第三章 墓参り
目の前に広がる少し荒れた墓地を眺めながら、武の胸にはさまざまな思いが入り混じっていた。
墓石の角は長年の風雨にさらされ、すでに所々が削れている。石の隙間からは小さな雑草が何本か顔を出し、手前に置かれた香炉も一角が欠けていた。碑面に刻まれた文字でさえ、いくつかの線が薄くなっている。
武は墓石の前まで歩み寄ると、その場にしゃがみ込み、石の隙間から生え始めた雑草を一本ずつ抜いていった。
毎週こうして手入れに来ているというのに、長い年月が残した痕跡だけは、どうしても綺麗に消し去ることができない。
武には、実の父と母についての記憶がほとんどなかった。
知っている二人の姿といえば、母さんが持っている、絵師に描いてもらった数枚の肖像画くらいだ。
何の感情もないと言えば嘘になる。
けれど、深い思慕を抱いているのかと聞かれれば、それもまた自分を偽ることになるだろう。
なにしろ父と母は、武が生まれて間もなく病気で亡くなったのだ。
二人の顔すら、武はまともに覚えることができなかった。
母さんはいつも、そんな両親の数々の功績について武に話してくれた。
どれだけ多くの被災者を助けたのか。
どれだけ多くの悪人を倒したのか。
どれだけ多くの危機を乗り越えたのか。
そして、どれだけ多くの人々から慕われていたのか……。
そんな昔話をする時、母さんの瞳はいつもひときわ明るく輝いていた。
口元も自然とほころび、まるで当時の光景が今も目の前に浮かんでいるかのようだった。
けれど、武にはそんな母さんと同じ気持ちになることができなかった。
武にとって、それはあくまで一つの物語にすぎない。
ただ母さんと二人、この山奥で穏やかに暮らしていければそれでいい。
大金持ちになりたいわけでも、何かを成し遂げたいわけでもない。
ただ、この静かな日々がいつまでも続いてほしい……。
武は収納の指輪から綺麗な布を取り出し、少量の水で濡らすと、墓石を丁寧に拭き始めた。
その動きはゆっくりとしていた。
墓石の上から両側へと順番に拭いていき、文字の溝に入り込んだ細かな埃まで残さず取り除いていく。
やがて、少しくすんでいた石の表面に再び淡い艶が戻り、付着していた土埃もすっかりなくなった。
そこでようやく武は供養の品を取り出し、墓石の前へ一つずつ丁寧に並べた。
その手つきは優しく、それでいてどこか厳かだった。
すべての準備を終えると、武は墓石の前に跪いた。
火をつけた線香を香炉に供え、両手を合わせる。
そして静かに目を閉じ、心の中で語りかけた。
(父さん、母さん、おはようございます。今週も武が掃除に来ました)
(お二人が見守ってくださっているおかげで、この一週間も大きな出来事はありませんでした。武も由美子おばさんも、ここで元気に暮らしています)
(少しだけ、武にもよく分からない変なことが起きました。でも、どれも些細なことです。武が自分で何とかしますので、お二人はどうか心配なさらないでください)
(由美子おばさんが、来週末に山を下りて花のコンテストの選考に参加すると言っていました。今度こそ、いい結果になりますように)
(最後に、これからも武と由美子おばさんを見守っていてください。大きな災いもなく、大きな病気もせず、何事も無事に過ごせますように)
(武もこれからずっと、この場所を綺麗にして、この土地を守っていきます。どうかお二人も、天の彼方で安らかにお過ごしください)
心の中で言葉を終えると、武はゆっくりと目を開いた。
両手を地面につき、墓石へ向かって丁寧に三度、深く頭を下げる。
いつもの墓参りを終えた武は立ち上がると、大きく伸びをした。
あとは近くに座れそうな石でも探して少し休み、線香が燃え尽きるのを待つだけだ。
そう思って振り返ろうとした、その時だった。
視界の端に、淡く光る白い球体が映った。
「ん?」
小さな白い光の球が、桜の木の表面からゆっくりと浮かび上がってくる。
そのまま宙へ漂い出すと、右へ、左へと不規則に揺れながら、まるで何かを探しているかのように辺りを彷徨い始めた。
そして、その白い光球は少しずつ武との距離を縮めてくる。
武の表情が引き締まった。
しばらく様子を窺ったあと、試すように薬指を伸ばし、宙に浮かぶ光球へそっと触れる。
触れた瞬間、指先にほのかな温もりが伝わってきた。
直後、白い光球は空気に溶けるように、あっという間に消えてしまった。
武は慌てて右手を引っ込め、困惑した表情を浮かべる。
何だ、今の?
