第十三章 職業選択
鉄条網のそばの物陰に、黒のスカートスーツを着た金髪の女性が立っていた。その指には、火のついた煙草が挟まれている。
まぶたは鉛のように重く、手足の感覚もほとんど失われていた。辺りには腐敗した肉と薬品が入り混じった悪臭が漂っていたが、今の彼女にはそれすら気にならなかった。
長時間にわたる鎮静魔術の酷使によって、彼女の心身はすでに限界を迎えていた。今にも崩れ落ちそうな状態で仕事を続けるため、煙草に含まれる麻痺作用のある成分に頼らざるを得なかったのだ。
そのとき、遠くから二つの人影が近づいてきた。
一人はがっしりとした体格の黒髪の青年。もう一人は、浮世離れした気品をまとった、息を呑むほど美しい若い女性だった。
被災者の中には家族連れも珍しくなかったが、目の前の母子は彼女の記憶にひときわ強く残っていた。
容姿も雰囲気も、そして精神状態さえも、ほかの被災者とはまるで違っていた。二人の顔には、災難に遭った者特有の恐怖や動揺が少しも見られなかったのだ。
とりわけ印象的だったのは、母親のほうだった。
息子が意識を失っている間も、彼女は折を見て医療従事者と被災者の間に生じた揉め事を仲裁していた。彼女の存在そのものが、まるで天然の潤滑油のようだった。
おかげで、金髪の女性が鎮静魔術を使わなければならない場面も減り、負担がいくらか軽くなっていた。
だが、それ以上に彼女の印象に残っていたのは、黒髪の青年が負っていた傷だった。
青年が緊急救護エリアへ運び込まれたとき、その命はすでに風前の灯火だった。
診察を担当した医師は傷の状態を確認すると、即座に危篤を告げた。高度な治癒魔術を扱える抗魔士を呼ばない限り、助かる見込みはないと断言したのだ。
しかし、そのとき学園に所属する高度な治癒魔術の使い手は、全員が前線の支援に派遣されていた。
たった一人の被災者のために、前線から呼び戻すことなど到底できなかった。
青年にとって、それは死刑宣告にも等しかった。
ところが、母親は何も言わず、ただ静かに、ほかの患者から隔てられたテントの個室を一つ用意してほしいと頼んだ。
誰もが、息子との別れを迎えるための時間が欲しいのだろうと思っていた。
しかし、その後に起きたことは、誰の予想をも裏切るものだった。
母親がどのような方法を使ったのかは分からない。だが、青年の容体は奇跡的に回復し始め、ついには本当に意識を取り戻したのだ。
そして、ちょうどその頃だった。
アストラ総学園から送られてきた優先募集対象者の名簿が、彼女の手元に届けられた。
そこに「武・伊勢」という名前を見つけた瞬間、彼女は思わず息を呑んだ。
さらに、その名前の後ろに添えられていた備考を読んで、目を疑った。
『A級凶魔ミノタウロスを討伐した可能性あり。最優先で抗魔学園への入学を誘導すること』
備考を見た彼女の頭に、真っ先に浮かんだ言葉は一つだった。
あり得ない。
確かに「可能性あり」とは書かれている。だが、A級凶魔は、そう簡単に手を出せる相手ではない。
A級凶魔を確実に討伐するには、少なくともS級抗魔士一人に加え、複数のA級抗魔士が必要となる。
そんな強大な存在を、名も知られていない青年が倒したというのか?
そんなことがあり得るはずがない。
もっとも、その話が本当かどうかは彼女の知ったことではなかった。
自分は、上から命じられた仕事をこなせばいいだけだ。
そう考えた彼女は、すぐに武・伊勢を担当していた看護職員と話をつけ、患者の担当を引き継いだ。
この緊急救護エリアでは、いかなる形の宣伝活動も厳しく禁止されている。
だからこそ、誰にも気づかれないよう、一つ一つの行動に細心の注意を払わなければならなかった。
今回、アストラ総学園が救護支援に人員を派遣したのは、表向きには学園の善意を示すためだった。
だが、その裏には、軍が正式な募集を始めるより先に、少しでも多くの有望な新人と接触するという重要な目的があった。
「先生、すみません。お待たせしました」
柔らかな女性の声が、彼女を過去の思考から現実へと引き戻した。
* * *
物陰に隠れて煙草を吸っている先生を見て、武は思わず首を傾げた。
ここの決まりはよく知らないけど、緊急救護エリアで煙草を吸ってもいいのか?
