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第十二章 白鳩収容特区

 武がゆっくりと目を開けると、見慣れない深緑色の布地が視界に入った。


 意識がまだ完全に覚醒しないうちに、耐え難い喉の渇きを覚えた。


 武は無意識に口を開き、水をもらおうとした。しかし、まともに声を出すことができず、かろうじてかすれた息のような音を漏らすことしかできなかった。


 その声は弱々しいものだったが、すぐに傍らで物音がし、誰かが勢いよく立ち上がった。


 続いて、切羽詰まった女性の声が武の耳に届いた。


「よかった! やっと目が覚めたのね! 身体のどこか具合が悪いところはない?」


 ベッドの傍らには、目に涙をいっぱいに溜めた由美子が立っていた。


 もともと整っていた顔立ちには、今や疲労の色が浮かんでいる。目の下にできた薄い隈が、長い間まともに休めていなかったことを物語っていた。


 それでも武が目を覚ました瞬間、由美子の顔にはようやく喜びの笑みが広がり、それまでの疲れを覆い隠した。


 母さんがまだそばにいることに、武はひとまず安心した。ただ、口を開いてみせることしかできなかった。


「喉が渇いたの? お水ならここにあるわ。ゆっくりね、少しずつ飲んで」


 由美子はすぐに察し、傍らに置いてあった水差しを手に取ると、そっと武の口元へ運んだ。


 数口の水を飲むと、武は心も身体も潤っていくように感じた。ぼんやりしていた思考も、次第にはっきりしてくる。


 由美子は愛おしそうに武の髪を撫でながら、優しく語りかけた。


「武くん、お母さん、ちょっと外に行って看護の人を呼んでくるね。身体の具合を診てもらいましょう。それまで一人でここにいてね。勝手にどこかへ行っちゃ駄目よ~」


 武は小さく頷き、由美子がテントを出ていくのを見送った。


 由美子がいなくなってから、武はようやく周囲の様子を確かめ始めた。


 四本の真っ直ぐに立てられた木の支柱が狭い空間を支え、その上を深緑色の帆布が覆っている。簡素な造りのテントだった。


 中にはまともな家具もなく、雑多な物が置かれた木箱と、ベッドが一つ、木製の椅子が一脚あるだけだ。


 しかも、そのベッドときたら……長方形の土の塊に薄い敷物を一枚載せただけの、実に粗末なものだった。


 ただし、土の塊の縁の断面は平らに整っており、自然にできたものには見えない。


 武は手を伸ばして土の塊に触れてみた。


 硬い感触が返ってきたが、意外にも表面は滑らかだった。


 それを確かめた武は、おおよその見当をつけた。


 ここは正式な住居ではなく、急ごしらえの仮設住居なのだろう。


 それにしても、どうして俺はこんなところにいるんだ?


 武は記憶を辿り始めた。


 確か、朝に突然大地震が起きて、それから母さんを捜しに行ったんだ。


 最後には牛頭の怪物から母さんを助け出すことができた。


 それから……。


 突然、針で突き刺されたような鋭い痛みが頭の奥を貫いた。


 あまりの痛みに、武は一度考えるのをやめざるを得なかった。


 痛っ……! その後、いったい何があったんだ……。


 記憶が引き裂かれてしまったかのように、どうしても繋ぎ合わせることができない。


 でも、結果だけを見れば、少なくとも母さんも俺も生き延びたんだ。


 不幸中の幸いってやつだろう。


 どうやってここまで来たのかは、あとで母さんに直接聞けばいいか。


 武がそんなことを考えていると、テントの外から複数の足音と話し声が聞こえてきた。


 やがて由美子に案内され、金色の短い髪をした女性がテントの帆布をめくって入ってきた。


 金髪の女性は、華やかな黒のスカートスーツに身を包んでいた。


 背が高く、顔立ちも整っている。黒いストッキングに包まれたすらりと長い脚は、思わずあれこれ想像を掻き立てられるほどだった。


 惜しいことに、目の下の隈は由美子よりもさらに濃い。


 そのうえ、鋭い眼差しからは、他人を寄せつけない殺気立った雰囲気が漂っていた。


 金髪の女性は何も言わずに武のそばまで来ると、手に持っていた何枚もの書類をめくり始めた。


「すみません。現在、人手が足りないため、私が代わりに診察します。こちらは……伊勢さんですね。ふむ……報告書を見る限り、特に問題はなさそうです。身体のどこかに痛みはありますか?」


 金髪の女性は淡々とした口調で尋ねた。


 武は首を横に振って答えた。


「ありません」


「これはいくつですか?」


 金髪の女性は二本の指を立てて尋ねた。


「えっと……二?」


「結構です。では、三足す四はいくつですか?」


「七?」


「ふむ。左手を上げて、それから下ろしてください」


 武は指示されたとおりに動いた。


「お名前は?」


「……武・伊勢です」


「結構です。お二人はこのあと、隣の一般収容エリアで受付を済ませてください」


 金髪の女性は書類に何かを書き込んだ。


「あの、先生……少し早すぎませんか? 武くんはまだ目を覚ましたばかりなんです」


 先生の言葉を聞いた由美子が、慌てて尋ねた。


「率直に申し上げますが、お母様。伊勢さんの生命徴候と認知機能には何の問題もありません。手足も正常に動いています。これ以上、この緊急救護エリアに留まる理由はありません」


