序章(上) 新生
闇に包まれた鬱蒼とした森の上空を、無数の黒衣の魔法使いたちが飛び交っていた。まるで、何かを追い詰めているかのように。
先頭を行く者が号令を発すると、隊列のあちこちから立て続けに魔法の詠唱が響き渡る。
やがて詠唱が終わると、無数の魔法が一斉に放たれた。轟音とともに爆炎が次々と夜空を染め上げ、絶え間なく巻き起こる爆発の光が、漆黒の森を昼間のように照らし出していった。
だが、彼らの誰一人として、自分たちが何と戦っているのかを知らなかった。彼らはただ上からの命令に従い、指定された座標へ向けて、ひたすら魔法を撃ち込み続けているだけだった。
幾筋もの炎の流星が夜空を駆け抜ける中、森のほど近くに建つ粗末な木造小屋から、赤子の産声が響いた。
小屋の中では、ゆったりとした純白のワンピースを身にまとった赤髪の女性が、朽ちかけた一人用の木製ベッドに横たわり、乱れた髪のまま小さく息を切らしていた。
顔からは血の気が失われ、純白だったワンピースの裾もすでに赤く染まっていた。それでも赤髪の女性は、できる限り声を漏らさないよう必死に堪えていた。
その傍らでは、翠緑の術師ローブをまとい、白髪を三つ編みにした女性が、あらかじめ用意していた布で生まれたばかりの赤子を丁寧に包み、その耳元で何事かをそっと囁いた。
しばらくすると、赤子のけたたましい泣き声は次第に収まり、小屋の中には再び静寂が戻ってきた。
「ミリュシス、その子を……私に見せて」
衰弱した身体を顧みることなく、赤髪の女性リリスは手を伸ばし、傍らのミリュシスにそう告げた。
「リリス、先にこの回復薬を飲んで」
ミリュシスは片腕で赤子を抱いたまま、もう片方の手に緑色の薬を出現させ、ゆっくりとリリスの口元へ運んだ。
回復薬が全身に染み渡るにつれ、リリスは身体の奥底から力が湧き上がってくるのをはっきりと感じた。血の気を失っていた顔にも徐々に赤みが戻り、身体を襲っていた苦痛もずいぶんと和らいでいった。
リリスは上半身を起こして壁にもたれかかると、ミリュシスの腕から、ほんの数分前まで自分の胎内にいた赤子をそっと受け取った。
赤子は目を閉じたまま、小さな手足をわずかに縮こませている。頭にはまだまばらに黒髪が生えているだけだったが、その中には淡い紫色の髪が数本混じっていた。
腕の中の我が子を目にした瞬間、リリスの顔に自然と笑みが浮かんだ。
――すべては、この子のため。
そう思えば、これまでのすべてが報われたような気がした。
「ねえ、おちびちゃん。ママ、すっごく痛かったんだからね? どうやってお返ししてくれるのかな?」
リリスは微笑みながら、腕の中の赤子に優しく語りかけた。
もちろん、赤子から返事が返ってくることはない。
ただ安心しきったように、静かな寝息を立てていた。
「知ってる? 今ね、外ではものすごーくたくさんの人たちが、あなたのことを探してるの。こんなに小さいのにもう有名人だなんて、ママは羨ましいな~」
リリスは腕の中の赤子に向かって、まるで楽しい出来事でも話して聞かせるかのように、優しい声で語り続けた。
「今頃パパはね、わざわざ会いに来てくれた熱狂的なファンのみんなを、一生懸命引き止めてくれてるの。だから一緒にパパを応援しよっか?」
「そのファンの中にはね、パパとママのお友達もたくさんいるのよ。きっとママがいつもあなたのことを自慢してたから、みんな待ちきれなくなっちゃったんだね」
「でも、まだダ~メ。うちの小さなスターは、まだおめかしも済んでないんだから。今は休憩時間につき、ファンの入場は禁止で~す」
そう言って、リリスは指先で赤子の柔らかな髪をそっと撫でた。
