第二十七章 欲望のルーレット
風呂を済ませた武・伊勢は、タオルで髪を拭きながら、新しい自分の部屋へと向かった。
部屋の内装は極めて簡素だった。
ベッドが一台、机が一つ、そしてクローゼットが一つ。よく言えば、機能美を追求した造りといったところだろう。
武は部屋にそれほどこだわりがなかったため、すぐに受け入れることができた。
ただ一つ残念だったのは、家を出るときに、もっといろいろな物を収納指輪に詰め込んでおかなかったことだ。
そんなことを考えながら、武はベッドの端に腰を下ろした。
そのとき、どこか年季の入った声が、不意に耳元で響いた。
「ああ……ようやく外の空気が吸える。窮屈でたまらなかったぞ……」
何もない空間に、紫色の炎がふっと燃え上がった。
「何か用か?」
武はわずかに不機嫌そうな声で尋ねた。
「そう冷たくするな、小僧」
「ここは以前お主がいた山林よりも、ずっと魔力の濃度が高い。体に何か変化が起きているとは思わんか?」
紫色の炎は武の頭上を一周すると、そう問いかけた。
「変化?」
武は横目でディゼルを冷ややかに見た。
「忘れたのか? 吾は欲の神器。穢れを浄化するために創られた存在だ。そして穢れとは、魔法が生み出す副産物。つまり、魔力が濃く、人口が密集している場所ほど、穢れも多く生まれるというわけだ」
「ん? それがどうした?」
武は怪訝そうにディゼルを見つめたものの、その言葉に潜む危険には、まだ気づいていなかった。
「お主の体は、吾と契約を交わした時点で、特殊な器へと変化している」
ディゼルは武の真上で動きを止めた。
その炎の光が、武の瞳に映り込んだ。
「その器は、まるでブラックホールのように、周囲の穢れを絶えず自動的に吸い込み、浄化し続ける。だが問題は、お主の体がまだこの『欲望の力』に少しも慣れていないことだ。浄化する速度が吸収する速度にまったく追いつかず、浄化しきれなかった穢れがすべて体内に蓄積してしまうのだ」
ディゼルの声が次第に低くなった。
「このままでは一か月もせぬうちに、溢れ出した穢れに逆に呑み込まれ、本能だけで動く化け物になってしまうぞ」
「なっ!? そんなことがあるのか!? どうしてもっと早く言わなかったんだ!」
武は驚きのあまり、ベッドから勢いよく立ち上がった。
そんな話を聞くのは、これが初めてだった。
「以前お主がいた場所は、砂漠のように魔力が乏しく、そのうえ人っ子一人いなかったからな。あの程度の穢れなら、お主が一晩眠るだけで、溜まった分を十分に浄化できたのだ。わざわざ話したところで、吾への警戒心を強めるだけだろう?」
ディゼルは空中で気だるげに円を描いた。
「まさか、こんなに早く人口の密集した大都市へ来るとは、吾も思わなかったぞ」
そこで何かを思い出したのか、ディゼルの口調が変わった。
「それにしても、お主は運のいい小僧だ。重傷を負ったとき、あの緊急救護区域へ転送されたのが幸いした。あそこには実にさまざまな欲望が渦巻いていたからな。おかげで吾にも手の打ちようがあった」
「そうでなければ、あのときのお主の体では、たとえ三神主が勢揃いしたところで、お主の命を救うことなどできなかったぞ!」
「どういう意味だ? まさか、本当にお前が俺を助けたのか?」
武の目つきが鋭くなった。
ディゼルの言葉に隠された意味を、聞き逃さなかったのだ。
「当たり前だ! 最初からそう言っていただろう! まさかお主、あの非力な母親一人の力で、すでに黄泉路へ足を踏み入れた者を引き戻せると本気で思っているのか!」
ディゼルの炎が勢いよく燃え上がり、声も一段と大きくなった。
だが、その言葉を口にした直後――
部屋の空気が凍りついたかのように静まり返った。
武の凍てつくような視線を浴びた紫色の炎は、たちまち小さく縮こまった。
「ま、待て、小僧! 吾が悪かった! お主の母親が一番の功労者だ! 昼夜を問わず献身的に看病し、あの強い意志でお主を支え続けてくれたからこそ、体もあれほど早く回復したのだ!」
