第十七章 幻境試験
武は不安を胸に抱えながら、水晶玉の前に立った。
内心では多少の抵抗を感じていたものの、いずれは向き合わなければならないことだと分かっていた。
「番号五十四番、始めてください」
クローンの指示を受け、武は大きく息を吸い込み、ゆっくりと右手を水晶玉の上に置いた。
しかし、数分が経過しても、ステージ上の水晶玉は沈黙したまま、何の反応も示さなかった。まるでただのガラス玉のようだった。
武がいつまで経っても結果を出せないのを見かねたのか、列の後方から苛立った声が飛んできた。
「魔力がないならさっさとどけよ! 場所を取るな!」
武はステージ下からの催促を無視した。
水晶玉が自分の魔力を吸い取っていることは、はっきりと感じ取れていたからだ。
だが、どれほど力を込めても、魔力は人差し指の先からかろうじて滲み出るだけで、水晶玉に触れているほかの部分からはまったく流れ出てこなかった。
武は息を殺して意識を集中させ、さらに多くの魔力を指先へ送り込もうとした。
すると、それまで何の反応も示さなかった水晶玉が、かすかな鈍い光を放ち始めた!
それを見たクローンは目を細め、会場に向かって声を張り上げた。
「試験会場では静粛に! これ以上秩序を乱す者がいれば、例外なく受験資格を取り消します!」
クローンの一喝で会場は静まり返り、それ以上、武を急かす声は上がらなくなった。
それからさらにしばらくして、水晶玉はようやく通常の光を放ち始めた。決して明るくはないものの、その光は安定して輝き続けていた。
「番号五十四番、合格です。まだ測定を続けますか?」
傍らからクローンの声が聞こえた。
「えっ? これでいいんですか?」
武は信じられない思いで顔を上げ、聞き間違いではないかと確かめた。
「あなたは閉塞体質です。魔力が外界との間で円滑に流通しないため、測定器が判定を終えるまでに通常より長い時間がかかるのです」
「ですが、この試験には制限時間がありません。判定するのは最終的な魔力総量だけです。ですから、おめでとうございます。合格です」
クローンは頷き、改めて合格を告げた。
試験官からはっきりと合格を告げられ、武は大きく息を吐いた。
胸につかえていた重い石が、ようやく取り除かれたような気がした。
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「この小僧が、ミノタウロスを倒したかもしれんという奴か?」
二階の観察席で、アタルは手元の機密資料に目を落としながら言った。
アタルは席を立つと、観察席の端まで歩き、眼下に広がる募集会場を見下ろした。
「見たところ、ごく普通の小僧じゃないか」
「相手はレベル72のミノタウロスですよ。この情報が事実なら、彼は将来、私たちの学園にとって大きな戦力になるでしょうね」
アイリーンが傍らに歩み寄り、アタルの視線を追って会場にいる武を見つめた。
「ふん! あり得ん! ミノタウロスなら、お前もわしも見たことがあるだろう。あれは数人がかりでどうにかできるような相手ではないぞ!」
アタルは勢いよく振り返った。その手に握られた資料が、わずかにしわくちゃになる。
「おまけに、この調査報告書ときたら曖昧なことばかり書いておる。『ミノタウロスの遺骸と思われるもの』とは何だ? 送られてきた写真はどれも真っ黒で、これでは判別のしようがないではないか!」
アタルは不満を隠そうともせず、言葉を続けた。
「唯一まともな手がかりは、持ち帰られた武器の破片くらいだ。分析の結果、確かに異界から来た物品だと判明したらしいが、それだけでは何の証拠にもならん」
「それは仕方のないことですよ……。あのときは救助が最優先でしたから、その場ですぐに再調査するわけにもいかなかったのでしょう」
アイリーンは穏やかな口調で救助隊員たちをかばった。
「はあ……。残念なことに、その後、学園が改めて現地へ調査員を派遣したときには、すべての痕跡が消えておった」
アタルは肩を落とし、沈んだ表情を浮かべた。
「それこそ、学園が長年頭を悩ませている問題ですね。異界の凶魔は死ぬと急速に分解され、痕跡を一切残しません。そのせいで、私たちは詳しい研究を進めることすらできないのです」
アイリーンも残念そうに肩を落とした。
