第七章 欲の神器
どれほど時間が経ったのか。
武がゆっくりと目を開けると、そこには見慣れたリビングが広がっていた。
テレビの画面はとっくに真っ暗になっており、先ほどまで隣に座っていた由美子の姿もすでになかった。
武は何度か瞬きをすると、ゆっくりとソファから身体を起こした。
「寝ちゃったのか……」
「母さん、何かいくつか質問してたような気がするけど……何だっけ?」
武は少し乱れた髪を掻いた。
ザーザー。
浴室から絶え間なく水の流れる音が聞こえてくる。
母さん、今風呂に入ってるのか?
武はあくびを一つすると、立ち上がって自分の部屋へ戻ろうとした。
しかし、なぜかその視線は浴室のほうで止まった。
その時、武はふと思い出した。
浴室の扉は長年ろくに修理されていないせいで傷んでおり、今はきちんと閉まらない状態になっている。
今行けば、扉の隙間から……。
いやいや、駄目だ! 何考えてるんだ、俺!
武は激しく頭を振り、その邪念を無理やり振り払おうとした。
だが、その考えを頭から追い出そうとすればするほど、得体の知れない衝動がますます強くなっていく。
まるで意識の奥底に何かが潜み、本来なら一瞬頭をよぎるだけで終わるはずの考えを、絶えず増幅させているかのようだった。
武は下半身へ血が集まっていくのを感じた。それと同時に、何とも言い表しがたい刺激が頭の中から全身へと広がり、心臓の鼓動も次第に速くなっていく。
やる? やらない?
武の心の中にある天秤が激しく揺れ始め、その両側には、まるで分銅のように利点と欠点が次々と積み重ねられていった。
俺はただ、扉の鍵が壊れてないか確認しに行くだけだ……。
うっかり浴室のほうを一目見てしまうだけ……。
母さんだって気づかないかもしれない……。
たとえ見つかっても、母さんならきっと俺を責めたりしない……。
次から次へと、馬鹿げた言い訳が武の頭に浮かんでくる。
その時だった。
武の頭の中で、何か見えない糸がぷつりと切れた。
武は勢いよくソファから立ち上がった。
どうやら心の中で、何かを決意してしまったらしい。
不安と妙な興奮を抱えながら、武は足音を殺して浴室へと向かった。
長年、森の奥深くを歩き回ってきたことで身についた軽やかな足取りを活かし、武は野良猫のように物音一つ立てず浴室の扉の前までやって来た。
絶え間なく続く水音が、木製の扉越しにはっきりと聞こえてくる。
武はすぐには近づかなかった。
今自分がしていることは、まるで綱渡りのように危険だと分かっていた。いつ何が起きてもおかしくない。
駄目だ。こんなの間違ってる……。
あと少しだけ前に行けばいい……。
駄目だ。今すぐ戻るべきだ……。
一目だけ。
一目見るだけだ。見たらすぐ戻る。
結局、膨れ上がり続ける異常な衝動に負け、武は自分の好奇心を満たすため、そっと顔を扉の隙間へ近づけた。
そして武が妙な興奮を覚えながら下のほうを覗き込もうとした、その時――
「いい眺めか?」
不意に聞こえてきた声に、武は完全にパニックに陥った。
全身の力を振り絞り、途中でどれほど大きな音を立てているかなど気にも留めず、一目散に自分の部屋へ駆け込んだ。
バタン!
武は動揺したまま扉を閉め、すぐさま鍵をかけた。
そして全身の力が抜けたかのように、その場で扉にもたれながらへたり込んだ。
「終わった……俺の人生、もう終わった……」
武はこの世の終わりのような顔で呟いた。
「終わった? 何が終わったんだ?」
「それは、俺が覗き……」
その瞬間、武の頭は完全に覚醒した。
目つきが一瞬で鋭くなり、一秒にも満たない時間ですべての混乱した感情を断ち切る。
そして座り込んでいた姿勢から瞬時にしゃがみ込む姿勢へ移行し、そのまま戦闘態勢を取った。
武には分かった。
男の声だ。
しかも先ほどの「いい眺めか?」という言葉も、おそらくこの声の主が発したもの。
つまり、この家の中にはもう一人、男がいる!
