第一章 禍災の前兆
明るい陽射しが差し込む緑豊かな森の中、一人の黒髪の青年が茂みの間を行き来しながら、熟したベリーを一粒ずつ摘み取っていた。
青年の身長は百八十センチほど。豊かな黒髪には、数筋の紫が混じり、澄んだ青い瞳が輝いている。整った顔立ちに、風に揺れる青緑色のロングコート。その姿はひときわ凛々しく見えた。
最後のベリーを収納の指輪へ収めると、青年は今日集めた食材を改めて確認し、満足そうな笑みを浮かべた。
「これだけ食材があれば、母さんも喜んでくれるだろうな」
集めたベリーを眺めながら、青年は嬉しそうに呟いた。
時刻はもうすぐ正午。
今から帰れば、ちょうど母さんが昼食を作り始める頃には間に合うだろう。
そんなことを考えながら、青年は帰路についた。
――ガサガサ。
突然、すぐそばの茂みから物音がした。
次の瞬間、緑色をした半透明のゼリー状の物体が、ぴょんと茂みから飛び出してきた。
丸みを帯びた身体には、大きな黒い目玉がついている。
青年は一目で、目の前の生物が何なのか分かった。
――スライム。
一般的に最弱とされる魔物で、人間に危害を加えることはほとんどない。基本的には何でも食べるが、特に魔力を含んだ食べ物を好む習性がある。
青年の目には、スライムの頭上に二行の文字がはっきりと見えていた。
【レベル2】
【スライム】
数字は魔物の強さを示すレベルであり、その数値が大きいほど魔物も強くなる。
レベル2という数字は、最弱の魔物と呼ばれるスライムにはまさに相応しいものだった。
突然現れたスライムを見ても、青年は特に気に留めなかった。
ちらりと一瞥しただけで、そのまま歩き出そうとする。
――ぷにっ。
また一体、スライムが茂みから飛び出してきた。
さらに三体目……四体目……五体目……。
次々と姿を現し、とうとう九体目が飛び出したところで、青年はようやく足を止めた。
どのスライムも、頭上に表示されたレベルは2から3。
警戒するほどの相手は一体もいない。
だが、目の前の光景に青年はわずかな違和感を覚えた。
この森で何年も狩りを続けてきたが、こんな状況は一度も見たことがない。
スライムが何体か集まること自体は珍しくなかった。偶然出くわしたり、同じ食べ物を目当てに集まったりすることはある。
しかし、その場合でも数はそれほど多くない。
一度に九体も集まっているのは、明らかにいつもと違っていた。
青年は目の前のスライムたちを観察しながら、状況を分析する。
彼にとっては、これだけでも十分に調査する価値のある異変だった。
これまでも森で何か異常が起これば、真っ先に原因を確かめてきた。そして森に害を及ぼすものだと判断すれば、すぐに対処していた。
ただ――。
「……まあ、スライムだしな」
その考えは、すぐに頭の隅へ追いやられた。
所詮は数体のスライム。
今はそんなことよりも、家に帰って母さんと一緒に昼食を食べるほうが大切だった。
ところが帰り道でも、青年は何度となく地面を動き回るスライムを目にした。
その数が増えた影響なのか、スライムを餌とする小型の魔物まで集まってきている。
それでも青年は予定を変えることなく、家へ向かい続けた。
――三体の小柄な人型の生物を目にするまでは。
黒みがかった深緑色の肌。
毛のない頭には横向きの皺が刻まれ、頭の両側からは太く尖った耳が突き出している。
巨大な鉤鼻に、口元から覗く細長い舌。そして湾曲した鋭い牙。
青年はすぐに、目の前の生物の正体を見抜いた。
――ゴブリン。
「……いや、違う!」
青年が知る普通のゴブリンとは、明らかに様子が違っていた。
三体とも凶暴な表情を浮かべ、瞳は不自然なほど血のように赤く染まっている。
体格も一般的なゴブリンよりはるかに大きく、その全身からはうっすらと黒い不気味な気配が漂っていた。
青年は反射的に三体の頭上へ視線を向けた。
【?】
【?】
【?】
【?】
【?】
【?】
三体とも同じだった。
レベルもない。
名前もない。
表示されているのは、未知を示す「?」だけ。
青年の顔から先ほどまでの気楽さが消え、瞳に警戒の色が宿る。
彼がこれまで一度も戦ったことのない魔物は、頭上にレベルも名前も表示されない。
つまり――目の前のゴブリンたちは、彼にとって未知の魔物ということになる。
青年が意識を集中させると、収納の指輪から巨大な銀白色の長剣が瞬時に現れ、その手に収まった。
幅広の刀身が冷たい光を放つ。
見るからに重量のありそうな大剣だったが、青年はそれを片手で軽々と握っていた。
青年はわずかに重心を落とし、全身の筋肉を引き締める。
そして、小さく呟いた。
「この地で、ゴブリンの生存は許さない」
次の瞬間、青年が地面を強く蹴った。
一気に間合いを詰める。
銀白色の剣閃が走り、最も近くにいたゴブリンの頭部が胴体から切り離された。
残る二体は慌てて木製の棍棒を振り上げる。