「わしに言わせれば、こんな青二才に注目するより、奴の母親を調べたほうがよほど有意義だ。ミノタウロスを倒したのが母親だったというほうが、まだ可能性が高いわい」
アタルは鼻を鳴らした。
「彼のお母様の経歴は潔白ですよ。C級抗魔士で、元素学院の出身。二十二年前に引退しています」
アイリーンは考える間もなく答えた。
「ん? なぜお前がそんなことを知っておる? 報告書には書かれておらんぞ」
アタルは不思議そうにアイリーンを見た。
「それは重要なことではありませんわ。それより、こちらの伊勢さんは閉塞体質でもあるんですよ。お気づきになりました?」
アイリーンの笑顔が一瞬だけこわばった。だが、すぐに話題を変えた。
アタルは資料の後ろのほうをめくった。
そこには、一人の青年の個人情報が記されていた。
氏名:武・伊勢
性別:男
年齢:22歳
魔術適性:水
魔力量:S級
特殊体質:閉塞体質
経歴:11歳のとき、閉塞体質のため、ラルライア地方のナヴィト普通小学校への進学を選択。16歳のとき、ドナトス地方周辺の村へ転居。
閉塞体質の者は、空気中の魔力を広範囲にわたって交換することができない。
そのため、広範囲に作用する魔術や中級以上の魔術を一切使用できず、魔術師としての成長の可能性は著しく制限される。
この世界では、閉塞体質の持ち主は、事実上、魔力を持たない普通の人間と同じだと考えられていた。
それは誰もが知る常識だった。
「閉塞体質か……。そういえば最近、軍の連中がこの体質の持ち主に興味を示しておると聞いたな。何を企んでいるのやら」
アタルは髭を撫でながら、考え込むように呟いた。
「軍が? それは初めて聞きました」
アイリーンは小首をかしげ、不思議そうな表情を浮かべた。
「ふん、軍の連中は昔から秘密主義だからな。裏で何をやっているのか、知れたものではないわい」
アタルは鼻を鳴らし、再び下の募集会場へと視線を戻した。
「だが、軍のことよりも、わしは今回の学園の方針のほうが気になる」
「方針、ですか?」
「お前も妙だとは思わんか?」
アタルは眼下の受験者たちを指さした。
「今回、学園はわざわざ一級募集会場を増設したうえに、わしらには『特別そうな』受験者をよく観察するようにと指示してきた」
「うーん……」
アイリーンはアタルの指先を目で追い、考え込むように頷いた。
「お前はどう見る?」
「目で見ますけど?」
アイリーンは目を大きく見開き、真剣そのものの顔でアタルを見つめた。
アタルの口元がぴくりと引きつり、額にはうっすらと青筋が浮かんだ。
「これまでの入学試験は、どれも厳格な選抜を行ってきただろう! それが今回はどうだ。学園は募集人数の制限を緩めただけでなく、家柄を頼りにしているような道楽息子どもにまで受験を認めておる!」
「しかも上からは、試験の成績だけで判断するな、何か特別なところのある受験者なら無条件で合格させてもよいと、わざわざ指示が出ておる。おかしいとは思わんか?」
アタルは指先で手すりをこつこつと叩いた。
「確かに、少し不思議ですね」
アイリーンは腕を組み、軽く頷いた。
「でも、学園の上層部が直々に出した指示なのですから、きっと何か特別な理由があるのでしょう」
「聞いた話ではな……上の連中は、誰かを捜しているらしい」
アタルは髭を撫でると、声をひそめた。
「誰かを? いったい誰をですか?」
アイリーンは興味深そうにアタルを見た。
「わしが知るか! 知っておったら、こんなところであれこれ推測しておらんわ!」
アタルは苛立たしげに言い返した。
「でも、学園がそこまで大がかりに捜しているのですから、きっと普通の人物ではないのでしょうね」
アイリーンは人差し指をそっと頬に当て、しばらく考え込んだ。
「もしかして、さっきの黒いマントをかぶった謎の人物だったりして!」
ふと思いついたように声を上げた。
「謎めいていて、個性的で、実力も底が知れないようでしたし!」
「ふん! 素顔すら見せようとせん奴の、どこに注目する価値があるというのだ」
アタルは興味なさそうに鼻を鳴らした。
そこでふと、何かに気づいたように顔を上げた。
「そういえば、南宮はどこへ行った?」
アタルは周囲を見回し、観察席に残っているのが三人だけだと気づいた。
「南宮なら、グラシア院長と一緒に、さっきのすごい魔力を見せた謎の人物に会いに行きましたよ」
