第二章 奇妙な箱
家の中へ足を踏み入れた途端、ほのかな花の香りがふわりと漂ってきた。
窓辺には、武には名前も分からない花や草の鉢植えがいくつも整然と並べられている。部屋の隅にはまだ片づけられていない園芸用のハサミが置かれ、木製のテーブルの中央には摘みたての花びらでいっぱいになった小さな竹籠まで置かれていた。
二階へ続く階段の脇にまで、今まさに満開を迎えた白い花の鉢が二つ、無理やり押し込まれている。
だが、武にとってはすっかり見慣れた光景だった。
物心ついた頃から、この家の花は減るどころか増える一方だった気がする。
花や草を育てることの何がそんなに楽しいのか、武には今でもよく分からない。
けれど、母さんが毎日楽しそうに世話をしているのなら、鉢植えがあといくつ増えたところで何の問題があるだろう。
武は胸いっぱいに花の香りを吸い込んだ。
この慣れ親しんだ香りを感じて、ようやく本当に家へ帰ってきたような気がした。
武は母さんに言われた棚の前までやって来た。
棚は武の背丈とほとんど変わらないほどの高さがあり、置かれている物はそれほど多くない。
その中でも一番大切なのは、武と由美子が一緒に写っている一枚の写真だった。
――これは二年前、母さんと一緒に山を下りて、花のコンテストに参加した時に撮った写真だ。
結局、母さんはこれといった賞を取ることはできなかった。
それでも、母さんが何か一つのことにあれほど夢中になっている姿を見られたのは、あの時くらいだった気がする。
特に自分で育てた花について説明している時の母さんは、本当に楽しそうだった。
穏やかで軽やかな声に、会場にいた人たちは誰もが耳を傾け、その上品で優雅な立ち居振る舞いには、まるで甘い夢にでも誘われるかのように自然と目を奪われていた。
ただ、自由交流の時間になった途端、母さんの周りにはハエどもが集まり始めた。
幸い、俺がすぐに母さんの前へ立って追い払ってやった。
文句を言いたそうなのに何も言えず、悔しそうにしていたあいつらの顔は、見ていてなかなか面白かった。
表彰式が始まった時は、母さんなら絶対に一位だと思っていたんだけどな。
残念ながら、上位は派手な服を着たお婆さんたちに全部持っていかれてしまった。
――いや、お婆さんじゃない。
母さんに、そういう人たちは「おばさん」って呼ばないと失礼だって言われたんだった。
大会が終わる頃、一人のカメラマンが俺たちに声をかけ、写真を撮ってくれた。
それが、今ここに飾られているこの一枚だ。
それにしても……「カメラ」とかいう道具は、いったいどうやって俺と母さんの姿をこの紙の中に封じ込めたんだろう。
もしかして、魔導具の一種なのか?
長い思い出から意識を戻した武は、ようやく本来の目的を思い出した。
線香の入った袋を取ろうと手を伸ばした、その時だった。
すぐ隣に置かれている物が目に留まった。
いつの間に置かれたのか、そこには紫色の四角い箱が一つあった。
箱の縁には華やかな金色の装飾が施され、蓋には曲がりくねった複雑な紋様がいくつも刻み込まれている。
武には、この箱を見た記憶がなかった。
当然、その正体が気になった。
――変だな。最近は俺も母さんも山を下りてないのに、この箱はどこから来たんだ?
武は数秒ほど箱を見つめた。
すると、先ほど母さんが口にしていた「異門」という言葉が頭をよぎる。
でも、異門から出てくるのって魔物だけじゃなかったか?
こんな人工物まで出てくるのか?
しかも、それが都合よく家の棚の上に?