「吾は……吾はただ、肝心なところで、ほんの少しばかり手助けをしただけだ!」
ディゼルは縮んだ炎を左右に揺らし、必死に弁解した。
先ほどまでの威勢はどこへやら。
「ふん」
武はようやく冷たい視線を引っ込めた。
「それで、俺の体に溜まった穢れはどうすればいいんだ?」
武は話を本題へ戻した。
「ふっふっふ。この件については吾も長いこと知恵を絞っていてな。ついに、いい方法を編み出したのだ!」
「どんな方法だ? 早く言え」
ディゼルはすぐには答えず、得意げに空中を一回転した。
すると、紫色の炎から眩い金色の光が溢れ出した。
その光は武の目の前で広がり、やがて巨大な円形のルーレットを形作った。
ルーレットは宙に浮かび、その外周には淡い金色の光が漂っていた。
中央には細長い針が一本取り付けられている。
盤面は七つの領域に均等に分けられ、それぞれに異なる文字が刻まれていた。
傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲。
「ジャジャジャジャーン! 見よ、小僧! これぞ吾が新たに生み出した傑作、『欲望のルーレット』だ!」
ディゼルは興奮気味に宣言した。
「なんだよ、これ……」
武は怪訝そうに目の前のルーレットを眺めた。
「これって……七つの大罪か?」
武は盤面に刻まれた文字を見つめた。
そこに書かれた言葉は、以前たまたま読んだ本で目にしたことがあった。
はるか昔に存在した宗教が、人間の悪行を分類したものだという。
もっとも、その宗教自体は千年も前に消滅していた。
「そのとおり! この七つこそ、人間が持つ最も原始的で、最も生じやすい欲望なのだ!」
ディゼルは得意げに炎を揺らした。
「今日からお主には、週に一度、このルーレットを回してもらう。針が指し示した欲望に応じて任務が与えられる。一週間以内にそれを達成するのだ」
「は? 任務?」
「そうだ、小僧。今のお主に最も必要なのは、穢れの浄化効率を高めること。このルーレットに示された任務を達成すれば、浄化の効率も上がるのだ」
「そんなに簡単なのか?」
「ただし、一つ先に断っておくぞ。任務の内容は、お主自身の潜在意識によって自動的に生み出される。吾にすら制御できない。ゆえに、どんな任務が出ようとも、吾を恨むでないぞ」
「ずいぶん早く予防線を張るんだな。まさか、とんでもなく難しい任務が出るんじゃないだろうな?」
武は疑わしげな視線を向けた。
「言っただろう。吾には任務の内容をどうこうすることはできないのだ」
「じゃあ、もし任務をやらなかったら?」
武はルーレットを指さして尋ねた。
「その場合、翌週からお主は無意識のうちに、その欲望に従った行動を取るようになる。蓄積された欲望が解放されるまで、ずっとな」
「つまり、俺が任務を無視したら、次の週には体が勝手にそういう行動を取るってことか?」
「まさしく、そのとおりだ」
「そんなもの、承諾できるわけないだろ!」
「まあまあ、落ち着け、小僧。このルーレットには悪いことばかりではないぞ。七つの欲望には、それぞれ特殊な権能が対応している。引き当てた欲望に応じて、お主もその権能を一つ得られるのだ!」
ディゼルは慌てて武をなだめた。
「いやいや、どう考えても怪しいだろ……」
武は依然として警戒を解かなかった。
そもそも、自分が敵に勝つために、何か特別な力を借りなければならないとは思っていない。
「これが吾の考えついた最善の方法なのだ。お主の浄化効率があまりにも低いゆえ、吾もこうするしかなかった。まさか、本能だけで動く化け物になりたいわけではあるまい?」
ディゼルは困り果てたように炎を揺らした。
「お前って、本当に俺を助けるための神器なのか? むしろ俺を陥れるために存在してるんじゃないだろうな?」
「いやいや、小僧! 吾はお主のためを思って言っているのだ! いずれ欲望の力に慣れれば、このルーレットを使うかどうか、自分の意志で決められるようになるぞ!」
