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第二十八章 隣人への挨拶

翌日の午後。


仁棲寮の廊下では、窓から差し込む柔らかな日差しが床を照らしていた。


「さあ、これからご近所さんに引っ越しのご挨拶に行くわよ。ちゃんと礼儀正しくするのよ!」


由美子は軽く手を叩き、隣にいる武に言い聞かせた。


由美子は収納指輪から、きれいに包装された菓子折りを二箱取り出した。


午前中、二人で生活用品を買いに出かけた際、近所への挨拶用に購入しておいたものだった。


二人は隣の部屋の前まで行き、由美子が軽く扉を叩いた。


しばらく待つと、ようやく内側からゆっくりと扉が開いた。


顔を出したのは、ふんわりとした金髪の若い女性だった。


その腕には、まだ幼い赤ん坊が抱かれていた。


赤ん坊は自分の指をくわえながら、まん丸な瞳で玄関先の見知らぬ二人をじっと見つめていた。


「えっ? どちら様ですか……?」


「こんにちは。隣に引っ越してきました、伊勢と申します。ご挨拶に伺いました」


由美子は優しく微笑んだが、その視線は無意識のうちに女性の腕に抱かれた赤ん坊へと向かっていた。


「あっ! こんにちは! 私はヤフィラ・ヴァルトです。こちらは娘のルーシーです」


ヤフィラは気さくに微笑み、少し体を横にずらした。


「よかったら、中に入っていきませんか?」


「いえ、お構いなく。今日はご挨拶だけですので。こちら、ほんの気持ちですが、どうぞお受け取りください」


由美子は菓子折りを差し出した。


「あら、ありがとうございます! わざわざすみません」


ヤフィラは菓子折りを受け取り、笑顔で礼を言った。


その頃には、由美子の視線はすっかりルーシーに釘付けになっていた。


由美子は思わず身を乗り出し、優しく尋ねた。


「今、何か月なんですか?」


「七か月です。最近はハイハイができるようになって、家中をあちこち動き回っているんですよ」


ヤフィラがそう話すと、まるで言葉を理解したかのように、ルーシーが由美子に向かってにっこりと笑った。


その口元には、生え始めたばかりの小さな乳歯が二本のぞいていた。


「あらまあ! なんて可愛いの! ルーシーちゃん、こんにちは~!」


由美子は嬉しそうに笑いながら、赤ん坊に向かって小さく手を振った。


ルーシーも「あー、うー」と声を上げ、小さな手をぱたぱたと動かした。


「ふふっ。ずいぶん気に入られたみたいですね」


ヤフィラは楽しそうに笑った。


武は傍らに立ち、由美子がすっかり赤ん坊に夢中になっている様子を眺めていた。


その口元にも、自然と小さな笑みが浮かんだ。


それから少し世間話を交わし、由美子は名残惜しそうにヤフィラ母娘へ別れを告げた。


続いて二人は、別の部屋の前へ向かった。


由美子が再び扉を叩く。


しかし、しばらく待っても中から返事はなかった。


「ここの方はお留守みたいね。次のお宅に行きましょうか」


由美子は特に気にする様子もなく、武を連れて廊下の反対側へ向かった。


今度はノックして間もなく、勢いよく扉が開いた。


顔をのぞかせたのは、すっきりとした短いオレンジ色の髪をした女性だった。


手には食器を拭くための布巾を持っている。


「ん? どちらさん?」


「こんにちは。私たち、こちらに引っ越してきたばかりの者です。ご挨拶に伺いました。こちら、ほんの気持ちですが」


由美子は微笑みながら菓子折りを差し出した。


「おおっ! 新しいご近所さんか! こんにちは! あたしはサユリ・クラタ! サユリって呼んでくれればいいよ!」


オレンジ色の髪の女性は、明るい声でそう名乗った。


「さあさあ、入って入って!」


サユリは菓子折りを受け取ると、気さくに二人を招き入れようとした。


「いえいえ、今日はご挨拶だけですので。お休みのところ、お邪魔するわけにはいきませんから」


由美子は丁寧に断った。


「そっか! じゃあ、今度は絶対遊びに来てよ! そうそう、この近くにすっごく美味しいパン屋があるんだ。今度案内するね!」


「本当ですか? それじゃあ、そのときはよろしくお願いします!」


「いいって、いいって! これからはご近所同士なんだから、困ったことがあったら何でも言ってよ!」


サユリに別れを告げた二人は、廊下を歩いて自分たちの部屋へ戻ろうとしていた。


そのとき、武のポケットに入っていたスマートフォンが震えた。


取り出して画面を見ると、ヤフィエルからの着信だった。


「もしもし?」


「武・伊勢か? 明日の朝九時に白魔法学院まで来てくれ。いくつか伝えておきたいことがある」


ヤフィエルの声は、相変わらず歯切れがよかった。


「わかった。明日行くよ」


「よし。場所はあとでメッセージで送る」


