第二十六章 仁棲宿舍
ヤフィエル先生は緊急の仕事を片づけなければならなくなったため、武と由美子は、渡された地図を頼りに自分たちだけで新しい宿舎へ向かうことになった。
二人は道なりにしばらく歩き、ようやくバス停にたどり着いた。
古びた簡素な木製の雨よけ小屋と、その傍らに立つ真新しい金属製のバス停の標柱が、対照をなしていた。
どうやら最近急増した利用者に対応するため、標柱だけが後から設置されたらしい。
標柱の周りには、今も市街地へ向かうバスを待つ人々が大勢集まっていた。
服装こそ多少くたびれていたものの、彼らの表情には新しい生活への期待と興奮が満ちていた。
武が周囲を見渡すと、彼らは皆、学生証らしきものを身につけていた。
どうやら募集試験に合格した新入生たちらしい。
バスを待つ間、由美子は指にはめた収納指輪をそっとなぞった。
かすかな空間の揺らぎとともに、きれいに包装されたクッキーの袋が、その手の中に現れた。
「こんなに長いこと動き回って、お腹が空いたでしょう? 先に少し食べておきましょうね」
由美子は優しく微笑み、武にクッキーを差し出した。
「確かに、ちょっと腹が減ったな」
武は腹をさすり、そこでようやく、自分がすっかり空腹になっていたことに気づいた。
クッキーを受け取ると、少し疲れた様子の母を見て、武も声をかけた。
「母さんも一日中忙しかったんだから、ちゃんと食べてくれよな」
由美子は嬉しそうに微笑んでうなずき、袋から一枚取り出すと、ゆっくりと口に運んだ。
ささやかな食事の時間が、二人に久しぶりの安らぎをもたらした。
やがて、遠くの暗闇を二筋の強い光が照らした。
待ちわびていたバスが、ようやくやって来たのだ。
扉が開くと、厳しい表情をした係員が真っ先に降りてきた。
読み取り装置を手に、乗客一人ひとりの仮学生証と関連書類を厳しく確認していく。
その事務的で張り詰めた雰囲気に、それまで少し騒がしかった列も静まり返った。
証明書の確認を終えた武と由美子は、無事にバスへ乗り込み、車内後方の窓際に席を取った。
バスは夜道を滑らかに走り続けた。
途中、バスが厳めしい関所に差しかかると、車内が再び静まり返った。
バスが停車すると、制服姿の警備員が数人乗り込み、乗客たちに鋭い視線を向けながら車内を見回った。
その物々しい空気に、武はこの街が見た目ほど平穏ではないことを感じ取った。
やがて巨大な城門をくぐると、窓の外に広がっていた荒涼とした田畑は、整然と並ぶ住宅へと少しずつ姿を変えていった。
さらにしばらく走ったところで、バスは住宅街の停留所に停車した。
二人はそこで降り、ヤフィエルから送られた地図に従って五分ほど歩いた。
そして、ようやく目的地である仁棲宿舎に到着した。
目の前に建っていたのは、典型的な和風の二階建てアパートだった。
壁は清潔感のある乳白色に塗られ、四角い建物には余計な装飾がない。
規則正しく並んだ窓と、低い作動音を響かせる数台の白い機械装置があるだけだった。
「やっと着いたか……」
白いアパートを見上げながら、武は思わず大きく息を吐いた。
「そうね。まさか一日のうちに、こんなにいろいろなことが起こるなんて……でも、最後はいい結果になって本当によかったわ」
由美子も今日一日の出来事を振り返り、しみじみとつぶやいた。
二人が入口へ向かおうとした、そのときだった。
建物の陰から、深緑色の着物をまとった白髪の老婆が、ゆっくりと姿を現した。
背中はわずかに曲がっていた。
「今日から入居する伊勢さん親子だね。ずいぶん待ったよ。さあ、早く入りな」
老婆は足を止め、鋭い眼差しで二人をじっくりと見定めた。
「初めまして。こちらが私たちの書類です。先にご確認いただけますか?」
由美子は礼儀正しくスマートフォンを取り出し、電子書類を表示しようとした。
「必要ないよ。本物か偽物かくらい、この年寄りの目でも見分けがつくさ……」
老婆は画面に目を向けようともせず、くるりと背を向けて建物の中へ歩いていった。
少し戸惑ったものの、武と由美子は顔を見合わせ、その後についていった。
三人は階段を上がり、二階へ向かった。
廊下の突き当たりにある扉の前で、老婆は足を止めた。
懐から書類の束と数枚の黒いカードを取り出し、由美子へ差し出す。
「ほら、これがカードキーと生活規約だよ。なくさないようにね」
由美子は慌てて受け取り、そのうちの一枚を武に手渡した。
黒いカードの表面には、簡素な長生門の紋章が刻まれていた。
武はそれを一目見ると、収納指輪の中へしまった。
「生活規約には、ちゃんと目を通しておくんだよ。決まりは絶対に破らないこと。あたしの連絡先も書いてあるからね」
老婆は由美子が持つ書類の一か所を指さした。
「それと、ここにはあんたたちを含めて六世帯が暮らしている。他の住人に迷惑をかけないようにしな」
「夜十時を過ぎると、敷地の入口にある門が自動で閉まるんだ。帰りが遅くなって締め出されたら、あたしに電話するんだよ」
