第四章 魔術の練習
まだ家に着く前、武は遠くから、見慣れた人影が門の前で待っているのを目にした。
その姿を目にした武は、無意識に歩く速度を少し速めた。
「母さん、ただいま~」
前回の教訓を覚えていたのか、今度の武はいきなり飛びつくことはせず、由美子の前でしっかりと足を止めた。
武が無事に帰ってきたのを見て、由美子のどこか心配そうだった表情がすぐに和らいだ。
「帰り道で何かあったの? どうしてこんなに時間がかかったの?」
由美子は再びいつもの優しい笑顔を浮かべた。
武は顔を上げて少し考え、すぐには答えなかった。
起きたことが本当に多いな。ちょっと考えさせてくれ……。
昼間、森から飛び出してきた幻影狼。
桜の木から現れた謎の光球。
異門から出てきた凶魔の長牙猪。
そして、自分の身に突然現れた特殊な能力。
どうして今日に限って、こんなに変なことばかり起きるんだ……。
武が手を上げ、今日起きた数々の奇妙な出来事を由美子に話そうとした、その時だった。
まるでその瞬間を狙っていたかのように、武の腹からぐうっと音が鳴った。
それを見た由美子は笑い、軽やかな声で言った。
「やっぱり先にご飯にしましょう~。じゃないと、せっかくのお料理が冷めちゃうわ」
「へへ~」
武は少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
家の中へ入ると、食欲をそそる料理の香りが一気に鼻へと押し寄せてきた。
武はその匂いに刺激された腹が、猛烈に空腹を訴えているのをはっきりと感じた。
食卓まで来ると、武は待ちきれない様子で椅子を引いて座った。
由美子は炊飯器のそばへ行き、空の茶碗を一つ手に取ってご飯をよそい始めた。
自分のためにご飯をよそう由美子を見ていると、その一つ一つの仕草があまりにも上品で優雅に見え、武の胸には自分でも説明できない高鳴りが生まれた。
ほどなくして、高く盛り上がった白いご飯の小山が武の前に現れた。
「はい~」
「ありがとう、母さん!」
だが、茶碗を受け取った武はすぐにご飯をかき込もうとはせず、由美子の胸元にできた深い谷間をじっと見つめていた。
武がいつまで経っても動かないのを見て、由美子が優しく声をかける。
「どうしたの? 母さんに何かついてる?」
「何でもない、何でもない。ちょっと考え事をしてて、ぼーっとしてただけ」
武は慌てて顔を背けた。
おかしいな。俺、どうしたんだ? さっき一瞬、頭が止まったみたいになったぞ。
武は胸の内に言葉では説明できない落ち着かなさを感じていた。
心臓の鼓動もいつもより少し速く、なかなか集中することができない。
物心がついて以来、自分の行動を制御できなくなったのはこれが初めてだった。
武は内心、少し慌て始めた。
母さんに自分の異変を気づかれないよう、武は慌てて由美子に尋ねた。
「そういえば母さん、朝は何してたんだ? どうして一緒に墓参りに行かなかったの?」
「あっ、ごめんね、武くん。今朝は一緒に行けなくて」
由美子は申し訳なさそうな顔で答えた。
「前にロペシャおばさんと約束していた新しい肥料が、今日の午前中に届くことになっていたの。受け取り損ねて、ロペシャおばさんにもう一度送ってもらうことになったら申し訳ないでしょう? だから一緒に行けなかったの」
「そうだったんだ。じゃあ、肥料は届いた?」
武は理解したというように頷いた。
「それが、まだなの。変ね。いつもは時間どおりなのに……何かあって遅れているのかしら?」
由美子は不思議そうな表情を浮かべた。
武もそのことは知っていた。
武もよく母さんと一緒に肥料を運ぶのを手伝っている。
肥料そのものは収納の指輪へ直接入れることができるが、運搬経路は街の郊外を抜けて山を登らなければならない。
道中で多少の魔物に邪魔されることもあるため、途中で何か予定外のことが起きるのも珍しくはなかった。
そんなことを考えているうちに、武の視線はまたしても無意識に由美子の胸元へと向かっていた。
武の様子がおかしいことに気づいた由美子は、心配そうに優しく尋ねた。