武は小さく首を振った。
さすがに考えすぎだ。
たぶん母さんがどこかで拾ってきて、そのまま棚の上に置いたのだろう。
それ以外の可能性まで考え始めるのは、さすがに心配しすぎというものだ。
武は紫色の箱を手に取り、しばらくあちこちから眺めた。
そして留め金を持ち上げ、蓋を開く。
「ぶふっ!?」
大量の紫色の煙が、何の前触れもなく箱の中から噴き出した。
まともに顔へ浴びた武は反射的に目を固く閉じ、右手で必死に目の前の煙を払いのける。
やがて紫色の煙が消えると、武はゆっくりと目を開き、箱の中を覗き込んだ。
しかし、中は空っぽだった。
だが、それがかえって武の好奇心を刺激した。
箱の内側に隠し底や仕掛けでもあるのではないかと、何度もひっくり返して調べてみる。
しかし、結局何も見つからなかった。
「やっぱり、ただの綺麗な空箱か」
なるほど。
中に何も入っていないから、母さんもここに置いていたのだろう。
そのうち誰かに贈り物をする時にでも使うつもりなのかもしれない。
自分なりに納得した武は、箱を元の場所へ戻し、必要だった線香の袋とその他の供養品を取り出した。
それらを収納の指輪へ収めると、武は家を出た。
再び庭へ戻ると、由美子は相変わらずじょうろを手に、畑の野菜へ水をやっていた。
人の気配に気づいたのか、由美子が顔を上げ、優しく声をかける。
「どう? 見つかった?」
由美子の前までやって来た武は、しっかりと頷いた。
「うん!」
「外が少し騒がしいみたい。何があったのか分からないけど、出かける時は十分気をつけてね」
由美子はじょうろを置くと、武へ手を伸ばして襟元を整えた。
「もしかしたら、今夜のおかずが増えるかもな」
武は笑いながら、自分の二の腕をぽんぽんと叩いてみせる。
「もう、ふざけないの~。母さんもこのあとお昼ご飯を作るから、お線香をあげて帰ってきたら、すぐ食べられるわよ」
「了解!」
元気のいい返事を聞いた由美子は微笑み、武の頭を優しくぽんぽんと撫でた。
それからじょうろを手に取り、家の中へ戻っていった。
由美子が家へ入っていくのを見届けると、武も庭の門をくぐった。
ただし、そのまま墓地へ向かったわけではない。
武はすぐに門の外側を囲む石壁の状態を確認し始めた。
ゴブリンの脅威は、武にとって昔から優先度の高い問題だったからだ。
石壁に緩みや剥がれがないことを確認すると、武は緑地の上にぽつんと立つ特殊な石台へ視線を向けた。
石台の上では、白と黒が入り混じった一つの石が、かすかな光を放っている。
この特殊な石台は――「駆魔台」。
魔物が嫌う精神波動を周囲へ放ち、近づこうとする魔物を遠ざけるための装置だ。
武たち一家がこの場所で安心して暮らしていられる最大の理由でもある。
もちろん、駆魔台もあらゆる魔物を追い払えるわけではない。
A級以上の強力な魔物ともなれば、この程度の精神波動ではほとんど効果がない。
それ以外にも、駆魔台の影響をまったく受けない特殊な魔物が存在する。
例えば――。
ぷにっ。
緑色のゼリー状の塊が、石台の縁からゆっくりと滑り落ちてきた。
ぷにっ。
また一体。
さらに駆魔台のてっぺんには、三体目まで隠れている。
三体のスライムは精神波動などまるで気にする様子もなく、それどころか駆魔台を休憩場所代わりにしていた。
なぜ効かないのかは、武にも分からない。
この三匹を長時間張りつかせたままにして、駆魔台を傷められても困る。
武は虚空へ手を伸ばした。
瞬間、銀白色の大剣がその手に現れる。
一筋の銀白色の剣閃が走った。
三体のスライムの体内にある青い魔核が、ほぼ同時に砕け散る。