ディゼルの炎は空中をふらふらと漂い、その声は妙に無邪気だった。
「それで、具体的にはどんな任務が出るんだ? 何か例を挙げてくれ」
「例えば強欲を引き当てたなら、一定の金額を稼ぐことが任務になるかもしれない。暴食なら、何度か美味いものを食べる、といったところだな」
「それなら、そんなに難しくなさそうだけど……」
「うむ。このルーレットは、いわばお主に目標を与えるためのものだ。欲望を効率よく解放することで、穢れの浄化効率を高められるというわけだ」
「待てよ。よくわからないんだけど、それって完全に矛盾してないか?」
武は眉をひそめ、必死に頭を働かせた。
「他人が生み出した穢れを浄化するために、まず俺自身の欲望を解放しなきゃいけないってことか?」
「そういうことだ。欲の神器とは、そういうものなのだよ」
ディゼルは、さも当然といった口調で答えた。
だが、ディゼルが口にしなかったことが一つある。
それこそが、歴代の契約者たちが自ら破滅を招いてきた真相だった。
欲望に従って行動することは、確かに浄化効率を高める。
しかし同時に、それは契約者が自らの欲望に溺れるためのもっともらしい口実にもなっていた。
一度や二度の気まぐれな放縦なら、さほど害はないかもしれない。
だが、それが数千回、数万回と繰り返されたらどうなるだろうか。
人間の倫理観や善悪の基準は、手にした力と快楽によって少しずつ変わっていく。
ましてや、神器が与える強大な権能まで備わっているのだ。
契約者は欲望を満たすたびに、その欲望と同化していく。
やがて幻想と現実の境界すら見失い、欲望そのものが形を成した化け物へと堕ちていく。
そして最後には、他者によって討伐される運命を迎えるのだった。
「ともかく、もう一度言っておくぞ。任務の内容は、すべてお主自身の潜在意識が生み出すものだ」
「もちろん、任務以外でも自らの欲望を満たす行動を取れば、浄化効率を高めることはできる。ただし、ルーレットが指定した任務を達成するほうが、効率はずっとよい」
「このルーレットの任務は、いわばお主を守るための最低限の保険だ。毎週きちんと達成していれば、穢れの蓄積による反動は防げる」
武は目の前に浮かぶ巨大なルーレットを見つめ、複雑な表情を浮かべた。
こんな得体の知れない仕組みを、素直に受け入れる気にはなれない。
だが、体内に蓄積し続ける穢れと、先ほどディゼルが語った反動のことを思うと、どうしても決断を下せなかった。
武が最も恐れていたのは、自分がどんな化け物になるかということではない。
そのせいで、母さんまで巻き込んでしまうのではないかということだった。
もし自分が理性を失い、母さんを傷つけてしまったら。
それこそ、何のためにここまで頑張ってきたのかわからなくなる。
「さあ、小僧。そろそろ回すがよい。使わぬというのなら、吾が片づけてしまうぞ」
武はすぐには答えなかった。
ディゼルの言うことは、いつもどこか胡散臭い。
それでも、今のところ本当に自分を害したことはなかった。
それに、あいつの説明が正しいのなら、このまま何もしなければ、いずれ自分は制御を失うことになる。
だったら、その日をただ待つより、まだ自分を制御できるうちに解決策を探したほうがいい。
散々迷った末、武はついに手を伸ばし、欲望のルーレットを回した。
巨大な円盤が勢いよく回転し始める。
七つの領域に刻まれた文字が目まぐるしく流れ、やがて一つの光の輪のようにぼやけていった。
回転は次第に緩やかになり、やがて完全に止まった。
針が指し示していたのは――
『傲慢』
その直後、ルーレットから金色の光が放たれた。
金色の光は武の目の前で徐々に収束し、やがて宙に浮かぶ巻物へと姿を変えた。
巻物がゆっくりと開かれ、そこに数行の文字が浮かび上がった。
**『傲慢』**
**権能:探知の眼**
より深く隠された情報を察知できる。
**今週の任務:C級魔物を3体討伐する(0/3)**
(探知の眼? それだけか?)