それだけ言うと、ヤフィエルは電話を切った。


由美子は武の顔を見て尋ねた。


「先生から?」


「うん。明日、学院に来てほしいって。何か話があるみたい」


武はスマートフォンをポケットにしまった。


「あら? 確か入学手続きは五日後じゃなかったかしら? 早まったの?」


由美子は不思議そうに首をかしげた。


「俺にもわからない。破格生のことかもしれないけど」


武は肩をすくめ、自分なりの推測を口にした。


「そうなのね。それじゃあ、今夜は早めに休みましょうね」


由美子は微笑みながら頷き、自分たちの部屋の扉を開けた。


---


翌日の午前。


武はヤフィエルから送られてきた案内を頼りに、一人で白魔法学院の会議室へと向かった。


ヤフィエルはすでに入口で待っていた。


手には湯気の立つコーヒーのカップを持ち、目の下には相変わらず濃い隈が浮かんでいる。


全身から、徹夜明けのような疲労感が漂っていた。


武が近づくと、ヤフィエルは顔を上げ、小さく頷いた。


「入れ」


二人は静かな小会議室へと入った。


室内には長机が一つ置かれ、その上にはすでに何部かの書類が並べられていた。


ヤフィエルはそのうちの一部を武の前へ滑らせた。


「今日はお前に、いくつか伝えておきたいことがある」


ヤフィエルはコーヒーを一口飲んだ。


「今回は破格生だけを対象とした特別な手続きだ。一般には知らせていない。だから今日ここで見聞きしたことは、外で口にするなよ」


「わかった」


武は素直に頷いた。


「それと、五日後に予定されていた通常の手続きには、もう参加しなくていい。お前の分は今日ここで済ませる」


「それから、ほかの破格生を探そうなんて考えるなよ。お前たちは時間をずらして呼ばれているからな」


「はぁ……」


武の頭に浮かんだばかりの考えは、あっさりとヤフィエルに見抜かれてしまった。


「まずは、お前が今住んでいる寮について話そう」


ヤフィエルは書類を開き、そのうちの一ページを武のほうへ向けた。


「もう知っているかもしれないが、お前が住んでいる仁棲寮は、長生門傘下の企業が運営している社員寮だ」


「本来、こういう寮は外部の人間には開放されていない。だが、うちの学院長は長生門の当主とちょっとした付き合いがあってな。特別に入居できるよう手配してくれたんだ」


「お前が今住んでいる部屋の家賃は、月二万羽貨。契約期間は一年だ。ただし、その一年分の家賃は学院長がすでに全額支払ってくれている」


(一年か……。つまり、一年以内に新しい家を一軒買わないといけないってことだな)


(こっちの家って、一軒いくらくらいするんだろう?)


「うん。学院長にお礼を伝えておいてくれ。それにしても、長生門っていったい何なんだ? 最近よく耳にするんだけど」


「ん? 知らないのか?」


ヤフィエルは少し意外そうに武を見た。


「長生門は、かなり有名な名家だ。主に魔導具の研究開発と製造を手がけている」


「傘下の企業は大陸全土に広がっていてな。一般市民が使う生活用の魔導具から、抗魔士が使うさまざまな魔導兵器まで幅広く扱っている。軍隊で使われる装備の一部も、長生門傘下の企業が供給しているんだ」


「へえ、すごいんだな」


「仁棲寮はうちの学院の管轄じゃないが、学院長がせっかく手配してくれたんだ。安心して住めばいい。うちの学院長は、ああ見えてちょっと抜けているところもあるが、交渉の腕は一流だからな」


ヤフィエルは人差し指を一本立てて言った。


「さて、次は破格生の待遇についてだ。あの日、学院長から詳しい説明はなかっただろう?」


ヤフィエルは書類の次のページを開き、細長い指である箇所を軽く叩いた。


「白魔法学院からは、毎月八万羽貨の補助金、祝福系の魔術カード三枚、それに高級補助薬剤五セットを支給する予定だ」


「この特別支給契約の期間は三年間。その間、白魔法学院の専用図書館も自由に利用できる」


「魔術カード? それって何だ?」


武は尋ねた。


「簡単に言えば、特定の魔術をあらかじめカードに刻み込んだ魔導具だ。使うときはカードを破るか、対応する起動呪文を唱えるだけで、中に記録された魔術を直接発動できる」


「今回支給する祝福系の魔術カードは、使用者にさまざまな強化効果を与えるものだ。例えば攻撃力の増加、防御力の向上、特定の魔術に対する耐性の強化などだな。具体的な効果は、どのカードを選ぶかによって変わる」


「なるほど、そういうことか」


武は納得したように頷いた。


「それから、入学後のことについても話しておこう」


「お前が破格生だと特定されるのを避けるため、ほかの新入生と同じく、E級抗魔士として実績を積んでもらう。専門的な魔術の授業を受ける必要はないが、共通の一般常識科目には出席してもらうぞ」


