序章(下) 戦後再編
「見つけた! ここだ!」
背後から、黒いローブをまとった魔法使いの叫び声が響いた。
ミリュシスは今、木属性の魔法を駆使し、森の中を高速で移動していた。
どうしてどこへ逃げても、すぐに居場所を突き止められてしまうのか。
彼女にはまるで理解できなかった。
腕の中の赤子にはすでに眠りの術をかけている。声を上げることもなく、居場所を知られるような音など立てていないはずだった。
だが、その理由はすぐに分かった。
ふと頭上を見上げると、何人もの魔法使いが空を飛び、明かりの魔法を使いながらミリュシスを追跡していた。
「先にあいつらをどうにかしないと」
ミリュシスが手にした杖に魔力を込めると、杖の先端が光を放った。
直後、地面から樹木で形作られた巨大な手が何本も飛び出し、上空を飛ぶ追跡者たちへ一斉に伸びていく。
しかし、相手の飛行速度があまりにも速い。
木でできた巨大な手は、誰一人として捕らえることができなかった。
その瞬間――。
ミリュシスの死角から、一条の雷撃が飛来した。
「っ!」
ミリュシスは咄嗟に身を翻し、間一髪で雷撃をかわす。
だが、その拍子に体勢を崩して転倒してしまった。
ミリュシスは腕の中の赤子を守るため、自らの身体をクッションにするように地面を滑り、そのまま一本の大樹へ激しくぶつかった。
「本当によく逃げるわねぇ、子ネズミちゃん。まさか逃げてる間、周りの植物まで生き物みたいに動かして、散々邪魔してくるなんて……ほんっと鬱陶しい。ペッ!」
女武神装甲を身にまとった金髪の女が、心底嫌そうな表情を浮かべながら吐き捨てた。
「でも、これで終わりよ。その子を自分の手で殺すっていうなら……あんただけは見逃してあげてもいいわよ?」
そう言って、金髪の女は舌で唇をゆっくりとなぞった。
ミリュシスは視線を忙しなく周囲へ巡らせ、ここから逃げ出すための道を探し続けていた。
「この期に及んで、まだ逃げることを考えてるの!? こいつを殺せ!」
金髪の女が手を突き出し、怒鳴り声を上げた。
追い詰められたその時、ミリュシスの背後にあった大樹の幹に、まるで内側からくり抜かれたかのように、突然大きな穴が開いた。
「……!」
何かを感じ取ったミリュシスは、その穴へ飛び込んだ。
彼女の身体が中へ消れた直後、大樹に開いていた穴は瞬く間に塞がり、まるで最初から何も起こっていなかったかのような姿へ戻った。
「その木をぶち壊せ!」
上方から、女の苛立った声が聞こえてきた。
ミリュシスは、自分の身体が下へ落ち続けていることに気づいた。
しかし、周囲は完全な暗闇に包まれている。
下手に動くこともできず、ミリュシスはただ腕の中の赤子を強く抱きしめた。
このまま地面へ叩きつけられるとしても、何としてでもこの子だけは守らなければならない。
今のミリュシスの頭にあるのは、それだけだった。
どれほどの時間が経っただろうか。
やがて、下方に白い光が見え始めた。
ミリュシスが何かしようとした、その時。
下方から穏やかな風が吹き上がってきた。
その風は落下するミリュシスの身体を優しく包み込み、徐々に落下の勢いを弱めていく。
そしてゆっくりと地面へ降り立った時、ミリュシスはようやく周囲の光景を確認することができた。
目の前に広がっていたのは、どこまでも果てしなく続く真っ白な空間。
そして、そこには一つの青緑色の球体が宙に浮かんでいた。
ミリュシスがその球体について考えていると、不意に目の前へ一つのメッセージウィンドウが現れた。
[悠文・伊勢さんから音声ファイルが届いています。再生しますか?]
そのメッセージを目にした瞬間、ミリュシスの胸を締めつけていた緊張がわずかに和らいだ。
少なくとも、悠文はまだ生きている。そう分かっただけでも、ミリュシスの心はずいぶん軽くなった。
ミリュシスは音声ファイルを再生した。
『ミリュシス。
君がこの録音を聞いているということは、この戦いもすでに終盤に入っているということだ。
君がどうやってそこへ辿り着いたのかは俺にも分からない。でも、君と武ちゃんの生命反応はどちらも正常だ。それが分かって、安心したよ。
君はとても落ち着いた人だ。何をするにも、まずしっかり考えてから行動する。
だからこそ、武ちゃんを君に託すのが一番だと思った。
リリスのほうは……もう慣れたもので、ちゃんと俺の居場所を見つけてくれたよ。
今は俺の隣で眠ってる……。
こんなに気持ちよさそうな寝顔を見てると、俺まで眠くなってくるな。はは……。
俺が眠った後、俺の能力の一部は武ちゃんに引き継がれる。
その能力の使い方について、武ちゃんに教えてやってほしい。
収納の指輪は、もう君の手元にあるよな?