机、ベッドの下、クローゼット、窓。
人が隠れられそうな場所を、武は一瞬ですべて視界に収めた。
だが、見える範囲には何もない。
だとすれば、この男は扉の後ろか……それとも俺の真上……。
室内には一触即発の空気が漂った。
武は正面を見据えたまま、余計な動きを一切見せない。
武は迂闊に顔を上げて頭上の安全を確認することもせず、ただ静かに周囲の気配を探った。
可能性は二つ。だが、選べるのは一つだけだ。
判断を誤れば、最悪の場合、その場で命を落とす可能性すらある。
今は双方が微妙な均衡の上に立っている。
敵がどこにいようと、自分が最初の一瞬で優位に立てるとは限らない。
「ハハハ! ずいぶん驚いたようだな」
紫色の炎が一つ、何の前触れもなく宙に浮かび上がった。
武は目の前に現れた炎を見ても警戒を解かなかった。
目を細め、その正体を見極めようとしながら問いかける。
「お前、何なんだ? ここで何してる?」
「無礼者! よく聞け、小僧……」
「我こそは天下第一の神器――ディゼル! 世の欲を集め、世の望みを奪い、万悪の邪を滅ぼし、万物の源を統べる者なり!」
「どうだ、小僧。心が躍るだろう? 我に宿主として選ばれたのだ。もっと誇ってもよいぞ」
目の前でディゼルと名乗る紫色の炎が延々と自分について語り続けるのを聞きながら、武の頭に真っ先に浮かんだのは、この炎を指でつまんで消してしまうことだった。
だが、それでは根本的な解決にはならない。
そもそもこの炎に触れられるのかどうかすら分からないうえ、もし背後で誰かがこの炎を操っているのなら、いくら炎を消したところで意味はない。
とはいえ、相手には今のところ攻撃する様子がない。
武はあえて泳がせ、こいつがいったい何を企んでいるのか探ることにした。
「何を言ってるんだ?」
武は依然として警戒態勢を崩さないまま尋ねた。
「ん? 我が名を聞いたことがないのか? まあよい。山野で暮らす者なら仕方あるまい。だが、『神器』くらいは聞いたことがあるだろう?」
紫色の炎がゆらりと揺れた。
神器……。
そういえば、母さんが似たような話をしてたな。
確か……。
千年前、大量の魔物が異門から侵入した。
当時の人類は魔物を前に敗走を重ね、多くの死傷者を出し、至るところが戦火の煙に覆われていた。
魔物の猛攻を前に、人類は後退を余儀なくされ、広大な領土を放棄するしかなかった。
やがて人類に残されたのは、たった一つの孤城だけとなった。
誰もが絶望し、すべてを諦めかけていたその時、金色の光をまとった三柱の神々が突如として天から舞い降り、人類へ無数の神器を授けた。
それによって、人類はようやく絶望的な状況から反撃する機会を得た。
そして神器に選ばれた者たちは、総じて「聖者」と呼ばれるようになった。
聖者は神器を通じて強大な力を得ることができる。
最終的に人類はその力によって魔物を退け、奪われた故郷を取り戻した。
その中でも特に大きな功績を残した聖者たちは、当然ながら民衆から絶大な尊敬を集める存在となった。
つまり、目の前に浮かんでいるこの炎は、人間を聖者にできる神器ってことか?
いや、違う。
母さんは、神器にはそれぞれ固有の器があり、その外見も一つ一つ異なると言っていた。
でも目の前にあるのは、形も実体もないただの炎だ。
これを神器と呼べるのか?