「どうしたの、武くん? お料理、口に合わなかった?」
「違う違う! 母さんの作るものは全部美味しいよ!」
武は慌てて俯き、ご飯を何口かかき込んだ。
食べることに集中しようとしているにもかかわらず、武は自分の意識がまったく食事へ向いていないことに気づいていた。
ただ無理やり食べ物を口へ詰め込んでいるだけだった。
心の奥底で、まるで何者かの声が絶えず武を惑わせ、衣服の下に隠された白い肌をもっと覗き見ろと囁いているかのようだった。
武の心臓は激しく鳴り響き、全身が何か後ろめたい行動へと自分を駆り立てているように感じられた。
カラン。
武は「うっかり」箸を床へ落とした。
床にぶつかった音はすぐに由美子の注意を引いたが、由美子は武を優しく一目見ただけで、そのままのんびりと食事を続けた。
武は呼吸が少し荒くなり、両手をわずかに震わせながら、衝動に駆られるまま身体を屈めて食卓の下へ目を向けた。
由美子は上品な濃い色の短いスカートを穿き、両脚を軽く揃えて横へ流すように座っていた。その足元には、白く滑らかな素足が覗いている。
しかし、この角度から見上げると、スカートの裾の奥まで視界に入り、光が届きにくくなるにつれて、太腿の付け根あたりは深い影に包まれていた。
そのぼんやりとした影の中には、淡い色合いの布地の縁がかすかに覗いていた。その光景は、まるで焼きつけられたかのように武の脳裏に残った。
武がいつまでも動かないことに気づいたのか、由美子は手を止めて尋ねた。
「どうしたの? お箸が見つからない? こっちまで転がってきたのかしら?」
「見つけた、見つけた! ちょうどもう少しで手が届かないところに落ちてただけ。へへ……」
武は後ろめたそうな顔で食卓の下から身体を起こした。
そのまま箸を拾い上げ、平静を装いながら乾いた笑いで気まずさをごまかす。
由美子はそんな武を見ても優しく笑っただけで、特に疑うこともなく、早くご飯を食べるよう促した。
そんな大それたことをしてしまったあと、武は明らかに心が落ち着きを取り戻し、身体にも本来の空腹感が戻ってきたのを感じた。まるで、つい先ほどまでのことが何もなかったかのようだった。
武は先ほどの異変をそのまま由美子に打ち明けたいと思った。
だが、いつも優しく穏やかな母さんが、それを知って自分に偏見を持ったり、嫌悪したりするのが怖かった。
何度も心の中で葛藤した末、武は結局、この秘密を胸の奥深くへしまっておくことにした。
これが武にとって、生まれて初めて母さんに何かを隠した瞬間だった。
胸の奥から湧き上がる強烈な罪悪感に耐えるため、武は急ぐように、今日自分が遭遇した数々の奇妙な出来事を由美子へ話し始めた。
由美子は武の奇妙な体験を静かに聞き、途中で口を挟むことはなかった。
昼間、森に現れた幻影狼。
墓地で突然現れた白い光球。
そして空中に突然開いた異門と、そこから現れた長牙猪。
危険な場面の話になると、由美子の眉には時折わずかな心配の色が浮かんだ。
それでも、ほとんどの間はいつもの優しい笑顔を保っていた。
異門が再び現れたと聞いてさえ、由美子はそれほど大きな反応を見せず、まるでそうした出来事には慣れているかのようだった。
「それで、俺、魔核の中にある魔力を直接吸収できるみたいなんだ!」
武は得意げな顔で両手を差し出した。
由美子は武の両手を一目見ると、その眉をほんのわずかにひそめた。
しかし、それも一瞬のことで、すぐに再び柔らかな笑顔へ戻った。
「母さん! 俺、もしかして魔術を使えるようになったんじゃないか?」
武は身を乗り出し、興奮した顔で尋ねた。
「そうね……武くんは小さい頃、確かに魔術適性の検査を受けたことがあるわ。ただ……」
由美子の表情が突然、どこか微妙なものへと変わった。
「本当に!? 俺、本当に適性があるの!?」
その答えを聞いた武は、興奮のあまり椅子から立ち上がりそうになった。
「ただ、結果は武くんが想像しているものとは少し違うかもしれないけど……本当に知りたい?」
由美子は少し困ったような笑顔を浮かべた。