丸々としていた身体はたちまち形を失い、粘液となって草の上へ広がった。
武は慣れた手つきでスライムの粘液を収納の指輪へ収めていく。
だが、地面に残った三つの小さな魔核の欠片には目もくれなかった。
魔核は確かに金になる。
ただし、それも品質と大きさ次第だ。
そしてスライムの魔核は、よりによって小さいうえに品質まで低い。
こんなものを集めて買い取り商人のところへ持ち込んだところで、店を荒らしに来たのかと疑われるのが関の山だろう。
駆魔台に異常がないことを念入りに確認し、武はようやく墓地へ向かって歩き出した。
山間の狭い道を抜けると、武は比較的開けた草原へ出た。
しかし、そこからまだ大して進まないうちに、その足がゆっくりと止まる。
草原の向こう側に、五体の逞しい狼が立っていた。
青白い毛並みが陽光の下でひときわ目立ち、口元からは鋭い牙が覗いている。
喉の奥からは、低い唸り声が絶えず漏れていた。
そして、その頭上には見慣れた文字が浮かんでいる。
【レベル27】
【幻影狼】
中央にいる群れのリーダーが姿勢を低くし、武をじっと睨みつけた。
残る四体は音もなく左右へ散開していく。
わずか数呼吸のうちに、五体の幻影狼は別々の方向から武を取り囲んでいた。
だが、武はすぐに剣を抜こうとはしなかった。
ただ顔を上げ、空を見た。
「……おかしいな」
幻影狼は群れで行動する夜行性の魔物だ。
暗闇の中で神出鬼没の残像を生み出し、獲物を捕らえ、翻弄することを得意としている。
高速で移動すると、身体から放たれる淡い光がその軌跡に無数の残像を生み、獲物の目を惑わせるのだ。
しかし、今は真昼。
遮るものが何もないこの草原では、五体の白い幻影狼など目立って仕方がない。
昼間は体色が周囲から浮いてしまううえ、種族特有の能力も十分に活かせない。
天敵に見つかる危険を冒してまで、わざわざこんな時間に行動する理由などないはずだ。
武の視線が五体の幻影狼を越え、その背後に広がる深い森へ向けられる。
――森の奥で何かが起きた?
だからこいつらは、危険を冒してまで住処を離れようとしているのか?
急に増え始めたスライム。
異門から現れた大型ゴブリン。
そして、本来の習性に反して森の奥から出てきた幻影狼。
これらは、何か一つの原因で繋がっているのだろうか。
立て続けに起こる異変を前に、武は眉間に皺を寄せ、これまでの経験から答えを導き出そうとする。
もし森の奥に強力な魔物が現れ、その影響で一時的に魔物たちの縄張りや生態が乱れているだけなら、それほど心配する必要はない。
この森の周辺に棲む魔物なら、武の敵ではない。
たとえ数が多くても、駆魔台があれば家を避けるように移動経路を変えるはずだ。
そもそも、こうしたこと自体は数年に一度くらいの頻度で起きている。
武にとっては、すでに珍しいことでもなかった。
そんなことを考えている間に、一体の幻影狼が音もなく武の死角へ回り込んでいた。
四肢に一気に力を込める。
幻影狼が地面を蹴り、飛びかかった。
大きく開かれた口から鋭い牙が覗き、その牙が武の首筋へと迫る。
牙が届こうとした、その瞬間――。
銀白色の大剣が武の手に突如として現れ、幻影狼の大口を受け止めた。
幻影狼が剣から牙を離すよりも早く、武はそのまま大剣ごと狼を地面へ叩きつける。
草と土が激しく飛び散った。
強烈な衝撃をまともに受けた幻影狼は、その場で意識を失う。
武は倒れた幻影狼を前に迷うことなく大剣を振り下ろし、その命を絶った。
「そういえば、お前たちに言い忘れてたな」
武は大剣を再び肩に担ぎ、口元をわずかに吊り上げた。
「能力を使おうが使うまいが、俺なら一撃だけどな」