しかし、青年は避けようともしなかった。
銀白色の長剣を横薙ぎに振るい、右側のゴブリンを棍棒ごと胴から真っ二つに斬り裂く。
そのまま勢いを殺さず身体を回転させ、空中で鮮やかな弧を描きながら左側のゴブリンの目前へ回り込む。
遠心力の乗った刃が、何の抵抗もなくその身体を切り裂いた。
――戦闘終了。
始まってから終わるまで、二秒とかかっていなかった。
「やっぱり、こんなものか」
すべて青年の予想通りだった。
たとえ今まで見たことのないゴブリンであっても、戦闘能力そのものが劇的に高くなっているわけではないらしい。
だが、青年に油断する様子はなかった。
今倒した三体は、ゴブリンの斥候にすぎない可能性が高い。
本当に厄介なのは、この先だ。
ゴブリンは単独では行動しない。
森の中で数体のゴブリンが徘徊しているのを見かけたなら、近くに巣が存在する可能性が高い。
そこには数十――場合によっては数百ものゴブリンが、今この瞬間にも潜んでいるかもしれない。
「まずいな……」
青年の胸に緊張が走った。
一刻も早く家へ戻り、このことを母さんに伝えなければならない。
それだけではない。
家の周囲に設置してある防備も、もう一度確認する必要がある。
何より――絶対に、ゴブリンたちに母さんの存在を知られてはならない。
ゴブリンにとって、母さんは格好の標的になってしまう。
青年は再び、地面に転がるゴブリンの死体へ目を向けた。
「……ん?」
死体から細い黒煙が次々と立ち昇っている。
それと同時に、頭上に浮かんでいた「?」の表示が変化した。
【レベル18】
【大型ゴブリン】
それまで「?」だった表示には、レベル18と「大型ゴブリン」の文字が浮かんでいた。
確認を終えると、青年は三体の大型ゴブリンの死体を道端の開けた場所へ運んだ。
最初は一体の耳を切り取って戦利品にしようかとも考えたが――。
「……やっぱり、いらないな」
改めて大型ゴブリンたちの醜悪な顔を見ると、気持ち悪さが込み上げてきたため、その考えはすぐに取りやめた。
死体をその場に埋めなかったのにも理由がある。
後から様子を見に来るであろうゴブリンたちに、あえてこの死体を発見させるためだ。
この先には大きな危険がある。
そう認識させることができれば、少なくとも母さんが狙われる危険を減らせるかもしれない。
巣のほうは、また時間を見つけてきちんと片づければいい。
必要なことをすべて済ませると、青年は再び家へ向かった。
その頃――。
誰にも気づかれることなく、茂みの陰に生じていた小さな空間の亀裂が静かに閉じ、虚空へと消えていった。
そして、先ほどまで地面に転がっていた大型ゴブリンたちの死体もまた、黒煙となって空気の中へ消えていった。
家へ向かって駆けながらも、青年は先ほどの三体の大型ゴブリンについて考え続けていた。
今朝、家を出てから食材を集め、帰路につくまでの出来事を一つずつ思い返す。
やはり、朝にこの道を通った時にはゴブリンの痕跡など一つもなかった。
それだけは間違いない。
周囲に異常がないか確認することは、青年が毎日欠かさず行っている日課の一つだからだ。
そんな自分の目を盗んで、数体ものゴブリンがいつの間にか入り込んでいたなど――彼の自尊心が許さなかった。
しかも、この道は実質一本道だ。
周囲は高い岩壁に囲まれており、別の道から入り込めるような場所ではない。
「……やっぱり、おかしい」
考えれば考えるほど不可解だった。
そんなことを考えているうちに、見慣れた建物が青年の視界に入ってきた。
黒い瓦屋根を持つ、素朴な二階建ての家。
二階には小さなバルコニーがあり、その隣には小さな木造の作業場が建っている。
さらに作業場の前には、さまざまな野菜や果物が育てられている畑が広がっていた。
そして今、その畑のそばには一人の女性が立ち、じょうろを手に野菜や果物へ水をやっていた。
女性は艶やかな黒紫色の髪を持ち、淡い桃色の上着と濃い色の短いスカートを身につけている。
美しく整った顔立ちには清楚で穏やかな雰囲気があり、衣服越しにも分かる均整の取れた身体には、女性らしい柔らかな曲線が浮かんでいた。
その仕草の一つ一つから、成熟した柔らかな魅力が自然と漂っている。
女性は何かに気づいたように、ふと顔を上げて道のほうを見た。
青年の姿を見つけた瞬間、その顔にぱっと明るい笑みが広がる。
手にしていたじょうろを置くと、青年へ向かって両腕を軽く広げた。
「母さーん! ただいま~!」
青年も両腕を広げながら、女性のもとへ駆け寄った。
二人はそのまま親しげに抱き合う。
「わっ……!」
だが、青年の逞しい身体で勢いよく抱きつかれたため、女性は危うくバランスを崩しかけた。
どうにか踏みとどまると、女性は優しい口調で青年をたしなめる。
「もう~。いつまでそんなに慌てん坊なの?」
「へへっ。だって母さんに会いたかったんだから」
その言葉を聞き、女性は思わず小さく笑った。