光る泡?
桜が早く咲いたことと何か関係があるのか?
それとも、木から染み出した樹液が空気を包み込んでいただけ?
武は自分の薬指へ視線を落とした。
傷はない。
何かの痕が残っているわけでもなかった。
もしかして、父さんと母さんが何か伝えようとしてる……?
武の視線が、自然と隣の墓石へ向かう。
真相を確かめるため、武はこれ以上余計なことをせず、その場に立ったまま動かないことにした。
目の前にそびえる巨大な桜の木を、じっと見つめ続ける。
しかし、どれだけ待っても何も起こらなかった。
暖かな風に乗って桜の花びらがゆっくりと舞い落ちてくるだけだ。
途中でもう一度墓石の前へ戻り、試しに先ほどと同じように跪いてみたが、桜の木に何か変化が起こることもなかった。
結局、香炉に供えた一本の線香が完全に燃え尽きるまで待っても、新たな光球が現れることはなかった。
武は少し残念そうに息を吐き、ようやく片づけて帰ることにした。
こうも立て続けに奇妙な出来事が起きると、さすがの武も何となく苛立ってくる。
そもそも武は、そこまで頭を使うことが好きではない。
難しいことを考えるくらいなら、母さんの胸にくっついて甘えているほうがずっと好きだ。
もしこれらの異変が母さんを危険に巻き込む可能性さえなければ、たとえ森が大火事になっていたとしても、わざわざ見に行こうとは思わないだろう。
供養の品を収納の指輪へ戻した武は、最後にもう一度墓石へ手を合わせた。
そして踵を返し、家へ続く道を歩き始めた。
今度こそ何事もなく帰れる。
武がそう思った矢先、頭上から強烈な空間の波動が伝わってきた。
「っ!」
武は勢いよく顔を上げる。
何の前触れもなく、空中に深い漆黒の亀裂が走った。
亀裂の縁では、青白い光が絶え間なく明滅している。
次の瞬間、周囲の空間そのものが引き裂かれるように歪み始めた。
そして数十もの黒い影が裂け目から一斉に飛び出し、放たれた矢のような勢いで地面へ向かって急降下してくる。
武はすぐさまその場から飛び退いた。
黒い影の群れが凄まじい勢いで地面へ突っ込み、そのまま何本もの大木を次々となぎ倒していく。
轟音とともに木々が倒れ、辺り一面に大量の土煙が巻き上がった。
武は十分な距離を取り、土煙の奥を鋭く睨みつける。
荒々しい息遣いが聞こえてきた。
やがて、その煙の中から巨大な影が真っ先に姿を現す。
そこで武は、ようやく黒い影の正体を目にした。
それは、屈強な体格をした狂ったような猪だった。
全身を濃淡の異なる茶色い剛毛が覆い、口元から伸びる一対の巨大な牙は大きく上へ湾曲している。
真っ赤に染まった両目からは不吉な光が放たれ、その身体全体を不気味な暗い気配が包み込んでいた。
【レベル?】
【?】
武の表情が一瞬で真剣なものへ変わった。
また、はてな。
今朝の三体の大型ゴブリンとまったく同じだ。
武は素早く猪の群れを見渡した。
数は少なくとも二十体。
中でも先頭に立つ一体はひときわ巨大で、その剛毛にはうっすらと銀色まで混じっている。
おそらく、この猪たちは「異門」から出てきた凶魔だ。
赤く光る目。
全身にまとわりつく暗い気配。
そして何より、頭上に浮かぶ正体不明の表示。
どれも今朝の大型ゴブリンと共通している。
こいつら、いったい何レベルなんだ?
こちらは一人。
しかも数では圧倒的に不利だ。
迂闊に仕掛ければ、どんな能力を持っているのかも分からない相手から思わぬ一撃を受けるかもしれない。
戦うか。
それとも、いったん退くか。
武は二つの選択肢の利点と危険性を素早く頭の中で比べていく。
だが、結論を出すより早く、先頭の巨大な猪が頭を持ち上げ、甲高い咆哮を何度も響かせた。
直後、武へ向かって猛然と突進してくる。
後方の猪たちも一斉にそのあとへ続いた。
考えている暇はない。
武はすぐさま左へ大きく移動し、数歩分の距離を取る。
そのまま近くに突き出ていた岩を踏み台にし、勢いよく木の上へ飛び乗った。
目の前の凶魔がどんな能力を持っているのか分からない以上、武も無闇に戦うつもりはない。
標的を失った猪の群れが、武の真下を凄まじい勢いで駆け抜けていく。
そのまま不運な大木を何本も次々となぎ倒した。
やがて先頭の猪が甲高い声を何度か上げると、巨大な牙で足元の土を激しく掘り返し始める。
武がその様子を興味深そうに眺めていた、その時だった。
群れの後方にいた一体の猪が、突然先頭の巨大な猪へ向かって突進した。
そして次の瞬間、大きな猪と小さな猪が互いに噛みつき合い始める。
何だ?