しかも、わざわざこんな人目につかない場所を待ち合わせに指定するなんて。
なんだか、人には言えない怪しいことでもしているみたいだな。
「それで、お二人の選択は?」
先生は煙草を地面に落とすと、靴のつま先で火を踏み消した。
「二人で話し合った結果、抗魔学園に入ることに決めました。ですので、これからどうすればいいのか、教えていただけますか?」
由美子が微笑みながら答えた。
「賢明な選択です」
先生は表面上こそ平静を装っていたが、内心では大きく安堵の息をついていた。
「これを受け取ってください」
先生はスーツの上着のポケットから白い券を一枚取り出し、差し出した。
「これは?」
由美子は券を受け取り、不思議そうに尋ねた。
券の中央には、大きく『募集試験』と書かれていた。
その下には『会場:一級募集会場』と記され、右上の緑色の部分には『優先』の二文字が添えられている。
「募集試験の入場券です。ここを出てまっすぐ進み、右に曲がると、大きな募集会場があります。中に入って係員にその券を渡せば、試験を受けられますよ」
「その募集試験について、何か特に気をつけることはありますか?」
「今回の募集試験は簡単なものです。魔力の総量と出力能力を測るだけですから」
「そうなんですね。ありがとうございます、先生」
「お礼は結構です。試験に合格したら、また私のところへ来てください。すぐに今後の宿舎を手配できます。そうすれば、少なくともこの収容特区で人に揉まれながら暮らさずに済みますよ」
金髪の先生は軽く手を振った。
「そうなるといいですね。無事に合格できたら、またよろしくお願いします」
由美子は微笑んで答えた。
「ええ。それでは、試験がうまくいくことを祈っています。私はほかにも診なければならない患者がいますので、これで失礼します」
そう言い残すと、先生は手を振り、振り返ることもなく立ち去っていった。
「はい。先生もお気をつけて」
由美子はその背中に向かって、軽く頭を下げた。
金髪の先生と別れたあと、武と由美子は教えられた道順に従い、募集会場へ向かった。
そこで武は、緊急救護エリアの大部分を占めているのが、大型の緑色のテントであることに気づいた。
むしろ、先ほどまで自分が寝かされていたような小さなテントのほうが珍しかったのだ。
テントによっては、診察を待つ負傷者が外に長い列を作っていた。
また別のテントでは、医療従事者たちが担架を押しながら、絶え間なく出入りしている。
ときおり、負傷者のうめき声や、家族の切羽詰まった叫び声も聞こえてきた。
そんな中、武がさらに驚いたのは、道中で次々と由美子に声をかけてくる人々の存在だった。
「伊勢さん!」
「あっ、伊勢さん! 息子さんはもう大丈夫なんですか?」
「この数日間、本当にありがとうございました!」
「伊勢さん! ありがとう!」
医療従事者であれ、一般の患者であれ、由美子の姿を見つけると、ほとんどの人が自分から手を振って挨拶してきた。
母さんは相変わらず人気者だな。
俺も、もっと母さんの周りに気を配らないと。
下心を持った悪い奴らを、絶対に近づけさせるわけにはいかない。
「武くん、身体は本当に大丈夫?」
武がぼんやりしているように見えたのか、由美子が心配そうに声をかけた。
「うん……大丈夫。もう八割か九割くらいは回復した感じかな。普通に動く分には、ほとんど問題ないよ」
武は腕をぐるぐると回しながら答えた。
「それならよかった。魔術の使い方は、まだ覚えている?」
由美子が笑みを含んだ声で尋ねた。
「あはは……」
武は頭をかいた。
これ、なんて説明すればいいんだろう。
できるような、できないような……。
あのときは、身体の中に溜まったものをどうしても我慢できなくなって、水流を勢いよく噴き出したことしか覚えてないんだよな……。