「こんなに小さい頃から可愛いんだもの。大きくなったら、きっと誰からも好かれる格好いい男の子になるわ。そしたらきっと、たくさんの女の子からモテて……」
そこまで口にしたところで、リリスの声が途切れた。
堪えていた涙が頬を伝い、次から次へと零れ落ちる。
その雫は、赤子を包む布を静かに濡らしていった。
「ママね、本当はあなたに、とびっきり格好いい名前をつけてあげたかったの。誰が聞いても、すぐにあなたのことを覚えてくれるような名前を」
「でも……やっぱり、パパの言う通りにすることにした。あなたには、ごく普通の名前をつけるわ。もしかしたら、そのせいでママのことを嫌いになるかもしれないけど……それでも、そうしなきゃいけないの」
リリスは涙を浮かべながらも、努めて明るい笑顔を作った。
「だってあなた、今は有名になりすぎちゃったから。普通にしてないと、ファンのみんなに見つかっちゃうでしょ?」
そして、愛おしそうに我が子を見つめる。
「武……武伊勢! それがあなたの名前よ。パパがつけてくれたの!」
そう告げると、リリスは自分の頬を赤子の小さな頬へそっと寄せた。
「それからパパがね、あなたに伝えてほしいって。ずっと元気で……無事に大きくなってくれって。パパはずっと、あなたのことを愛してるって」
「ね? パパって本当に馬鹿でしょう……最後に伝える言葉まで、こんなに普通なんだから。そんなんじゃ……そんなんじゃ、うちの武ちゃんには全然釣り合わないよ……」
震える声を押し殺しながら、それでもリリスは笑おうとした。
「うちの武ちゃんは……ただ元気に大きくなるだけじゃない! ママみたいに……ものすっごく強くなって……困っている人たちを助けるの」
「それで、みんなからいっぱい好かれて……いっぱい褒めてもらうんだから! ねっ?」
返事の代わりに、静まり返った小屋にリリスの声だけが響いていた。
「武ちゃん……ごめんね。ママ、もうあなたのそばには……いてあげられないかもしれない」
「パパがね……たった一人で頑張ってるの。だからママも、パパを助けに行かなくちゃ……」
「ごめんね……。こんな自分勝手なパパとママを……どうか許して……」
もう抑えることなどできなかった。
溢れ出した涙が次々と頬を伝い、リリスは掠れた声を絞り出す。
「本当は……本当に、あなたが大きくなるところを見たかった……。元気いっぱいに走り回るところも……怒った顔も、照れた顔も……全部、見たかった……」
リリスは腕の中の我が子を見つめ、その小さな額へそっと唇を重ねた。
「武ちゃん……ママは、ずっとあなたを愛してる」
「これからはミリュおばさんが、あなたをここから連れ出してくれるからね。ちゃんとミリュおばさんの言うことを聞くのよ。わかった?」
目を真っ赤にしたリリスは、名残惜しそうに武ちゃんをミリュシスへと託した。
「ミリュシス、ごめんね。あの時、私が無理やりあなたを冒険に連れ出したこと……きっと嫌だったよね」
まさか今になってそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。ミリュシスはしばらく呆然とした後、静かに答えた。
「そんなことはない」
「最初は慣れないことばかりだった。でも、この旅で私はたくさんのことを知ることができた。あなたたちと過ごした時間を、無駄だったとは思っていない」
「ありがとう。私のそばにいてくれて。私のわがままを受け入れてくれて……本当にありがとう」
そう言って、リリスは立ち上がると、ミリュシスをそっと抱きしめた。
ミリュシスはその温もりを静かに受け止めながら、これまで共に経験してきた数々の冒険を思い返していた。
目の前にいる母親が我が子へ注ぐ、偽りのない愛情。
それを目の当たりにしたミリュシスの胸にも、これまで知らなかった感情が、小さな芽を出し始めていた。