「もちろん! 早く教えてくれ!」
「そんなに急がないの。まずはご飯を食べ終わりましょう? そのあと庭で魔術の練習をしましょう」
「うん!」
肯定的な答えをもらった武は、凄まじい勢いで食卓に残っていた料理をすべて平らげ、自分から食器まで片づけた。
さらに少しだけ由美子が食事を終えるのを待つと、武は待ちきれない様子で彼女を連れ、家の外にある庭へ向かった。
しかし、なぜか由美子の表情には、先ほどからどこか申し訳なさそうな色がかすかに浮かんでいた。
だが、興奮に浸っている武は、その微妙な表情の変化には気づいていなかった。
「母さん、早く俺が昔どんな魔術を使えたのか教えてくれよ!」
武は両手を腰に当て、期待に満ちた表情で言った。
「そうね、武くん。長い間魔術を使っていなかったから、これから母さんがまず体内を流れる魔力を感じ取れるように誘導してあげるわ。最後にその魔力を外へ放出してみれば、自分がどんな魔術を使えるのか分かるはずよ」
由美子は少し考えを整理してから、優しく説明した。
「えっ? そんなに簡単なの? 呪文を唱えたり、何か決まったポーズを取ったりしなくていいのか?」
武は少し不思議そうに尋ねた。
「た……たぶん、必要ないと思うわ……」
由美子は後ろめたそうに笑い、視線を逸らした。
「まずは武くん、服を脱いで」
「おう! 分かった!」
武はあっという間に上着を脱ぎ、スポーツ用の短パン一枚だけになった。
長年の鍛錬で作り上げられた身体には逞しく引き締まった筋肉がつき、腹部にはくっきりと八つに割れた腹筋が浮かんでいる。
この時の武は期待に満ちた顔をしており、すでに自分が軽く手を振るだけで凄まじい魔術を放つ姿を想像し始めていた。
雷を呼び寄せるような天地を揺るがす高等魔術までは望まない。
地面を砕くような土属性の魔術でもいい。
あらゆるものを焼き尽くす火属性の魔術でもいい。
それすら駄目なら、せめて暴風を操る風属性の魔術でも、武としてはまったく問題なかった!
どれも武が家にある『世界魔術大全』という本で見たことのある魔術だった。
一度も自分で魔術を使ったことのない武にとって、そんな派手で格好いい技の数々には、当然ながら抗いがたい魅力があった。
「準備はできた、武くん? 母さん、始めるわよ」
「できた! いつでも始めていいぞ!」
武は期待を隠しきれない顔で答えた。
由美子はゆっくりと武の背後へ歩み寄り、魔力を誘導するために身体を近づけた。
由美子は武の両手を取り、丁寧に右手を「7」の形に整えると、自分の左手で武の左手の人差し指を優しく包み込んだ。
背中に伝わる豊かで柔らかな感触に、武はたちまち全身から力が抜けそうになり、両脚までふらついて危うく立っていられなくなるところだった。
「武くん、これから母さんが魔力を送るから、その感覚をしっかり覚えて、身体の中で何度か循環させるの。最後に右手の人差し指から外へ出すのよ。分かった?」
武は慌てて平静を装いながら頷いた。
直後、左手の人差し指から温かな感覚が伝わり始め、そこから少しずつ周囲へ広がっていった。
「武くん、母さんの手に合わせてこの魔力を動かして。まずは左手から心臓へ」
由美子は指先を武の逞しい左腕へそっと当て、そのままゆっくりと胸の左側まで滑らせた。
不思議な力が彼女の指先に導かれるように腕を通り、武の体内へ流れ込んでいく。
「次は上へ。頭を通って……」
由美子の柔らかな声が耳元で響いた。
その手は魔力の経路を示すように首元から顔の左側を通り、やがて頭頂部へたどり着く。
「頭の上から、もう一度心臓へ戻して……」
由美子の柔らかな吐息が、左チャンネルから右チャンネルへと移っていった。
由美子の手は頭頂部から下へ戻り、首元を通って再び心臓の位置へとたどり着く。
そして武の胸元でゆっくりと円を描いた。
武は、自分の魔力が体内で循環し始めているのを感じた。
「次は心臓からお腹へ……」
由美子の手は武の胸元から腹部へ移動し、そこで円を描くように動いた。
「お腹から根元へ……そして最後にお腹へ戻して……」
ん?