いきなり仲間割れ?
直後、猪の群れ全体が騒ぎ始めた。
すべての猪が、一斉に自分の最も近くにいる仲間へ襲いかかる。
辺りには無数の咆哮が響き渡り、鋭い牙が皮膚と肉を突き破る。
鮮血が四方へ飛び散った。
その光景を目にした武は表情を引き締め、考え込む。
仲間割れ?
いや、それとも……発狂してる?
一体、また一体と猪が倒れていくにつれ、武はこれが単なる仲間割れではないと確信し始めた。
何らかの理由で、無差別に殺し合っている。
なぜなら、先頭にいた猪はすでに自分へ挑んできた相手を殺しているからだ。
本来なら、そこで争いは終わるはずだ。
敗れた側は罰を受け入れるか、その場から逃げ去るはずだ。
だというのに、猪の群れはまるで殺し合いをやめようとしない。
先頭の巨大な猪でさえ、今度は最も近くにいた別の仲間へ突進していった。
他の猪も同じだった。
止まらない。
逃げない。
怯みもしない。
ただひたすら、近くで動いているものを攻撃し続けている。
おかしい。
どう考えても、おかしすぎる。
凶暴な光を宿した目で互いを殺し合う猪たちを眺めながら、武の頭に一つの考えが浮かんだ。
もしかして……凶魔には、そもそも理性がない?
もしそうなら、今目の前で起きていることにも説明がつく。
ただ、そう断定するには、まだ手掛かりが足りない。
やがて、最も巨大だった猪のリーダーが力尽きて倒れた。
それを最後に、猪の群れは全滅した。
辺りは凄惨な有様だった。
流れ出した大量の血が周囲の草まで赤く染め、濃厚な血の臭いが空気中に漂っている。
普通なら吐き気を催してもおかしくない光景だ。
だが、武には何の影響もなかった。
心をまったく乱すことなく、隠れていた大木から飛び降りる。
そして、荒れ果てた周囲をゆっくりと見渡した。
よく見ると、何体かの猪はまだ完全には息絶えていなかった。
地面に倒れたまま、かすかな呼吸を繰り返している。
しばらく観察してみたものの、特に変わったところは見つからない。
そこで武は、瀕死の猪にとどめを刺すことにした。
その瞬間、猪の頭上に浮かんでいた表示が変化する。
【レベル34】
【長牙猪】
「レベル34?」
武は思わず目を見開いた。
これは意外だった。
そういえば、レベルが高い獣ほど肉が美味いと聞いたことがある。
だったら、何十キロか持って帰って、母さんに美味しく料理してもらうしかないな。
そう考えた途端、武は一気に元気を取り戻した。
嬉しそうに一体の長牙猪のそばへしゃがみ込み、小刀を取り出して死体の解体を始める。
ついでに、何か金になりそうなものがないかも調べておこう。
だが、刃が皮膚と肉を切り開いた直後、武の手が止まった。
「……ん?」
本来、獣の肉は鮮やかな赤色をしているはずだ。
しかし、目の前の肉には無数の黒い筋が走っていた。
それどころか、切り口からは微かな黒い気体までゆっくりと立ち上っている。
武は黒い気体を放つ肉を見つめ、収納の指輪へ入れるべきか迷い始めた。
食べるのは絶対に無理だな。
母さんだって、こんなものを料理するはずがない。
だったら、この肉を持って帰ったところで何に使える?
武が処分方法を考えていた、その時だった。
一筋の黒煙が、突然長牙猪の傷口から立ち上った。
直後、死体全体が墨に染められたかのように、傷口を中心として急速に黒く変色していく。
同時に、大量の濃い黒煙が周囲へ激しく溢れ出した。
武は反射的に数歩後ずさる。
そこで初めて、同じ変化がすべての死体で同時に起きていることに気づいた。
わずか数秒。
地面を埋め尽くしていた長牙猪の死体は、跡形もなく消え去った。
あとに残ったのは、草の上で淡い光を放つ魔核だけだった。
何だ、これ?
死体が……消えた?
武の目に驚きの色が浮かぶ。
こんな現象は、今まで一度も見たことがない。
凶魔の死体って、最後は全部こうなるのか?
