを思い出すと、急にそんな本を買うのがもったいなく感じられてきた。


 何しろ、この程度の威力では戦闘の役には立たない。


 せいぜい即席で作った焚き火を消したり、血で汚れたナイフを洗ったりする程度で、本当に役立つ場面などほとんど思いつかなかった。


 その時、武はふと、物理学におけるごくありふれた概念を思い出した。


 圧力。


 今の自分が放つ水流の威力が小さいのは確かだ。


 だが、水が出る出口をもっと小さくしてみたらどうなる?


 あるいは、魔力を圧縮してから放出したら……。


 魔力を放出する速度を上げる方法を考えれば……。


「最近、町に新しいお店がたくさんできたらしいわよ。今回はゆっくり見て回りましょう!」


 由美子が弾んだ声で言った。


「おお~。じゃあ今回は、町に何日くらい泊まるの?」


 武は我に返り、何気なく答えた。


 武にはこれといった物欲がなく、気にしているのは今回の外出に何日かかるのかということだけだった。


「今回のコンテストは、だいたい三日くらいかかるわ。どうしたの? 何かやることでもある?」


「ついでに、前から溜めてた魔物の素材を売りたいんだ」


「そうね。確かにそろそろ売ったほうがいいわね。それじゃあ今回は二日くらい多めに滞在しましょうか。ちょうどその頃、町では市も開かれているはずだし、もしかしたら高く買い取ってくれる人がいるかもしれないわ」


 そう言いながら、由美子は焼いた肉を一切れ箸でつまみ、武の茶碗へ入れた。


 武は頷くと、再び食事に没頭した。


 食べている途中、武はふと、自分の食欲が以前よりずいぶん増していることに気づいた。


 もともとこれだけ食べれば満腹になると思っていた量なのに、今はまだ六分目ほどにしか感じない。


 そのことに、武は少し驚いた。


 まさか俺、飯を食うことしかできない豚になったのか?


 いや、そんなわけないだろ。飯を食ってるうちに人間が豚になるなんて、いくらなんでもおかしすぎる。


 ……ないよな?


 そもそも武は以前から、普通の人間の五、六倍は食べていた。


 それがさらに増え続けるとなれば、本当に一般家庭の家計を食い潰しかねない。


 幸い、武たち一家は森の資源を利用して自給自足の生活を送っている。


 だから武の食事量が今の三倍、四倍に増えたところで、まだ十分に余裕があった。


 何しろこのご時世、魔物が棲みつく森の中にわざわざ住もうとする物好きなど、彼ら一家くらいしかいないのだから。


 武はあっという間に手元の茶碗を空にすると、その空になった茶碗を由美子へ差し出した。


「母さん、もう一杯!」


 由美子が箸でご飯粒をつまんでいた右手が、一秒ほど宙で止まった。


 それからようやく茶碗を受け取り、立ち上がって武のためにご飯をよそい始める。


 どうやら今の一言は、由美子にとっても少し意外だったらしい。


「まだお腹が空いてるならちゃんと言ってね。ママ、もう少しおかずを作ってあげるから」


 由美子はご飯をよそいながら言った。


「大丈夫、大丈夫。もうそろそろお腹いっぱいになりそう」


 武は、母さんから差し出された山盛りのご飯が入った茶碗を受け取った。


「食べすぎてお腹を壊さないようにね~」


 母さんは、相変わらず勢いよく食べ続ける武を見ながら念を押した。


「だいひょうぶ、だいひょうぶ。俺の胃はふごいから」


 武は口いっぱいに食べ物を詰め込んだまま答えた。


「はいはい。ゆっくり食べなさい。そんなに急がなくても大丈夫だから」


 そう言うと、由美子は箸で野菜を何枚かつまみ、武の茶碗へ入れた。


 さらに白米を三、四杯、おかずと一緒に平らげたところで、武はようやく満腹になった。


「食った……もう食えない。げふっ!」


 武は全身の力を抜いて椅子にもたれかかり、満足そうな顔で自分のお腹を撫でた。


 この世界に生きていて、本当によかった。


 夕食後。


 由美子が食器をきれいに洗い終えると、二人は一緒にソファへ座り、少し映りの悪いテレビを眺めながら、しばし穏やかな時間を過ごした。


 このテレビは、以前山を下りた時に母さんが抽選で当てたものだ。


 本体下部にある電池ボックスで動作し、録画テープを特定のスロットへ入れることで、決まった映像を再生できる。


 ただ、かなり古い型らしく、再生中に時折画面が白黒になることがあった。


 二人がもう何度見たかも分からないお決まりの展開を眺めていると、突然、由美子の右手に耳かきが現れた。


 そして自分の太腿を何度か軽く叩き、武へ横になるよう促した。


「武くん、ほら。耳かきの時間よ」


「おう、今行く!」


 武は少しもためらうことなく、慣れた様子で身体を横たえ、由美子の弾力のある雪のように白い太腿へ頭を乗せた。


 耳かきは毎週恒例の習慣の一つであり、二人にとってはすでに当たり前のことだった。


 ただ、今回の耳かきの最中、由美子は突然、武にいろいろなことを尋ね始めた。


 由美子は武の耳元の髪を少しかき分け、丁寧に耳の中を掃除し始めた。


 テレビの物語は変わらず流れ続け、リビングには俳優たちの台詞だけが響いていた。


「武くん、山を下りて暮らしてみたいって思ったことはある?」


 由美子が柔らかな声で問いかけた。


「ない。母さんと山にいればいい」


「う~ん……新しい友達を作ってみたいって思ったことは?」


「ない。母さんと一緒にいればいい」


「武くん、山での暮らしって退屈じゃない?」


「退屈じゃない。母さんといれば毎日楽しい」


「外の世界はきれいよ。珍しいものもたくさんあるし、武くんも見に行ってみたくない?」


「うーん……母さんが行くなら、俺も行く」


「ママね、昔あなたのご両親と仲がよかった人たちに会いに行きたいんだけど、武くんも一緒に行かない?」


「……」


「あの人たちは昔、あなたのご両親を何度も助けてくれたの。ママもそろそろ、一度会いに行かないとね」


「……」


 そのあとも由美子はいくつか質問をしたが、武から返事はなかった。


 どうやら眠ってしまったらしい。


 由美子もそれ以上は何も言わず、ただ指先で武の黒髪を何度も優しく梳いていた。


 やがて由美子は顔を上げ、窓の外へ目を向けた。


 庭の外にある駆魔台は、変わらず淡い光を放っている。


 由美子は視線を戻し、もう一度、眠っている武を見下ろした。


「おやすみ」


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