「ん? あいつが自分から人に会いに行くとはな。見知らぬ相手に自分から話しかけるような奴ではなかろうに」
アタルは少し驚いた様子で言った。
「その謎の人物は自分と同類だから、ちょっと試してみたいそうです」
アイリーンは人差し指を軽く頬に当てた。
「まあ、試してみるのもよかろう。いいところを全部あの狂った女に持っていかれてはかなわんからな」
アタルは忌々しそうに吐き捨てた。
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どれほど時間が経っただろうか。
会場のあちこちに設置された拡声器から、聞き覚えのある声が響いた。
「受験者の皆さん、ご注目ください!」
「第一段階の魔力測定は、すべて終了しました。これより第二段階の実戦試験を開始します!」
ステージの下で休んでいた受験者たちは一斉に顔を上げ、再びステージへと視線を集めた。
クローンは片手を上げ、ステージの右側を見るよう促した。
そこには、濃紺のベストを着た数人の女性係員がいた。それぞれ小さな箱をいくつも抱え、受験者たちに順番に配っている。
「皆さんのお手元に配られたものは、次元学院が開発した最新型の幻境シミュレーション装置です」
クローンの声が再び響いた。
「この装置は魔力を介して使用者の意識と接続し、あらかじめ構築された模擬幻境へと意識を送り込むことができます」
武は渡された箱を受け取ると、興味津々で蓋を開けた。
中には、純白の四角い装置が静かに収められていた。
表面は滑らかで平らに仕上げられ、周囲には淡い青色の光を放つ紋様が幾筋も刻まれている。中央には、くぼんだ円環が一つ設けられていた。
武は装置を手に取り、何度も裏返しながらじっくりと眺めた。
「今回の試験内容は、この模擬幻境を攻略することです! 順位は攻略に要した時間によって決定します。所要時間が短いほど、順位は高くなります!」
クローンは声を張り上げた。
「なお、幻境に入るのは皆さんの意識だけです。そのため、魔兵器や魔術カードなど、外部の装備や道具による『強化効果』は、幻境内ではすべて無効となります」
「つまり、今回の実戦試験では、自分自身の力だけを頼りに戦わなければならないということです」
クローンは眼鏡を押し上げ、説明を続けた。
「これから皆さんが直面する敵や環境は、すべて仮想のものです。しかし、決して油断しないでください。幻境の中で感じるものは、現実とほとんど変わりません」
クローンは会場を見渡し、次第に声を厳しくした。
「ただし、ご安心ください。たとえ幻境内で死亡しても、現実の肉体に致命的な傷を負うことはありません。その際は装置が自動的に接続を切断し、皆さんの意識を現実へと戻します」
「準備ができた方から、手元の装置に魔力を注ぎ、模擬幻境を起動してください」
クローンはそう言って、会場全体を見渡した。
「それでは、第二段階の実戦試験を開始します!」
その指示を聞いた受験者たちは、次々と手元の白い装置に目を落とし、使い方を確かめ始めた。
やがて、一人、また一人と目を閉じ、その場で元の姿勢を保ったまま動かなくなっていった。
「武くん……」
由美子が武の服の裾をそっと引っ張った。
「中に入ったら気をつけてね。本当に怪我をするわけじゃないけど、幻境の中で感じる痛みは、現実とほとんど変わらないって聞いたから」
由美子は少し顔を上げ、武を見つめた。
「大丈夫だよ、母さん! 今回は俺の一番得意な分野だから、問題ないって!」
武は胸を軽く叩き、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「ふふっ。それじゃあ、母さんはここでいい知らせを待ってるわね」
由美子は微笑みながら、武の襟元をそっと整えた。
武は頷くと、再び手元の白い装置へと意識を向けた。
指先に魔力を集中させ、ゆっくりと白い装置へ注ぎ込んでいく。
しばらくすると、装置の中央にある円環が、かすかな光を放ちながら点滅し始めた。
「反応した!」
武が喜ぶ間もなく、激しいめまいが襲いかかった。
目の前の景色がぐにゃりと歪み、周囲の音も次第に遠ざかっていく。
武は反射的に手を伸ばし、何かをつかもうとした。
しかし、そのときにはもう、目の前のすべてが闇に飲み込まれていた。
「武くん、頑張ってね!」
由美子の声が、まるで遥か遠くから聞こえてくるようだった。