「じゃあ……お母さんと一緒に復習してみる?」
由美子は少し身を乗り出し、微笑みながら尋ねた。
「あ、いや、その……」
以前、魔術を教わったときの光景を思い出し、武は思わず恥ずかしくなった。
母さんはそれ以上何も言わず、ただ静かに武を見つめている。
「……ちょっと、試してみてもいいかも?」
武は視線を泳がせながら、おずおずと尋ねた。
二人は緊急救護エリアを出ると、適当な人目につかない場所を探した。
そこはほとんど人が通らない静かな一角で、誰かに見られる危険をできる限り抑えられそうだった。
以前とは違い、由美子は武に服を脱ぐようには言わなかった。
代わりに、武に手の構えを取らせ、隅に生い茂っている雑草の一群へと狙いを定めさせた。
「今回は時間がないから、お母さんが簡単な魔力の流れを一度だけ教えるね。最後に魔術を放つときの感覚を、しっかり覚えておいてね~」
武は頷くと、目を閉じ、意識を体内の魔力へと集中させた。
準備が整ったのを確認すると、由美子は背後からそっと武の身体に寄り添った。
そして、武の左手に穏やかな魔力を注ぎ込み、ゆっくりとその流れを導いていく。
体内を巡る魔力の流れが次第にはっきりと感じられるようになったとき、武はふと、以前思いついたある考えを思い出した。
武はすぐに魔力を放出するのではなく、まず指先に集めてみることにした。
そこからさらに魔力を圧縮し、放出する出口を意識的に狭めていく。
魔力が蓄積するにつれ、指先には内側から膨らんでいくような圧迫感が生まれた。
数秒後。
高速で飛ぶ水球が指先から勢いよく射出され、壁際の雑草の茂みに正確に命中した。
水しぶきが飛び散り、何本かの雑草が衝撃で折れ曲がった。
「わあ! 武くん! 水球術まで使えるようになったのね!」
由美子は両手で口元を覆い、驚きと喜びの入り混じった声を上げた。
「ふぅ……」
武はゆっくりと息を吐いた。
今回の魔力の流れには、以前のような不快な詰まりが感じられなかった。
むしろ、さらさらと流れる小川のように、体内の魔力回路を滑らかに通り抜け、指先へと集まっていく感覚だった。
魔力の出口は相変わらず狭い。
だが、先に魔力を集中させ、その狭い出口から一気に放出すれば、予想以上の衝撃力を生み出せる。
水球で濡れた雑草の茂みを眺めていると、武の頭にふと疑問が浮かんだ。
「そういえば、俺が使ってるこの魔術って、呪文とか唱えなくていいの? 本には、呪文が必要な魔術もあるって書いてあったけど」
「必要ないわよ。この魔術は自分の体内にある魔力だけを使うものだから、呪文を唱える必要はないの」
由美子は武から身体を離し、一歩後ろへ下がりながら答えた。
「そうなんだ……」
そう呟くと、武は再び目を閉じ、自分の魔力が流れる感覚を確かめた。
次の瞬間、もう一つの水球が勢いよく飛び出した。
「すごいわ、武くん! そう、その調子よ!」
由美子は隣で嬉しそうに手を叩いた。
その後も何度か魔術を繰り返し使ってみるうちに、武はすっかりこの魔術を身につけたと感じていた。
この小さな水球は威力こそ低いものの、消費する魔力も少ない。
これなら、午後いっぱい撃ち続けても問題なさそうだ。
今度は、どう活用するかが重要になってくるな。
しかし、すぐにはこれといった使い道も思いつかなかった。
武はひとまず考えるのをやめ、由美子とともに募集会場へ向かう道を再び歩き始めた。
募集会場を見つけるのは難しくなかった。
道のあちこちには木製の案内標識が立てられており、ほとんどの通行人も同じ方向へ向かっていたからだ。
二人は人の流れに従い、やがて募集会場へとたどり着いた。
その入口には大きな木製の看板が掲げられており、そこには堂々と、次の文字が記されていた。
『アストラ学園入学受付』