中に入っている素材は、好きに使ってくれて構わない。
それと、武ちゃんのために俺が作っておいた教材も入ってる。
本当は俺が直接教えるつもりだったんだけど……今は君に先に勉強してもらうしかないな。ごほん……。
今回の騒動が終わった後、あいつらがさらに何か仕掛けてくるかどうかは分からない。
くれぐれも気をつけてくれ。
添付ファイルには、俺たちが信用できる知り合いの名前をまとめてある。
何かあったら、その人たちを頼ってくれ。
ミリュシス。
ありがとう。
最後の最後まで、俺たちと一緒にいてくれて。
あまり自分を追い詰めないでくれ。
俺たちはただ、武ちゃんが無事に大きくなってくれれば、それでいい。
何か大きなことを成し遂げてほしいなんて思ってない。
ただ平穏に、この先の人生を生きてくれれば……それだけで十分だ。
最後に、俺とリリスから武ちゃんに伝えてくれ。
「父さんと母さんは、いつだって武ちゃんのことを愛してる」』
――ピン。
[音声ファイルの再生が終了しました。添付ファイルを開きますか?]
録音を最後まで聞き終えたミリュシスの胸に、言葉では言い表せない感情が込み上げてきた。
胸の奥に何かが詰まっているような、四方から壁に押し潰されているような、息苦しい感覚。
何かをしたい。
そう思うのに、自分が何をすればいいのか分からなかった。
それからしばらくして、胸を締めつけていた感覚が少しずつ薄れていく。
ようやく落ち着きを取り戻したミリュシスは、少し離れた場所に浮かぶ青緑色の球体へ視線を向けた。
なぜだろう。
あの球体が、自分を呼んでいるような気がする。
念のため、ミリュシスはまず収納の指輪から、悠文が自ら作ったベビーベッドを取り出した。
眠っている武ちゃんを慎重にベッドへ寝かせ、身体に異常がないことを確認する。
それからようやく、ミリュシスは宙に浮かぶ青緑色の球体へゆっくりと歩み寄った。
近づけば近づくほど、その球体から感じる気配が強くなっていく。
それはなぜか、ひどく懐かしいものだった。
しばらく考えた末、ミリュシスは右手を球体へ伸ばした。
そして、その手が触れた瞬間――。
「――っ!?」
頭の中へ、何千何万本もの針を一斉に突き刺されたかのような激痛が走った。
何かが流れ込んでくる。
膨大な何かが、次から次へと頭の中へ流れ込んでくる。
ミリュシスは慌てて右手を球体から離し、頭を押さえた。
そのあまりにも凄まじい悲鳴に、先ほどまで眠っていた武ちゃんも目を覚ましてしまったのだろう。
真っ白な空間に、赤子の泣き声が響き渡る。
それからしばらくして、ようやく痛みが少し和らぐと、ミリュシスはゆっくりと口を開いた。
「私は……ノヴァ?」
数か月後――。
ある人物の執務机の上に、一通の機密文書が置かれていた。
その人物は文書を手に取ると、適当に何ページかめくった。
次の瞬間、その文書を窓際の床へ叩きつけ、怒りを露わにしたまま部屋を出ていった。
窓から穏やかな風が吹き込み、床に落ちた文書のページを何枚かめくっていった。
【作戦結果概要・機密】
作戦名:滅魔作戦
作戦目標:
リリス・エルク、悠文・伊勢、ミリュシス・ウォート、魔王(疑)の殺害
作戦結果:失敗
対象最終確認状況:
リリス・エルクおよび悠文・伊勢――遺体の所在不明。
ミリュシス・ウォートおよび魔王(疑)――座標10826、14457にて消失。
人的被害:
【死亡】
聖者:2名
S級抗魔使:5名
A級抗魔使:23名
B級抗魔使:85名
C級抗魔使:331名
帝国軍人:456名
計902名。
【負傷】
女武神:3名
S級抗魔使:1名
A級抗魔使:34名
B級抗魔使:115名
C級抗魔使:485名
帝国軍人:823名
計1461名。
総費用:
約482,751,593羽貨。
【事後影響】
・ペナド山脈にて原因不明の火災が発生。
当該火災は消火不能であり、猛烈な勢いで周辺地域へ延焼を続けている。
・数百名の抗魔使および帝国軍人がアド草原にて孤立。
自力での脱出は不可能であり、現在救援を待っている。
物資が不足している一部の集団では、すでに他集団からの物資強奪が発生している。
・ガロ地区、コソス地区、ガラク地区、フロード地区、および王都にて、正体不明の勢力による扇動を受けた民衆のデモ・暴動が発生。
・アンビド家当主――自邸の池にて溺死体で発見。
・ジャベル家当主――原因不明の火災により死亡。
・ロペド家当主――何者かにより暗殺。
・ガナヘ家――保有資産の全てが買収される。
・エフィト親王――睡眠中に死亡。
【議会勧告】
アド草原を封鎖し、剣の聖者および時の聖者が所有していた神器を直ちに回収すること。
暴動発生地域へ軍を派遣し、治安維持および秩序回復に当たらせること。
新たな有力家門を選定し、支援の上で台頭させること。
ペナド山脈は我が国の領土外に位置するため、対応の必要なし。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
これにて序章は終了です。
次回からいよいよ本編が始まります。
引き続きお楽しみいただければ嬉しいです!