ヤフィエルはコーヒーを一口飲み、話を続けた。


「それと、先に言っておくことがある。白魔法学院の学生は九十五パーセントが女性だ。そこに男のお前が一人入ってくれば、破格生かどうかに関係なく、嫌でも注目を集めるだろう」


「学院上層部がお前の破格生としての身分を漏らさないことは保証できる。だが問題は、お前の戦闘スタイルが、白魔法学院で教えている治癒や補助の魔術とはまるで噛み合っていないことだ」


「一度でも本気で戦うところを見せれば、破格生だと疑う者が大勢出てくるはずだ」


ヤフィエルは少し困ったような口調で、あらかじめ釘を刺した。


しかし、武はそのことについて、さほど気にしていなかった。


「ただし、いい知らせもある。正式な挑戦で一人でも倒せば、その後一か月間は、どの学院からも新たな挑戦を申し込まれることはない。つまり、一年に相手をするのは多くても十二人で済むわけだ」


「それでも面倒そうだな。一度で全部片づける方法はないのか?」


武は眉をひそめた。


意味のない連戦に時間を費やしたくはなかった。


「ん? それはお前の実力次第だな。誰も挑戦する気にならないほどの力を見せつければ、挑んでくる奴もいなくなるだろうさ」


ヤフィエルは片眉を上げ、意味ありげに笑った。


「それで……白魔法学院には、俺以外にも破格生がいるのか?」


武は少し考えてから尋ねた。


「いない。うちの破格生は毎年、早々に正体を特定されて倒されているからな」


ヤフィエルはため息をついた。


「まさか、白魔法学院の中に内通者でもいるんじゃないだろうな?」


武は疑わしそうに尋ねた。


「考えすぎだ。白魔法学院で学ぶのは、ほとんどが補助や防御に関する魔術だ。もともと戦闘を専門とするほかの学院とは、まともに張り合えない」


「たとえほかの学院の連中が、片っ端から挑戦を仕掛けるような単純な方法を取ったとしても、いずれは見つかってしまう。うちの学生は一対一の戦いだと、ほかの学院の戦闘狂どもにはどうしても分が悪いからな」


「だからこそ!」


ヤフィエルは身を乗り出し、両手で机を強く叩いた。


そして、真剣な表情で言い放った。


「学院長は今回、白魔法学院の誇りをすべてお前に賭けているんだ! 頼むから、うちの学院の意地を見せてくれよ!」


「あ、ああ……できるだけ頑張るよ……」


(この先生、たった一言で学院が長年抱えてきた悔しさも重圧も、全部俺に押しつけてきたぞ……)


「そうだ! それから、お前の体質――先天闘気聖体についても話しておこう」


「このことを知っているのは、今のところ学院の上層部と私だけだ。ほかには誰も知らない」


「この体質は募集試験のときに確認されたものだが、極めて珍しい闘気体質だからな。正直なところ、白魔法学院では適切な指導ができない。必要なら、こちらの伝手を使って、闘気学院の教授を秘密裏に招き、お前だけに個別指導をしてもらうこともできるぞ」


「先天闘気聖体? 何だ、それ?」


武はきょとんとして尋ねた。


「ん? 知らないのか?」


ヤフィエルは思わず目を丸くした。


武の困惑した表情が演技ではないとわかると、ヤフィエルは先天闘気聖体の特殊性について説明を始めた。


(マジかよ……。俺にそんな特別な体質があったなんて、全然知らなかったぞ……)


(ディゼル、お前はこの先天闘気聖体ってやつを知ってるか?)


武は心の中で呼びかけた。


『聞いたこともないな。おそらく、お主ら人間が勝手につけた名前だろう。だが、お主の体質が特別なのは確かだ。己の肉体だけで魔物と渡り合える人間など、吾も見たことがないからな』


頭の中に、ディゼルの気だるげな声が響いた。


(そうなのか……)


武はディゼルの言葉を心に留めた。


武が少し上の空になっていることに気づいたのか、ヤフィエルは話を本題へ戻した。


「さて、話を戻そう。今回の手続きでは、ほかにも事前に伝えておかなければならない重要なことがある」


「今年はアストラ総学院の新入生が例年より大幅に増えている。そこで、資源の配分や学生同士の連携に関する問題を解決するため、学院側がチームのメンバーを割り振ることになった。最初のメンバーは自分で選べないからな」


ヤフィエルは表情を引き締め、真剣な口調で説明した。


「お前のチームメンバーの名簿は、目の前の書類に載っている」


武は手元の書類をめくり、最後に一枚のチーム名簿へと視線を止めた。


「俺が隊長なのか?」


「ああ。お前を含めた三人の編成はすでに決まっている。ほかの二人はどちらも元素学院の学生だ。ただし、四人目は自分で探してもらうことになる」


ヤフィエルは書類に指を伸ばし、その箇所を示した。

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