仲間があまりにも簡単に倒されたのを見て、残る四体の幻影狼は一斉に逃げ出した。
そのまま森の奥へ向かって駆け去っていく。
武は追いかけようとはせず、小さく息を吐いた。
「夜なら、もう少しくらい俺とやり合えたかもしれないのにな。残念、今は昼だ」
四体が戻ってこないことを確認すると、武は幻影狼の死体のそばへしゃがみ込み、慣れた手つきで解体を始めた。
手に入ったのは、何枚かの粗い毛皮と獣肉、それに小型の魔核が一つ。
武はそれらを順番に収納の指輪へ収めていく。
だが、小型の魔核に指が触れた瞬間だった。
淡い青色の光が一度だけちらつき、直後に急速に弱まっていく。
「ん?」
武の手が止まった。
先ほどまで淡い青色に輝いていた魔核が、見る見るうちに灰白色へと変わっていく。
表面も脆くひび割れ、細かな粉までぱらぱらとこぼれ落ちた。
武は特に気にすることもなく、乾ききった魔核をその場へ放り捨てた。
身体が弱っていたり、極端に衰弱していたりする魔物では、体内の魔核がこうして不安定になることがある。
そうした魔核は身体から取り出されて外気に触れた途端、内部に蓄えられていた魔力が急速に失われてしまう。
今の魔核も、まさにそれと同じ状態だった。
武も以前に何度か目にしたことがあるため、特に驚きはしない。
ただ、あの幻影狼が病気だったようには見えなかった。
武はそれ以上深く考えず、再び先ほどの疑問へ意識を戻した。
森に強力な魔物が現れただけなら、大した問題ではない。
数年に一度は起こることだし、強い魔物同士の縄張り争いさえ終われば、いずれ元の平穏な状態へ戻る。
では――異門から現れたゴブリンはどう説明する?
単なる偶然。
森の異変とは何の関係もない、別の出来事なのだろうか。
今起きている森の異変に、武はかすかな不安を覚えていた。
できるだけ早く原因を突き止めなければならない。
そうしなければ、母さんの安全を守りきれない。
武は、世の中のあらゆる物事はどこかで繋がっていると考えている。
一見すれば何の関係もないように見える出来事でも、人目につかないところでは複雑に絡み合っているのかもしれない。
ただ、今ある手掛かりだけでは、それらを一つに結びつけることができなかった。
武はひとまず考えるのをやめる。
「今はさっさとお線香をあげて、母さんのところに帰るほうが大事だな」
武はさらに狭くなった緑の小道を進んでいく。
途中、見慣れた薬草をいくつか摘み取り、帰ったら加工して回復薬を作っておこうと収納の指輪へ収めた。
道を進むにつれて、前方から差し込む光が少しずつ強くなっていく。
武は目の前を塞いでいた最後の枝葉をかき分けた。
視界が一気に開ける。
巨大な桜の木が、武の目に飛び込んできた。
生い茂る枝いっぱいに淡い桃色の花が咲き誇り、暖かな風が吹くたび、無数の花びらが枝先からゆっくりと舞い落ちていく。
陽光を受けながら軽やかに舞う桜の花びら。
その美しい光景に、武も思わず見惚れてしまった。
――母さんと一緒に来ればよかったな。
こんなに綺麗なのに、一人で見るなんてもったいない。
だが、すぐに別の疑問が浮かぶ。
先週来た時、この桜はまだ枝ばかりで、咲きそうな蕾すら一つもなかったはずだ。
それなのに――どうして突然、こんなに咲いてるんだ?
「……一体、どうなってるんだ?」
また一つ疑問が増えた。
それでも武は足を止めず、ゆっくりと桜の木へ近づいていく。
暖かな風が吹き抜けた。
数枚の花びらが、武の目の前をゆっくりと舞い落ちる。
舞い散る桜の中。
巨大な桜の木の下に、一基の墓石が静かに佇んでいた。
墓石の中央には、大きな文字がはっきりと刻まれている。
伊勢家之墓