「いろんな神器があるのは知ってる。でも、お前みたいな神器は聞いたことがない」
武は改めて目の前の紫色の炎を観察した。
実のところ、武は神器についてそれほど詳しいわけではない。
知識のほとんどは母さんから聞いたものだったが、その母さんも詳しく語ることはなく、多くは概要を教えてくれただけだった。
だからこそ武は、この紫色の炎から少しでも多くの情報を引き出せないか試してみることにした。
「それも当然。我は器の制約を受けぬ唯一の神器だからな。三神主は我を『闇に潜む奇兵』と呼んだ。ゆえに、他の神器とは当然異なる。とはいえ、三神主は我を収めるための器も作ってはいるがな」
「忘れたのか? あの紫色に金の縁取りが施された箱を」
その言葉を聞いた瞬間、武の脳裏に、今朝あの箱を開けた際、正体不明の気体を顔いっぱいに浴びた光景が蘇った。
「……あれ、お前だったのか?」
母さん、とんでもないもの拾ってきたんだな。
いったいどこで拾ったんだ……。
「その通り。さあ、小僧。そろそろ決断の時だ……我と――」
突然、武の背後にある部屋の扉が激しく何度か叩かれた。
続いて、少し焦った様子の女性の声が聞こえてくる。
「武くん! 大丈夫!? さっきすごく大きな音がしたけど、何かあったの?」
武は瞬時に現在の状況を分析し直した。
目の前にいる、自らを神器と名乗る紫色の炎。
正体不明。
目的不明。
能力不明。
そして扉の向こうには、自分が守るべき最愛の家族がいる。
余計な問題を起こさないためにも、今は母さんをここから離れさせるのが最善だ。
「母さん、大丈夫。ちょっと転んだだけだから。何ともないよ」
「本当に? 一度出てきて、ママに怪我してないか見せてくれない? 気づいてない傷があったら……」
「母さん、本当に大丈夫。擦り傷一つないから。本当だよ。心配しなくていい」
「そう……? じゃあ、どこか痛くなったりしたら、絶対ママに言うのよ」
「うん、分かった」
母さんの足音が少しずつ遠ざかっていく。
やがて部屋の中は、再び静寂に包まれた。
武は目の前の紫色の炎を警戒したまま、一言も発しなかった。
「小僧。まだ我を警戒していることくらい分かっている。それに、部屋の外にいるあの女がお前にとってどれほど大切な存在なのかも……」
その言葉が終わるより早く、武の全身から凍てつくような、そして凄まじい殺気が噴き出した。
その殺気によって生じた波動は家の外にいる小動物たちすら驚かせ、野原のあちこちに生える草むらが、逃げ惑う動物たちによって激しく揺れ始める。
武は何もしていない。
ただディゼルを見つめているだけだった。
だが、その鋭く凄絶な眼差しは、まるで数千万本もの刃が一斉にディゼルへ突きつけられているかのようだった。
なぜかは分からない。
だがディゼルは突然、これまでにないほど強烈な危機感を覚えた。
「小僧、よく聞け! 我に悪意はない! 今や我とお前は一体となっているのだ。我がお前を害する理由などない! 我はただの神器だ。魔物と戦うために作られた神器にすぎん。最低限の自我こそあるが、お前に悪影響を及ぼすことはない。それに神器には、宿主へ危害を加えてはならないという制約がある。当然、それは宿主の家族も含まれる!」
ディゼルは怯んだ。
長い年月を生きてきたディゼルにとっても、これほど危険な宿主に出会ったのは初めてだった。
これまでの宿主といえば、私利私欲にまみれた者や、野心に燃える者ばかり。
誰もが何としてでも成し遂げたい目的を抱えていたため、適当に話を合わせてやりさえすれば、我先にとディゼルと契約を結び、聖者になろうとした。
だが、目の前の男は違う。
こいつは今、本気で我を斬ろうとしていた。
我が神器だと知ったうえで、それでもなお斬ろうとしていたのだ。
もっとも、それ自体は大した問題ではない。
ディゼルには実体がない以上、そもそも斬ることなどできないのだから。
何より恐ろしいのは、目の前の男がまだ契約すらしていないにもかかわらず、ディゼルの持つ欲望の力をわずかながら引き出したことだった。
それこそが、ディゼルが本気で怯んだ最大の理由だった。
ディゼルの説明を聞き終えると、武の目に宿っていた殺気がようやく少しだけ薄れた。
部屋を満たしていた息苦しいほどの緊張感も、徐々に和らいでいく。
ディゼルは内心、ほっと胸を撫で下ろした。
あと数秒、降参するのが遅れていたら、自分は間違いなく宿主に殺された史上初の神器となり、神器界最大の笑いものになっていただろう。
だが、波が荒ければ荒いほど、魚の値も上がるというもの。
ディゼルは武に宿った時点で、あることに気づいていた。
武の精神力は高い。
とてつもなく高い!