「これから……武ちゃんのこと、お願いね」
「私は……リリスがこの子を連れていったほうがいいと思う」
しかし、リリスは静かに首を横に振った。
「もう、体内の毒を抑えきれそうにないの。それに……悠文の馬鹿にも、ちゃんと話をつけに行かなくちゃ」
「だから、この子のことは……あなたにお願いするしかない」
そう言うと、リリスは両手を差し出した。
次の瞬間、その手のひらに、宝石の嵌め込まれた指輪がいくつも現れた。
「これは、私たちがこの数年間で貯めてきた収納の指輪。私たち夫婦から武ちゃんへの、最初の誕生日プレゼントよ」
ミリュシスはリリスの手のひらに現れた指輪を見つめた。
その言葉と表情だけで、リリスがすでに覚悟を決めていることを悟ったのだろう。
ミリュシスは何も言わず、ただ静かに指輪を受け取った。
「ワン! ワンワン!」
突如として響いた犬の吠え声が、静まり返っていた夜の森を切り裂いた。
二人の表情が一変する。
次の瞬間、二人は同時に声のした方向へ身体を向け、戦闘態勢を取った。
「ミリュシス、すぐに撤退して! ここは私が食い止める!」
リリスは右腕を広げるようにして背後のミリュシスを庇い、鋭く叫んだ。
「わかった」
ミリュシスに迷いはなかった。
武ちゃんをしっかりと抱きかかえたまま踵を返すと、木造小屋の裏口から飛び出し、そのまま深い森の中へと駆け込んでいく。
やがてミリュシスの姿が夜の闇へと消えた直後、木造小屋の周囲に豪快な女の声が響き渡った。
「チッ、もう一匹ネズミが逃げたか。右翼部隊、追え」
その命令を受け、右翼部隊が追跡へ動き出そうとした、その時だった。
轟音とともに、木造小屋の正面扉が勢いよく吹き飛んだ。
燃え盛る炎をまとった真紅の影が、扉の向こうから飛び出し、そのまま兵士たちの只中へと躍り込んだ。
「へえ? 最近の人攫いっていうのは、親が目の前にいてもお構いなしに子供を奪おうとするのね?」
月明かりの下、リリスの真紅の長髪が炎のように揺らめいていた。
その瞳から放たれる凄まじい威圧感に、周囲の兵士たちが息を呑む。
リリスがただ一度、周囲を見渡しただけだった。
それだけで数十人もの兵士が、反射的に数歩後ずさった。
「死にかけの人間が、わざわざそんな派手な芝居をする必要があるのか? 誰にも弔われず、誰の記憶にも残らない。それがお前の行き着く先だ、リリス・エルク」
リリスを一目見ただけで、先頭に立つ桃色の髪の女軍人は、すぐに彼女の身体の状態を見抜いた。
女軍人が身にまとっているのは、漆黒を基調に鮮やかな赤い紋様が何本も走る装甲だった。その胸部には巨大な赤い球体が埋め込まれており、どうやらそれがこの装甲の動力源となっているらしい。
「S級の毒は、ずいぶんと堪えているようだな。何年も前、幾度となく帝国を掻き回していた頃のお前と比べれば、今や風前の灯火も同然。哀れなものだ」
「まさか、本当に女武神装甲を完成させるなんてね。百人を超える命を犠牲にしてまで……。あの時、あんたたち帝国の犬を徹底的に叩きのめしておかなかったのは、私の落ち度だったわ」
「ほう? それが帝国への賛辞か? もっと聞かせてもらおうか」
「そろそろ、もう一度わからせてあげたほうがよさそうね。あんたたち帝国の犬の飼い主が、いったい誰なのか!」
リリスが両の拳を勢いよく打ち合わせる。
甲高い金属音が鳴り響くと同時に、一対のナックルガードが出現し、彼女の両手から腕にかけてを覆った。
「ハハッ、悪あがきを!」
「アストラS級抗魔使、リリス・エルク参上!」
その言葉と同時に、灼熱の火柱が次々と天高く噴き上がった。
燃え盛る炎の光が、夜空の半分を赤々と照らし出した。