もっとも、武はそれほど気に留めず、すぐに視線を下の任務へ移した。
内容を確認すると、ようやく安堵の息を吐いた。
少なくとも、妙な任務ではない。
C級魔物を三体倒す程度なら、武にとってはさほど難しいことではなかった。
「ふむ。今のお主には、ちょうどよい任務かもしれんな。しかし、この大都市でC級魔物など、どこにいるのだ?」
ディゼルは巻物に近づき、文字をじっくりと眺めた。
武も考えてみると、確かにそれは問題だった。
C級魔物を倒せることと、C級魔物を見つけられることは、まったく別の話だ。
C級魔物は、大都市の周辺で簡単に見つかるような存在ではない。
少なくとも、人里離れた野外まで足を運ばなければ、遭遇する機会は少ないだろう。
(面倒だな……わざわざ遠出する時間を作らないといけないのか……)
「とにかく、解決方法は教えたぞ。あとはどうやって任務を達成するか、お主次第だ」
武がC級魔物の居場所について頭を悩ませていると、コンコンと扉を叩く音が響き、部屋に漂っていた重苦しい空気を破った。
「武くん、いる? まだ明かりがついていたから、温かい牛乳を持ってきたわ」
扉の向こうから聞こえてきた由美子の優しい声は、まるで冬の日差しのように、武の心を温めた。
その声が聞こえるや否や、紫色の炎は跡形もなく消え去った。
いや、正確には、武の強烈な「拒絶」の意志によって、ディゼルの顕現が強制的に解除されたのだ。
ディゼルには、文句を言う暇すらなかった。
「今行く!」
武は深く息を吸い、顔に浮かんでいた険しい表情を急いで消した。
そして立ち上がり、扉へと向かう。
母さんに異変を悟られるわけにはいかない。
扉を開けると、由美子がトレーを手に立っていた。
淡い黄色の照明に照らされたその笑顔は、相変わらず温かかった。
トレーには湯気の立つ牛乳が入ったカップが載っており、ほのかなミルクの香りが漂っていた。
「まだお部屋を片づけていたの?」
由美子は優しく尋ねながら、武の顔色をうかがった。
「なんだか顔色が悪いわね。今日はいろいろ歩き回ったから、疲れちゃったのかしら?」
その瞳には、隠しきれない心配の色が浮かんでいた。
「大丈夫だよ。ちょっとこれからのことを考えてただけだから」
武は温かい牛乳を受け取った。
カップ越しに伝わる温もりが、張り詰めていた神経を少しだけ和らげてくれた。
「一人であまり無理しないでね。何があっても、お母さんはずっと武くんのそばにいるから」
由美子は手を伸ばし、武の少し乱れた髪を優しく整えた。
その眼差しには、深い愛情が宿っていた。
武は母の瞳をじっと見つめた。
そこには、人間社会に渦巻く駆け引きも、ディゼルの語った穢れや欲望もない。
ただ、自分に向けられた純粋な愛情だけがあった。
武は牛乳を一口飲んだ。
ほのかな甘みが喉を通り、胃の奥へと流れ込んでいく。
温かさが、体の内側からじんわりと広がった。
母の気遣いもまた、清らかな泉のように、胸の中に渦巻いていた雑念をひととき洗い流してくれた。
武は手にしたカップをぎゅっと握りしめた。
そして、心の中で改めて決意を固めた。
(これが、俺の守りたいもの……俺自身の『欲望』なんだ)