武は何か予想外の言葉を聞いたような気がした。
しかし今は気を散らしている余裕などない。
体内を巡る魔力はどんどん強くなっており、少しでも集中を切らせれば、いつ暴走してもおかしくないように感じられた。
由美子の細く白い手は、武の腹部からゆっくりと下へ滑っていき、下半身を通って、最後には再び下腹部へと戻り、そこで円を描き始めた。
武は精神を集中させ、必死にその魔力の流れを追い続ける。
しかし循環が完成に近づくにつれ、武は何かがおかしいことに気づき始めた。
最初はほんの微かな温かな流れにすぎなかった。
だが、いつからかその流れはどんどん大きくなり、次第に全身を満たし始めている。
武は、自分の身体が絶えず水を注ぎ込まれている容器になったかのように感じた。
内部の圧力が急速に高まっていく。
武にはもう考えている余裕などなかった。
その魔力はすでに自分の制御できる限界を超えようとしている。
全身が強く張り詰め、膨大なエネルギーがこの肉体という枷を突き破って外へ飛び出そうとしていた。
「お腹から心臓へ戻して……右腕を通って、そのまま人差し指から外へ!」
由美子がそう言い終えた瞬間、武の右手の人差し指から猛烈な勢いで水流が噴き出した。
激しい水流は菜園の細い枝や緑の葉へ勢いよく降り注ぎ、陽光を受けて淡い虹まで浮かび上がった。
数秒後、それまで太かった水流が断水でもしたかのように細くなり始める。
水が飛び散る範囲もどんどん狭くなり、最後には普通の小さな水鉄砲ほどの水量しか残らなかった。
まるで男が用を足している時のようだった。
ジャアアア……。
ジャア……。
ジャ……。
「え?」
いや……。
「え?」
武は信じられないという顔で、自分の人差し指から水が出ているのを見つめた。
そのまま機械が停止したかのように、その場で固まってしまう。
「これが武くんの水流魔術よ~。小さい頃は、母さんの代わりにたくさん水やりをしてくれたの。とっても助かったわ!」
武は答えなかった。
納得できないまま、もう一度体内の魔力を動かそうとする。
もっとだ!
出ろ!
プシュッ!
菜っ葉の上に、細い水流が何本か増えた。
武の心が折れてしまうのを心配したのか、由美子は慌てて武の左側から抱き寄せ、その頭を何度も撫でながら、ひたすら褒め始めた。
「武くん、とっても上手よ~。すごい、すごい!」
「こんなに早く魔術を使える人なんて滅多にいないのよ! 武くんが一番!」
「それに魔法陣を描く必要もないし、詠唱に時間をかける必要もないのよ。羨ましがる人だってたくさんいるわ~」
「昔だって、母さんがお花に水をあげる時は、武くんがいっぱい手伝ってくれたのよ!」
由美子の褒め言葉は延々と続いていた。
武の沈黙は、耳が痛くなるほどだった。
しかも武は、どれだけ力を込めても水の量が増えないことに気づいた。
まるで最初に感じたあの膨大な魔力が、自分のものではなかったかのようだ。
いや。
あれ、本当に俺の魔力じゃなかったような……。
あああああああああっ!
こんなの、俺が想像してた魔術じゃない!!!
◇ ◇ ◇
人が滅多に足を踏み入れない、とある資料保管室。
一枚の黄ばんだ書類が、高い場所からひらりと舞い落ちた。
そこには、ある子供の魔術適性検査の結果が記されていた。
『魔術適性検査記録』
氏名:武・伊勢
性別:男
年齢:12歳
魔術適性:水
魔力量:S級
特殊体質:閉塞体質
説明:閉塞体質を持つ者は、空気中の魔力と広範囲にわたって交換を行うことができない。そのため、遠距離魔術および初級を超える魔術を使用することができず、外部への魔力出力効率も極めて低いため、魔術の発展性が制限される。
備考:武・伊勢は両手の人差し指、および身体に存在する開口部からのみ水流を放出することができる。膨大な魔力を有しているものの、閉塞体質の影響によって魔術の作用範囲は極めて狭い。また、その魔術適性は代替性も高いため、特別推薦枠の対象には該当しない。
アストラ予備学園入学選考結果:
不合格




