第五章 妙な知識が増えた
武が再び我に返った時には、すでに自分の部屋にいた。
武は何度か瞬きをし、見慣れた天井をしばらくじっと見つめた。
俺、いつ帰ってきたんだ?
武は身体を起こし、周囲を見回した。
彼の部屋はとても簡素で、基本的な寝具や机、本棚、それにいくつかの日用品が置かれている以外、余計な飾りらしいものはほとんど見当たらない。
あえて目立つものを挙げるとすれば、部屋の隅に置かれた、この部屋にはあまりにも不釣り合いな巨大なバーベルくらいだろう。
武が部屋全体を見回してみると、どうやら掃除された形跡があった。床には塵一つなく、ゴミ箱も空っぽで、植木鉢の植物の葉まで濡れている。おそらく母さんが出かける前に、ついでに手入れしてくれたのだろう。
母さんがどうやって145キロもある自分を部屋まで運んだのかは分からないが、まあ母さんのことだ。きっと何か方法があるのだろう。
それから武は恨めしそうな表情で自分の右手を見つめ、俯きながら嘆いた。
「まさか俺が使えるのが、一番ありふれた水属性の魔術だったなんて……」
『世界魔術大全』に書かれていた内容によれば、この世界で最も多い魔術適性は水属性で、魔術師全体の40%を占めている。また、人体との親和性が最も高い属性とも言われていた。
魔力量が足りず、まともに魔術を使うことのできない者まで含めたとしても、水属性の適性を持つ者は依然として他の属性を大きく上回っている。
とはいえ、それも別に悪いことではない。
水属性の魔術を使う者がこれだけ多いのなら、それに関連する術式や研究、応用方法もかなり充実しているはずだ。
来週、町へ行く時に、水属性の魔術に関する本を何冊か買ってきて研究してみよう。
もしかすると、今の自分が正しい使い方を知らないだけなのかもしれない。
天地をも滅ぼすような魔術なんてものは……夢の中だけにしておこう。
現実を受け入れることにした武は、気を紛らわせるために何かすることにした。
ベッドから立ち上がり、母さんが何をしているのか見に行こうとしたその時、視界の端に、机の上に何かが置かれているのが映った。
見ると、一冊の教科書の表紙に白い小さな紙が貼り付けられていた。
紙の周囲には簡単な花の縁取りが描かれ、その中央には見慣れた筆跡で一行の文字が書かれている。
『今週の宿題、ちゃんと終わらせてね~(*^v^*)』
どうやら宿題をやっていなかったことが母さんにバレたらしい……。
仕方ない。今から何とかするしかないか。
武は観念して椅子を引いて座ると、机の上にあった教科書を手に取り、前回どこまで宿題を進めていたのか確認し始めた。
そのほかにも、本棚には何冊かの教科書がきちんと並べられている。
『高等数学概論』
『実用有機化学』
『応用物理学』
『基礎天文学』
『上級日本語』
武は別に、宿題をすること自体が嫌いなわけではなかった。
何しろ、勉強を教えてくれているのは母さんなのだ。言われたことはちゃんと聞かなければならないし、宿題だって必ず期限どおりに終わらせる。
ただ、以前山を下りた時に立ち寄った本屋で、何冊かの教材を手に取ってからというもの、武はどこか違和感を覚えるようになっていた。
あの本屋の教材コーナーで、一番目立つ場所に並べられていた本を、武は今でもはっきり覚えている。
『ゼロから始める魔力修練』
『男なら必修! 初級闘気術』
『野生魔物に共通する習性』
『魔導具学習ガイド』
『憧れの見習い職業十選』
いったい何がどうなれば、外で売られている教材と自分の家にある教科書が、ここまで違うものになるのだろうか?
