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序章(中) 転移者

 同じ頃、数キロ離れた草原の戦場。


 上空から見下ろすと、山林から草原にかけての一帯が、巨大な青い半球状の障壁によって隔離されていた。


 その障壁の中心部では今、数人の男女が何やら話し合っていた。


「そろそろいいだろう」


 日に焼けた筋骨隆々の金髪の大男が、腕を組みながら口を開いた。


「まさか、こいつがここまでしぶといなんてね」


 杖に腰掛けたまま宙に浮かぶ紫髪の女が、忌々しげに言った。


「はぁ……まったく、時間の無駄だ……」


 肩に一羽の烏を止まらせたスーツ姿の角刈りの男が、手にした黄色い懐中時計に目を落としながらぼやいた。


「ははっ、これだけ弱体効果を受けて、まだ戦えるなんてね。ますますあなたの身体に興味が湧いてきたわ」


 長い褐色の髪で顔の半分を隠した猫耳の女が、異様な光を瞳に宿しながら言った。


「老いぼれは孫娘の誕生日会の準備に戻らねばならんのじゃ。もう少し早く終わらせられんのか?」


 腰の曲がった、細長い白髭を生やした老人が、杖をつきながら口にした。


 そんな彼らに包囲されているのは、一人の茶髪の青年だった。


 重厚な鎧を身にまとい、巨大な剣を握ったまま片膝を地面につき、荒い息を繰り返している。


 顔にも鎧にも血がこびりついていた。それでも青年の瞳から闘志が消えることはなく、周囲を取り囲む者たちを鋭く睨みつけていた。


「悠文・伊勢さん。友人として、俺もあなたを傷つけたくはありません。領域を解除して、子供をこちらへ引き渡してください。そうしてくれるなら、あなたたちのパーティーには決して危害を加えないと約束します」


 そう告げたのは、周囲に数本の銀白色の長剣を浮かべた青年だった。


「今の状況をよく考えてください。いくらあなたが転移者とはいえ、聖者二人とS級抗魔使四人を同時に相手取って勝ち目などありません。これ以上、お互いに時間を無駄にするのはやめませんか?」


 何度も自分の懐中時計を確認していたスーツ姿の男が、そう付け加えた。


「そうそう。今ならまだ間に合うわよ? これ以上意地を張るなら、遠くで待機してる魔法部隊に、またたっぷり痛めつけてもらうことになるけど~?」


 魔女帽を被った紫髪の魔女が指を上げると、遠方にいくつもの巨大な魔法陣が展開された。


「老いぼれとしては、さっさとこの若造を殺してしまえばいいと思うんじゃが。そうすれば領域も消えるじゃろう?」


「ご老人、それは駄目です。空に浮かんでいる、あの大きな白い数字が見えますか?」


 銀白色の長剣を従えた青年は、不満げな老人に説明を始めた。


「あれは悠文・伊勢さんの領域能力が具現化したものです。そして今、俺たちを閉じ込めているこの領域には、『最後の一人が勝者となるまで、領域は解除されない』というルールが設定されています。ここで迂闊に彼を殺し、それでも領域が解除されなければ、今度は俺たちが不利な立場に追い込まれます」


 老人が空を見上げる。


 そこには巨大な白い数字――515が浮かんでいた。


「人が死んだ後まで領域が残るなど、老いぼれは聞いたことがないぞ。わしが物を知らんからといって、からかうでない」


「ええ。普通ならその通りです。ですが、目の前にいるのは転移者ですよ。歴史上、幾度となく世界を救ってきた特殊な存在です。転移者の能力や才能は千差万別。死後も領域を維持できる能力を持っていたとしても、不思議ではありません」