「そんなに口が上手くても、ご褒美はないわよ~?」
女性の名は――由美子・伊勢。
目の前にいる青年の「母親」である。
そして青年の名は――武・伊勢。
目の前にいる女性の「息子」だった。
二人が身体を離すと、武は集めてきた食材を由美子へ手渡した。
由美子は食材の入った袋を収納の指輪へ収める。
「お疲れさま。帰り道で危ないことはなかった?」
「ないない! 食材を集めに行っただけだし、危ないことなんてあるわけないって」
武は気軽に手を振った。
「ただ、帰り道で新種っぽいゴブリンを何体か見つけたけど」
「えっ? 大丈夫なの? 怪我はしてない?」
由美子は心配そうな表情を浮かべ、武の身体を見回した。
「大丈夫、大丈夫。ゴブリン程度じゃ俺には傷一つつけられないよ」
「それならいいけど……普段からちゃんと気をつけるのよ? 何かあってからじゃ遅いんだから」
武の身体に目立った傷がないことを確かめて、由美子はようやく少し安心した。
武がこの森で敵なしであることは、由美子もよく知っている。
それでも、万が一ということはある。
もし何かあったら――。
「ただ、どうしてゴブリンがいたのかが分からないんだよな」
武は右手を顎に当て、考え込む。
「朝、家を出た時は何もなかった。それなのに帰る頃にはゴブリンが現れてたんだ。まるで何もないところから突然出てきたみたいに」
当時の光景を思い返しながら、武はさらに続ける。
「それに、あの新種のゴブリン……なんか様子がおかしかったんだよ。妙に凶暴そうで、まともな状態には見えなかった」
改めて思い返してみると、あの大型ゴブリンたちはどこか呆けたような様子でもあった。
だからこそ、自分もほとんど苦労することなく倒せたのかもしれない。
その話を聞いた由美子は、少し考え込んだ。
「もしかして、目が真っ赤で、身体の周りに黒い気配みたいなものが出てなかった?」
「そう! まさにそれ!」
武はすぐに由美子へ顔を向けた。
由美子の表情が、わずかに険しくなる。
「それなら、たぶん異界から来た魔物ね。近くに『異門』が開いたんだと思う」
「異門?」
「二千年前から、世界各地で大小さまざまな空間の亀裂が突然現れるようになったの。そこから凶暴な魔物が大量に現れて、数え切れないほどの人が犠牲になった」
由美子は武に、この世界の歴史を説明していく。
「それ以来、いつどこに現れるか分からない空間の亀裂をまとめて『異門』と呼ぶようになったの。そして、異門から現れる魔物は『凶魔』と呼ばれているわ」
「おお~……そういえば、そんなのあったような」
武の記憶にも、その言葉についての知識がかすかに残っていた。
しかし、どうにもはっきりしない。
それも無理はない。
彼は四、五年前に一度記憶を失っており、多くのことを忘れてしまっているからだ。
「あの大型ゴブリンも、きっと異門から出てきたんでしょうね。だから武くんも今まで一度も見たことがなかった。それなら、突然森の中に現れたことにも説明がつくわ」
由美子はそう推測した。
「でも、どうして急に家の近くに異門なんか……? ここ数年はずっと平和だったのに」
武は、この数年間に森で経験した出来事を振り返る。
だが、異門らしきものを目にした記憶は一度もなかった。
由美子はしばらく黙り込んだ。
「確かに変ね……。もしかすると、本当に何かが起ころうとしているのかもしれない」
由美子の声が真剣なものへ変わる。
「何が起きても大丈夫なように、まずは準備だけでもしておきましょう」
「うん! 母さんの言う通りにする!」
武は由美子の言うことなら、何でも素直に聞く。
今回も迷うことなく、笑顔で頷いた。
「はいはい。それじゃ、この話は一旦おしまい。そろそろお昼ご飯を作らないとね」
由美子の真剣だった表情が、再び柔らかなものへ戻った。
「お昼は肉じゃがでどう?」
「母さんが作ってくれるなら、何でも好き!」
そう言って、武は再び由美子へ抱きついた。
「ふふっ、もう。お世辞を言っても何も出ないわよ」
由美子は微笑みながら言った。
「お昼ご飯の準備に少し時間がかかるから、その間にお墓へお線香をあげに行ってきてくれる? 母さん、まだちょっとやることがあるの」
伊勢家の墓地へ線香をあげに行くことは、二人が毎週欠かさず行っている習慣だった。
普段は二人で一緒に向かうことが多いが、由美子に急な用事がある時には、武が一人で行くこともある。
武は特に疑問を抱かなかった。
墓地まではそれほど遠くない。
一人で行くことにも何の問題もない。
それに、線香をあげて帰ってくれば、母さんと一緒に昼食を食べられる。
武にとっては、それだけで十分に素晴らしい予定だった。
「お線香は家に入って左側の棚に置いてあるから。忘れないでね~」
由美子が優しく念を押す。
「はーい!」
武は元気よく返事をすると、そのまま自宅の玄関へ向かって歩き出した。