この疑問は、ずっと武を悩ませていた。
最初の頃、武はどの子供も自分と同じように、毎日机に向かって、教科書にびっしりと並んだ数式と格闘しなければならないのだと思っていた。
だが後になって、それがまったく違うことを知った。
ほとんどの子供は12歳で魔術の才能があるかどうかを確認したあと、それぞれ異なる道へ進む。
魔術の才能がある子供は、抗魔学園の入学試験に合格すると、本格的に魔術の修練を始める。
一方、魔術の才能がない子供は各地にある小規模な教育学園で基礎教育を受け、学業を終えたあとは、家に代々伝わる技術を学ぶか、外へ出て何らかの職業の見習いになる道を選ぶ。
だが、どちらの道を選んだとしても、武の家で学んでいるような特殊な学科は存在しなかった。
さらに奇妙なのは、これらの教科書に書かれている内容が、時としてその通りに再現できないことだった。
以前、母さんは授業の中で、教えている内容が正しいことを確かめるために、いわゆる「実験」というものを行っていた。
ところが、いくつかの実験は何度やっても失敗した。
まるで何か外部からの要因が、実験の進行を妨げているかのようだった。
最初は、自分の操作に何か問題があるのだと思っていた。
ところがその後、母さんが空間全体を「クリア」にすると、実験はようやく成功した。
ここで言う「クリア」とは、一定範囲内に存在する魔力をすべて排除することだ。
母さんがどうやってそんなことをしているのかは分からない。
それでも、いくつかの実験に残された手がかりから、母さんが何をしていたのかくらいは推測できた。
そしてその時、武はようやく、この違和感の正体が何なのかをはっきりと理解した。
それは――魔力だ!
自分が学んできた知識には、最初から「魔力」という要素が完全に排除されていた。
数式に魔力は必要ない。
理論にも魔力は考慮されていない。
それどころか、本の中に書かれたさまざまな自然現象の説明にさえ、魔力に関する内容は一切登場しなかった。
まるでこれらの教科書を書いた人物が、最初から魔力をこの世界の一部として認識していなかったかのように。
そして実験の結果も、それを証明していた。
魔力が存在しないときに限って、これらの知識に記された通りの世界が成り立つのだ。
だが問題は、魔力がこの世界に間違いなく存在しているということだった。
それどころか、自分の身体の中にだって存在している。
それなのに、どうして魔力を一切含まない知識を書くことができる人間がいるのだろうか?
そして、これらの教科書を書いた人物こそ、武の実の父親だった。
母さんによれば、これらの教科書は実の父親が自ら書き上げたもので、この世に一揃いしかないらしい。だから大切に扱うよう言われていた。
その話を聞いた武は、一時期、自分の実の父親は実は名の知れた大学者だったのではないかと疑っていた。
そうでなければ、どうしてこんなにも退屈な……いや、こんなにも独特で斬新な教科書を書けるというのだろう?
残念ながら、その疑問への答えは否定だった。
母さんは、武の実の両親はどちらもごく普通の抗魔使で、学術的な功績など何もなく、ただ旅の途中で人助けをするのが好きだっただけだとはっきり言っていた。
では、なぜ父親がこれほど難解で、しかも魔力という要素を一切含まない教科書を一式編纂することができたのか。
その答えは、本人に聞くしかない。
残念ながら父親はもういない。
もしまだ生きていたのなら、このことについて一度じっくり聞いてみたかったものだ。
それからしばらく猛烈な勢いでペンを走らせたあと、武はゆっくりと息を吐き、額に浮かんでもいない汗を拭ってから教科書を閉じた。
これで今週分の数学の宿題は、ようやく終わった。
武は心底ほっとしたように、椅子の背もたれへ身体を預けた。
しばらく休んでから、武はようやく立ち上がり、大きく伸びをした。
「ん~~!」
身体のあちこちから、パキパキと小気味よい音が鳴った。
気持ちいい。
机の上の本をきちんと並べ直したあと、武は部屋の扉のそばにある本棚へ向かった。
そこには勉強用の教科書のほか、本屋で買ってきた本も何冊か置かれている。
それらの本の内容を思い返しながら、武は認めざるを得なかった。
やはり外で売られている本のほうが、自分にとっては魅力的だった。
もちろん、母さんの教え方とは一切関係ない。
単純に内容の違いだ。
外で買った本に書かれている内容は、武にとってより生活に身近で親しみやすい。
それに比べて、母さんから教わっている専門的な知識には、どこか明らかな距離感があり、自分でもいつになったら役に立つのか分からなかった。
もしかすると、いわゆる並行世界とやらには、本当にこうした数学や物理、化学の知識を使って世界を救える人間がいるのかもしれない。
武はそれ以上深く考えず、振り返って部屋の扉を開けた。