 銀白色の長剣を従えた青年は、かつて悠文・伊勢が所属する抗魔使のパーティーと、しばらく行動を共にしたことがあった。


 その間、彼は三人で構成されたそのパーティーに、何度驚かされたか分からない。


 少数で多数を打ち破り、圧倒的不利な状況から逆転して敵を返り討ちにする。そんなことは、この三人にとって日常茶飯事だった。


 もちろん、それは三人の優れた連携によるところも大きい。


 だが、それ以上に恐ろしいのが、転移者である悠文自身の身体能力だった。


 一人で百体もの魔物を相手取り、爆発して煙が上がればなぜか無傷。猛毒を受けても水でも飲んだかのように平然とし、罠に落ちても散歩でもするように切り抜ける。


 しかも、そんなものは彼にとって基本中の基本だった。


 人と人との間には、どうしてここまで大きな差があるのか。


 そう思わずにはいられなかった。


 悠文・伊勢は、自分を取り囲む者たちを見回した。


 つい先ほど、彼はすでにこの場にいる者たちの能力をすべて鑑定し終えている。


 予想していた通り、その大半が何らかの復活手段を持っていた。


 単純にここで全員を殺したところで、領域が解除された後に復活すれば、こいつらはそのままリリスたちを追っていくだろう。


 そして悠文には、もう一度こいつらを足止めできるような手段は残されていなかった。


 ――そんな展開は、俺の想定したゲームシナリオじゃない。


 この状況を打開する方法は一つ。


 ここにいる全員を、一人残らずこの場所に閉じ込めること。


 ゲーム領域の隔絶効果は絶対だ。たとえ最強の竜族だろうと、この領域のルールには従ってもらう。


 ――俺一人と引き換えに、向こうの五百人をここに閉じ込められる。


 どう考えても大儲けだ。


「これも駄目、あれも駄目……ならば……いや、もうよい。老いぼれは端で見物させてもらうとしよう」


 そう言って、老人は一人で近くの岩まで歩いていき、その上に腰を下ろした。


「はぁ……事情は今説明した通りです、悠文・伊勢さん。そろそろ決断してください。でなければ、俺も……あなたに剣を向けるしかありません」


 青年が銀白色の長剣を一本振るい、その切っ先を悠文・伊勢へ向ける。


 直後、剣が眩い光を放った。


 すると悠文・伊勢は観念したかのように俯き、ゆっくりと口を開いた。


「俺は……子供の頃から、ずっとゲームばかりやっていた。中学では、どんくさいって理由でいじめられてた。それでもずっと我慢してたんだ。高校に行けば、きっと何かが変わるって思ってたから。でも、高校に入っても何も変わらなかった。周りの連中は相変わらず俺を避けて、勇気を出して自分から話しかけても、返ってくるのは冷たい無視だけだった。それから俺は……また自分の殻に閉じこもった」


「そんなある日……俺がスマホでゲームをしていると、ちょっと強引な女の子が近寄ってきた。最初は怖くて、どう接すればいいのかも分からなかった。でも、あいつはそんなこと全然気にしなかった。一緒にゲームをして、一緒に学校へ行って、一緒にゲームを買いに行って……それまでの俺には想像すらできなかったことが、いつの間にか当たり前の日常になっていた。あいつは太陽みたいに俺の心を照らして、新しい人生をくれたんだ」


「その後、俺たちは一緒にこの世界へ転移した。こんな訳の分からない世界に放り込まれても、あいつは変わらなかった。どんな状況でも諦めず、どんな窮地でも真っ先に立ち上がって、いつも笑いながら俺たちの前を歩いていた。あいつに助けられた人たちは希望を取り戻し、あいつが救った町には新しい未来が生まれた。そんな姿を見ているうちに、俺はどんどんあいつに惹かれていった。だから、ある日の集まりで勇気を振り絞って告白したんだ。ずっと前から準備して、何度も頭の中で練習して……完璧な告白になるはずだった。でもあいつ、『全然ロマンチックじゃない!』って泣き出してさ……結局、その泣き声を聞きながら、俺たちは付き合うことになった」


「それから長い時間が経って……あいつが妊娠したって初めて聞いた時、俺は完全に固まった。自分みたいな人間に子供ができるなんて、考えたこともなかったから。どうすればいい父親になれるのかって、そればかり考えて焦ってた。妊娠中は、子供の名前や教育方針を巡って何度も喧嘩した。ミリュシスにまで止められたこともあった。でも……あの時間が、俺の人生で一番幸せだった」