そこで老婆の声が、低く厳しいものへと変わった。
「よく覚えておきな。ここは長生門が内部の幹部向けに用意した宿舎だ。住んでいるのは、ほとんどが長生門傘下の企業で働いている人間さ」
「だから、もし何か揉め事が起きたとしても、すべては長生門の利益が優先される。わかったね?」
「わかりました」
武は落ち着いた声で答えた。
だが、その胸中には新たな考えが浮かんでいた。
(あとで長生門っていう組織について、一度調べておいたほうがよさそうだな。なんだか、行く先々でこの名前を耳にする気がする)
「承知しました。どうぞご安心ください。私たちは静かに暮らしますし、ほかの方々にご迷惑をおかけするようなことは決していたしません」
由美子も真摯な口調で答えた。
老婆はしばらく由美子を鋭い目つきで見つめていた。
やがて、小さくうなずいた。
「部屋はもう人に頼んで掃除してもらったから、そのまま入って構わないよ」
「家具や設備に壊れているところがあったら、明日の午前中に申し出るんだね。もう遅いんだから、早く休みな」
そう告げると、老婆は視線を外し、小刻みな足取りで廊下の暗がりへと消えていった。
「お気をつけて」
由美子は軽く頭を下げて見送った。
「ばいばーい」
武も片手を振った。
小柄な背中が見えなくなるまで見送ってから、由美子はカードキーを取り出し、扉の横にある読み取り部分へそっとかざした。
ピッ、と澄んだ電子音が鳴った。
扉がゆっくりと内側へ開き、室内のセンサーライトが自動で点灯する。
「まあ……思っていたより、ずっと広いのね」
由美子は小さく感嘆の声を上げ、先に玄関へ入って室内用のスリッパに履き替えた。
最初に目に飛び込んできたのは、広々としたリビングだった。
木製の床は柔らかな照明を受けて温かみのある艶を放ち、空気にはほのかな洗剤の香りが残っている。
「武くん! 見て! キッチンの設備もちゃんと揃っているわ!」
由美子は開放的なキッチンへ向かい、嬉しさを隠しきれない声を上げた。
武も室内をひととおり見て回った。
正直なところ、このアパートの快適さは予想をはるかに上回っていた。
(アイリーン学院長、思っていた以上にいい住まいを用意してくれたんだな。あとでちゃんとお礼を言わないと)
「武くん、もう疲れたでしょう? 先に温かいお風呂に入ってきなさい。お母さんはキッチンとほかのお部屋の様子を確認しておくから」
由美子は袖をまくりながら言った。
「ああ、わかった」
武にはわかっていた。
母は今、完全に「主婦モード」に切り替わっている。
新しい生活空間を隅々まで把握しようとするあの熱意は、自分などが口を挟める領域ではない。
(こういうときの母さんには、俺の出る幕なんてないな……)
手伝う余地もなさそうなので、武は余計なことを考えるのをやめ、浴室へ向かった。
ほどなくして、浴室には温かな湯気が満ちていった。
武は浴室用の小さな椅子に腰を下ろし、心地よさそうに目を細めた。
肌を伝う温かな湯が、一日中積み重なっていた緊張を洗い流していく。
(それにしても……今日は本当にいろいろあったな)
武は今日起きた出来事を、一つずつ思い返していた。
どういうわけか、すべてが妙に順調に進んでいる気がする。
目を覚まして間もなく、ちょうど募集試験に参加することができた。
そのうえ、運よく学院長から破格生に選ばれ、その身分のおかげで住む場所まで手に入った。
(……これって、ちょっと運がよすぎないか?)
とはいえ、幸運の女神に微笑まれるのは悪い気分じゃない。
少なくとも、野宿して苦労せずに済むのだから。
武は肩の力を抜き、温かな湯を浴びながら目を閉じた。
心まで穏やかになっていくようだった。
そんなとき、背後から引き戸が静かに開く音が聞こえた。
バスタオルを体に巻いた由美子が、柔らかなタオルを手に浴室へ入ってきた。
「武くん、お母さんが背中を流してあげるわね!」
あまりの心地よさに少しぼんやりしていた武は、断ることもなく、小さく返事をした。
「ん……」
由美子は武の背後に腰を下ろし、タオルを濡らすと、丁寧に背中を洗い始めた。
その手つきには、母親らしい優しさと温もりが感じられた。
「武くん……」
湯気の向こうから聞こえる由美子の声は、いつにも増して柔らかかった。
「ん?」
「今日は本当にありがとうね。武くんがずっとお母さんを守ってくれなかったら、どうしたらいいかわからなかったわ……」
由美子の手が、少しだけゆっくりになった。
その声には、息子を思いやる気持ちと、深い感謝がにじんでいた。
「私たちのために、こんなに頑張ってくれて……本当にありがとう」
母の心からの言葉を聞き、武は少しだけ顔を横へ向けた。
「俺がやるべきことをやっただけだよ。母さんが無事でいてくれるなら、これくらい何でもないさ」
狭い浴室には、温かな湯の流れる音が静かに響き続けていた。
長く慌ただしい一日を終え、二人はようやく、まだ慣れない新しい住まいで、つかの間の安らぎを味わうことができた。