外へ出た途端、包丁がまな板を叩く小気味よい音が、台所から次々と聞こえてきた。
由美子はちょうど台所で、今夜の夕食を準備しているところだった。
武の気配に気づいたのか、母さんは手にしていた包丁を止め、顔を上げて淡い笑みを浮かべた。
「身体の具合はどう? どこか辛いところはない? ほとんどの人は初めて魔術を放ったあと、精神的な疲労や全身の脱力感といった症状が出るの。どれも普通のことだから、ちゃんと休めば大丈夫よ」
「あはは……身体はもう何ともないよ。何か手伝うことある?」
武は気まずそうに笑い返した。
本当は身体など何ともない。
ただ、あまりにも脆かった心の防壁を打ち破られ、精神的な傷を負っただけなのだが、そんなことはとても言えなかった。
由美子は指を顎に当て、真剣にしばらく考えた。
「あっ! そういえば、家に薬草がまだ何株か残っていたはずよ。せっかくだから、全部回復薬にしておいてくれる? いざという時のために」
そう言い終えた途端、母さんの目の前にある木のテーブルの上に、鮮やかな緑色の薬草が数株、忽然と現れた。
薬草からは、爽やかな香りが漂っている。
「分かった。今から作ってくる」
武はそれ以上何も言わず、手を伸ばしてテーブルの上にある薬草をすべて収納の指輪へしまった。
そのまま立ち去ろうとした武だったが、なぜか由美子の姿に一瞬だけ視線が止まった。
昼間にも感じたあの妙な感覚が、再びかすかに湧き上がってくる。
武はすぐに視線を逸らした。
「俺、先に行ってるから!」
そう言うなり、武は足早に台所をあとにした。
慌ただしく立ち去っていく武を見ても、由美子は特に気にする様子もなく、再び料理へと意識を戻した。
別に武だって、母さんと話を続けたくないわけではない。
ただ、自分の視線がどうしても母さんの身体で特に目立つ部分へ勝手に吸い寄せられてしまい、しかもなかなか目を逸らせないことに気づいてしまったのだ。
ずっと見つめていることが母さんにバレたら、さすがに気まずすぎる。
まさか本当に、物理学で言う「物体の質量が大きいほど引力も大きくなる」というやつなのか?
はぁ……。
前までは普通に母さんの顔を見て話せていたのに、どうして急にこんなことになったんだ。
武は落ち込んだ様子で自分の小さな加工部屋へやって来ると、勢いよく頭を振り、余計な考えを追い払って回復薬作りに集中することにした。
もう考えるな。
まずは母さんに頼まれたことを終わらせよう!
武は慣れた足取りで作業台の前へ向かい、先ほど受け取った7株の薬草をすべて取り出した。
さらに森で採取した2株を加え、合計9株の薬草を並べる。
武はすり鉢を手に取り、薬草を3株入れてすり潰し始めた。
薬草から緑色の汁が十分に染み出したところで、今度は清潔な白い布を取り出し、不純物を濾し取る。
最後に、澄んだ緑色の液体をガラス容器へ注ぎ込めば、初級回復薬が一本完成した。
この一連の作業は、武にとってもう何度やったか分からないほど慣れたものだった。
薬草3株につき、初級回復薬を一本作ることができる。
それからまたしばらく作業を続けると、淡い緑色の液体が入った三本のガラス瓶が、机の上にきれいに並んだ。
武は満足そうに頷き、三本の初級回復薬をすべて収納の指輪へしまった。
武は窓の外へ目を向けた。
夕日はすでに少しずつ西へ沈み始めており、橙色に染まった残光が窓を通り抜け、武の顔を照らしていた。
「もう五時過ぎか……」
夕食ができるまでにはまだ少し時間がありそうだったため、武はついでに今日手に入れたものを確認することにした。
初級回復薬×3。
スライムの粘液×4。
獣皮×4。
獣肉×3。
小型魔核×5。
今日の戦利品を眺めながら、武は満足感を覚えた。
今日はこれだけ動き回った甲斐があったというものだ。
来週は町の催しに参加する予定がある。そのついでに、これらの素材もまとめて売って、いくらか羽貨を稼いで家計の足しにしよう。
「うん、こんなところだな! 終わり!」
すべての物を収納の指輪へ戻すと、武は家の周囲を一回りして、魔物を防ぐための防御設備を確認することにした。
駆魔台に異常はない。
塀にも新しい穴はない。
菜園の近くにも、魔物が残したような足跡は見当たらなかった。
すべて普段どおりであることを確認すると、武はようやく手についた埃を軽く払い、満足そうに立ち上がった。
いつの間にか、辺りはすっかり暗くなっていた。
家の中には暖かな明かりが灯り、夕食の香りが半開きの窓から庭へと漂ってくる。
「ご飯できたわよ~!」
聞き慣れた声が家の中から響いた。
「今行く!」
武はすぐに振り返り、家の扉へ向かって歩き出した。
扉を開ける前に、武は無意識に一度だけ屋外を振り返った。
できることなら、こんな日々がずっと続けばいいのに。