「――それを壊した奴らが現れるまでは」


「『魔王が転生する』――そんな噂が、ある日突然、町で広まり始めた。その噂はまるで病原菌のように広がっていった。民衆から貴族へ、そして国全体へ……気づいた時には、どこもかしこもその話で埋め尽くされていた。君主は君主でなくなり、民は民でなくなった。誰もが魔女狩りに取り憑かれたように、この時期に生まれる子供を血眼になって探し始めた。お前たちが『滅魔作戦』と呼ぶその行動のせいで、何人の罪もない子供が殺されたと思ってる! 挙げ句の果てには、俺たち夫婦の名前まで名指しした。何の根拠もない罪を俺たちに被せて、自分たちの『滅魔作戦』に正当性を持たせるためだけに!」


「お前たちの言う通り、俺は転移者だ。だったら、自分の子供が魔王かどうかくらい、俺自身が分からないとでも思ってるのか! 何の説明もなく、親から子供を奪おうとして……そんなものを受け入れる親が、この世のどこにいる!」


 その瞬間、悠文・伊勢の足元から巨大な緑色の魔法陣が猛烈な勢いで広がり、目を刺すような閃光が辺りを包み込んだ。


「これは!」


「気をつけろ!」


「退け!」


 誰一人として躊躇しなかった。


 全員がそれぞれの能力を駆使し、一斉にその場から離脱する。


 直後、大地が激しく震え始めた。


 地表には無数の亀裂が走り、遠くの森に潜んでいた鳥や獣たちが驚いて四方へ逃げ出していく。


 悠文・伊勢の左右では、地中に潜む何かが大地そのものを押し上げ始めていた。


 激震とともに巻き上がった膨大な土煙が、瞬く間にすべての視界を覆い尽くす。


 何が起きたのか、誰にも分からない。


 それでも全員が即座にその場を離れ、遠く離れた草原まで退避していた。


 転移者が生きている限り、戦況などいつひっくり返ってもおかしくない。


 それを彼らはよく知っていたからだ。


 やがて、空を覆っていた土煙が晴れていく。


 そこには、天を衝くほど巨大な二体の石像がそびえ立っていた。


 一体は長剣を手にし、兜の奥に青い光を宿している。


 もう一体は盾を構え、兜の奥に赤い光を宿している。


「これは……石像?」


 直後、二体の石像の兜の奥から、強烈な青と赤の光が放たれた。


「気をつけろ! 石像そのものに何か特殊な攻撃能力があるかもしれない!」


 その言葉を聞いた者たちは、慌てて防御態勢を取った。


 しかし、いつまで待っても何も起こらない。


「ふん! ただのこけおどしじゃないか」


 金髪の大男が不満げに腕を組んだ。


「あり得ない! あれだけ時間を稼いでおいて、何の役にも立たない石像を二体作っただけなんてあり得ない!」


 銀白色の長剣を従えた青年の顔には、明らかな焦りが浮かんでいた。


 二体の石像が何のために存在しているのかは分からない。


 それでも彼は、戦況がすでにひっくり返っているのではないかという嫌な予感を覚えていた。


「ここですでに相当な時間を浪費している。今の最優先事項は、悠文・伊勢を見つけ出して殺すことだ!」


 スーツ姿の男は手際よく懐中時計の蓋を閉じると、そのまま皆の視界から姿を消した。


「どうやら、あなたの和平路線はもう通用しないみたいね、剣の聖者。なら私たちも、この芝居の幕引きといきましょうか」


 そう言い残すと、紫髪の魔女は箒に乗り、二体の石像へ向かって飛んでいった。


 その後ろには、数十人の魔法使いたちが隊列を組んで続いていく。


「現実を受け入れることじゃ。お主が望んでいた展開など、最初から存在せんかったのじゃ」


 老人が杖で地面を一度叩く。


 すると数百本もの骸骨の腕が地面を突き破って現れ、そのまま老人を運び去っていった。


 大半の者たちが去った後、その場に残ったのは三人だけだった。


 金髪の大男、銀白色の長剣を従えた青年、そして褐色の長髪を持つ猫耳の女。


「私、あの二体の石像にすっごく興味あるんだけど。先に見に行ってみない?」


 猫耳の女が瞳を輝かせながら青年に提案した。


 しかし、青年から返事はない。