武は今朝倒した大型ゴブリンを思い出した。
残念ながら、あの時は早く家へ帰りたかったため、死体がその後どうなったのかまでは確認していない。
武はひとまずこの件を頭の片隅に留め、地面に残った魔核を数え始めた。
小型の魔核が二十四個。
そして、それらより明らかに一回り大きい中型の魔核が一個。
「これ……中型の魔核か?」
武の目がわずかに輝いた。
中型の魔核は非常に珍しい。
普通の小型魔核より一回り大きいだけでなく、内部から放たれる青い光も明らかに濃かった。
武はそれを手に取り、興味深そうに眺める。
だが、中型魔核から放たれていた青い光が、目に見える速さで急速に弱まっていった。
色は灰色へと変わり、外殻も乾燥して脆くひび割れていく。
武は光を失った中型魔核を手にしたまま、考え込んだ。
「……また壊れた?」
おかしい。
これはついさっきまで元気に暴れ回っていた長牙猪のリーダーから残った中型魔核だ。
こんなに脆いはずがない。
まさか、俺が力を入れすぎて壊した?
試してみることにした武は、残っていた二十四個の小型魔核をすべて取り出した。
大きさも品質も一つ一つ異なっている。
だが、どれも例外なく淡い青色の光を放っていた。
武はその中から適当に数個を掴み取る。
すると、ほとんど触れた瞬間だった。
手の中にある魔核の青い光が急速に薄れ、外殻も次々と脆くひび割れていった。
武は光を失った魔核を見つめる。
そして突然、一つの大胆な可能性に思い至った。
もしかして、俺の手は魔核の中にある魔力を吸い取れる?
その考えを確かめるため、武はまだ壊れていない魔核を一つ手に取った。
息を止め、意識をすべて自分の指先へ集中させる。
しばらくすると、魔核からほんのわずかな熱が流れ出していることに気づいた。
その微かな熱は指先を伝い、少しずつ武の身体の中へと流れ込んでくる。
それと同時に、手の中の魔核から青い光が急速に失われていった。
そして最後には、再び表面に亀裂が走る。
本当に、俺がやってるのか?
武は完全に光を失った魔核をじっと見つめ、それから自分の手のひらへ視線を落とした。
どうやら、本当に自分の両手には魔核の魔力を吸収する力があるらしい。
その事実に気づいた瞬間、武は思わず顔を輝かせた。
しかし、その喜びも長くは続かない。
すぐにその表情は困惑へと変わった。
なぜなら、武は魔術を一つも使えないからだ。
あるのは人並み外れた腕力だけ。
たとえ魔核から魔力を吸収できたとしても、使い道がなければ何の意味もない。
そこで武は、以前母さんから聞いた言葉をぼんやりと思い出した。
『魔術師になるためには、魔力があるだけじゃ駄目なの。それとは別に「魔術適性」も必要なのよ。適性があれば魔術もずっと覚えやすくなるけど、なければ一番簡単な魔術さえ使えないこともあるわ』
でも、俺に魔術適性なんてあるのか?
母さんからは、そんな話を一度も聞いたことがない。
……待てよ。
確か毎年、町では十二歳になった子供たちに魔術適性の検査を受けさせていたはずだ。
それぞれがどんな魔術に適性を持っているのか、どれほどの素質があるのかを調べるために。
なら、俺だって本来は受けているはずだ。
ただ、それを忘れているだけ。
なにしろ俺には、十六歳より前の記憶がまったくない。
でも、だったらどうして母さんは今まで俺の魔術適性について何も教えてくれなかったんだ?
そこで武は、以前母さんから聞いたもう一つの話を思い出した。
『一般的に、女性は男性より魔術師になれる可能性が高いの。女性には、男性にはない身体の部位に魔力を蓄えることができるから、そのぶん男性は女性より魔力量が少なくなりやすいのよ。だから魔術適性を持っていても、魔力が足りなくて魔術師になれない男性もいるの』
もしかして、俺もそれだったのか?
魔力が少なすぎて、魔術を使えなかった。
母さんは、記憶を失った俺がその事実を知れば、もう一度傷つくと思って、ずっと黙っていてくれたのかもしれない。
きっとそうだ。
武はようやく納得したように頷いた。
胸の中にあった疑問が、一気に晴れていく。
そして、自分の両手へ視線を落とした。
もし俺が昔、魔力が足りなかったせいで魔術師になれなかっただけなら……。
武の目が大きく見開かれる。
――今の俺なら、魔術を覚えられるんじゃないか!?
その可能性に思い至った瞬間、武はもうじっとしていられなかった。
残っている小型魔核をまとめて収納の指輪へ放り込む。
そして勢いよく踵を返すと、家へ向かって全速力で駆け出した。