身体の構造こそ残念な閉塞体質だが、それを補って余りあるほど精神力が強い!
一般的な魔術師の精神力の総量が小さな池だとするなら、武のそれは湖。
いや!
果てすら見えない広大な大海原だ!
三神主によってディゼルが生み出されて以来、これほど膨大な精神力を持つ宿主に出会ったのは初めてだった。
歴代すべての宿主の精神力を合わせたところで、おそらく武一人にも届かない。
精神力と魔力は異なる。
魔力とは、魔術を発動する際に消費するエネルギーにすぎない。
一方で精神力は、精神系の魔術攻撃に抵抗したり、契約できる眷属の数を増やしたりするために使われる。
そして何より重要なのは、より多くの異なる魔術適性をその身に宿すことができるという点だった。
一般的に、人間の精神力の強さと、その者が持つことのできる魔術適性の数は、ほぼ比例している。
つまり精神力が強ければ強いほど、その身に宿せる魔術適性の数も多くなるということだ。
そして「銘刻の儀式」を行うことで、魔術師は元々持っている魔術適性とは別に、新たな魔術適性を獲得できる可能性がある。
儀式の成功率は決して高くない。
それでも魔術師にとっては、自らの可能性を賭ける機会が与えられる。
生まれ持った魔術適性による成長の限界に、ただ縛られ続ける必要はなくなるのだ。
もっとも、自分は長い年月眠り続けていた。
銘刻の儀式が今の時代まで受け継がれているのかどうかは、ディゼルにも分からない。
だが、自分の能力による助けさえあれば、この広大な精神力を持つ男は、間違いなくこの世界最強の聖者になれる。
これほど自分との相性がよく、特殊な才能まで備えた宿主を、みすみす逃すわけにはいかない。
あのボロ箱の中で何年も待ち続けてきたのは、将来性のある宿主と出会うためではなかったのか。
「ゴホン……若き友よ、改めて自己紹介しよう」
「我は欲の神器、ディゼル。天下に満ちる欲望を操り、その力をお前のものとすることができる。我と契約を結び、我が宿主となれば、お前はごく短期間で天下を睥睨するほどの聖者様へと成長できるぞ! 万人から愛され、敬われ、美女も美酒も思いのままだ!」
ディゼルはそう語りながら、武の周囲をくるくると飛び回った。
「どうだ? 想像しただけでも胸が高鳴るだろう!」
「本当に?」
「無論、本当だとも! 我が歴代の宿主は皆、一方を統べる覇者となった! これについては我が胸を張って保証しよう!」
ディゼルは嘘をついていなかった。
歴代の宿主の大半が、実際に一方を統べる覇者となっていた。
ただし最後には、その誰もが欲望の力による反動に耐えきれず、自滅していった。
それこそが、ディゼルがあの箱とともに各地を転々としてきた理由でもある。
今に至るまで、あの力を真の意味で制御できた者は一人もいなかった。
「もし本当にお前の言う通りなら……確かに魅力的な条件だな……」
武は俯き、考え込むように言った。
「だろう、だろう! さあ、我と契約するのだ! こんな幸運、誰にでも巡ってくるものではないぞ! 素晴らしい未来が我らを待っている!」
ディゼルは武の目の前まで飛んでくると、これでもかというほど媚びた口調でそう言った。
延々と続くディゼルの口車を聞き終えると、武は顔を上げた。
そして真剣な表情で言い放った。
「だが断る!」