「むぅ……」


 猫耳の女は頬を膨らませ、不機嫌そうにその場を去っていった。


「今回の作戦では、お前が隊長だったはずだろ?」


 金髪の大男が、俯いたままの青年へ問いかける。


「全員がお前の方針に従うって話だったのに、帝国側はもう隠す気もなく悠文を殺しにかかってる。で、これからどうするんだ? 聖者様」


「はぁ……もし俺の考えが正しければ……俺たちはもう負けてる」


 青年は両手を広げ、すっかり生気を失ったような表情を浮かべた。


「どういう意味だ? 石像が二体増えただけだろ。あんなもん、一体につき三、四発も殴れば壊せる」


「そんなに簡単ならよかったんだけどな……まず、空の数字を見てみろ」


 金髪の大男が顔を上げる。


 空には、大きな白い数字が浮かんでいた。


 517。


「それがどうした? 別に何も変わって……いや、待て。さっきはいくつだった?」


「515だ。領域内にいる515人を示していた。それが今は517になってる。増えた二人が何なのか……分かるか?」


 青年はその場にしゃがみ込み、拾った木の枝で地面に二体の石像を描き始めた。


「まさか……あの二体の石像か!」


 金髪の大男が目を見開いて叫んだ。


「そういうことだ。悠文・伊勢の領域には、『最後の一人が勝者となるまで、領域は解除されない』というルールがある。つまり、あの石像まで領域内の参加者として数えられている。あの二体が存在し続ける限り、この領域は永遠に解除されない可能性がある」


「だったら簡単じゃねえか。その二体をぶっ壊せばいい」


 金髪の大男は鼻で笑った。


「……やっぱり、お前は転移者ってものを全然分かってないな」


 青年は呆れたように息を吐いた。


「転移者の一番厄介なところは――『ルールを決めるのはあいつら自身だ』ってことだ」


「壊せばいいって言うけど、どこまで壊せば『壊した』ことになる?」


 青年は枝先で石像の絵を指した。


「岩まで砕けばいいのか? 土の塊になれば? それとも砂粒になるまで砕かなきゃならないのか?」


「それに、もし悠文が自分の生命と石像を繋いでいたらどうする?」


 青年は石像の隣に、小さな人型を描き加えた。


「石像が倒れない限り、悠文も死なない。そんなルールだったら、お前はどうするつもりだ?」


「…………」


 金髪の大男は答えられなかった。


「転移者の力は、俺たちの想像なんか簡単に超えてくる。もしかすると帝国の言う通り、最初から容赦なく殺しにかかるべきだったのかもしれない。そうしていれば、今頃こんなことで頭を抱えずに済んだ」


 青年は木の枝で、地面に描いたものをぐちゃぐちゃに掻き消した。


「俺はお前を責めるつもりはねえよ。友達の子供を奪えって言われたら、俺だって死んでも断る。ましてや、まだ生まれてすらいない子供だぞ。国から直接命令されてなきゃ、俺だってこんな場所には来てねえ」


「……今さら言っても遅いさ」


 青年は掻き乱した地面に、大きな×印を描いた。


「俺たちが相手にしてるのは、我が子を守ろうとしている父親と母親だ。子供を守ろうとする親ほど、厄介な相手はいない。こっちが手加減したところで……向こうが手加減してくれるはずがない」


「はぁ……『魔王』って言葉は、本当にたくさんの人間を不幸にしてきた」


 青年は木の枝を放り捨て、立ち上がった。


「魔王の転生、か……ははっ。今になって、本当にそうだったらいいのにって思えてきたよ」


「それで?」


 金髪の大男が青年を見つめる。


「結局、お前はどうするつもりなんだ?」


「はぁ……祈るしかないな」


 青年は一本の飛剣を呼び出し、その上へ足を乗せた。


「これが、あいつの最後の切り札であることを」


 その姿を見て、金髪の大男もすぐにすべてを察した。


 二人はそのまま一緒にその場を飛び立った。


 向かう先は、激しい炎が夜空を赤く染めるあの戦場だった。


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