「でも……」


「ご心配なのは分かります。ですが、ご覧のとおり、外にはまだ治療を待っている負傷者が大勢いるのです。どうかご理解ください」


「すみません……私の考えが足りませんでした……。それでは、もう一つ質問してもよろしいでしょうか?」


「どうぞ」


「私たちはこれからどうなるのでしょうか? 何か、今後の予定などは決まっているのでしょうか……?」


 由美子は弱々しい声で尋ねた。


 武は目の前の先生の態度に少し不快感を覚えたが、それを顔には出さず、黙って二人の会話に耳を傾けていた。


 その質問を聞いた金髪の女性は、小さくため息をついた。


 そして片手を上げ、きつく寄せられた眉間を揉みほぐす。


 数度呼吸を繰り返してから、ようやくゆっくりと口を開いた。


「その質問については、残念ながら明確なお答えができません」


「私は政府から派遣された医療従事者ではなく、アストラ総学園から救護活動の応援に来た教師ですので。ただ、現在把握している状況については、できる限りお伝えしましょう」


「我が国では三日前、四度目となる『大地震』が発生しました。記録に残る中では最大規模の禍災事件でもあります。お二人も三日前、あの災難を実際に経験されたはずです」


 金髪の教師は書類を脇に挟んだ。


 三日前?


 俺、そんなに長く眠っていたのか?


 武はようやく、母さんがあれほど疲れ切って見えた理由を理解した。


 昼も夜も休まず、自分の看病をしてくれていたのだ。


「この三日間、無数の凶魔が異門を通ってこちらの世界へ侵入し、国内の広い範囲に甚大な被害と破壊をもたらしました」


「幸い、今回の禍災事件の『震源地』は国の辺境に位置しており、人の住む場所もほとんどありません。そのため、主要な都市や学園にまで被害が及ぶことはありませんでした。しかし、それでも数万人もの民間人が凶魔の襲撃を受けています」


「政府は被害の報告を受けると、速やかに救援部隊を派遣しました。そしてアストラ総学園と協力し、各地の被災者をここへ移送したのです」


「さらに、家を失った人々を受け入れるため、緊急に『白鳩収容特区』が設置されました。ここまでで何か質問はありますか?」


「禍災事件って何ですか?」


「禍災事件とは、広範囲に及ぶ地震に伴って空間が引き裂かれる現象のことです。その期間中、特定の範囲内で無数の異門が開閉を繰り返し、それに乗じて無数の凶魔が私たちの世界へ侵入し、破壊の限りを尽くします。空間が再び安定するまで、その状態が続くのです」


 先生は答えた。


「ここはどこですか?」


「ここはアルテス市です。我が国『ロハナ共和国』で二番目に大きな都市であり、名門抗魔学園『アストラ総学園』がある場所でもあります」


「もう質問はありません」


「分かりました」


 先生は頷いた。


「では、説明を続けます。凶魔の影響により、現在も多くの地域が極めて危険な状態にあります。そのため、皆さんを故郷へ帰すことはできません。当面は白鳩収容特区に留まり、政府からの次の指示を待っていただく必要があります」


「あの……政府が次にどのような対応を取るのか、先に教えていただくことはできませんか?」


 由美子は少しためらったものの、勇気を振り絞って尋ねた。


 先生は再び目を閉じ、眉間を揉んでから答えた。


「現在、被災者の数があまりにも多く、白鳩収容特区の各所に設けられた仮設避難所は、どこもすでに満員です。お二人がこのあと割り当てられる場所も、おそらく同じような状況でしょう」


「早急に別の道を見つけなければ、今後の生活はかなり厳しいものになると思います」


「具体的には、どうすればいいのでしょうか?」


 由美子がさらに尋ねた。


「現在、政府はここへ避難してきた若者や働き盛りの人々に対し、三つの選択肢を用意しています」


「一つ目、抗魔学園に入学し、抗魔士になること」


「二つ目、国軍に入隊し、職業軍人になること」


「三つ目、現状を維持し、収容区に留まって今後の受け入れ先が決まるのを待つこと」


 先生は三つの選択肢を、一つずつ落ち着いた口調で説明した。


 テントの中に、短い沈黙が訪れた。


 由美子と武は軽く顔を見合わせた。


「一つ目と二つ目は、何が違うのでしょうか?」


 由美子が尋ねた。


「抗魔士になるには、魔力検査に合格する必要があります。魔力は生まれ持った才能に大きく左右されますが、今回は学園側も検査の合格基準を多少緩和しています。男性でも十分に可能性はありますよ」


「一方、軍人になるには、一連の体力試験に合格しなければなりません。それに加え、志願者の家庭事情や経歴についても調査が行われます」


 説明を終えた先生は、ちらりと武に視線を向けた。


 しかし、武はそれに気づかなかった。


 二つのまったく異なる選択肢について、それぞれの利点と欠点を考え込んでいたからだ。


 話を聞く限り、軍人のほうが俺には向いていそうだな。


 体力にはそれなりに自信があるし。


 ただ……。


「どっちなら家族と一緒に暮らせますか?」


 武は自分にとって最も重要な質問を、単刀直入にぶつけた。


 先生は一瞬きょとんとした。


 どうやら、そんな質問をされるとは思っていなかったらしい。


「アストラ総学園では、今回の禍災事件への対応として、新たに募集する抗魔士に寮の特別待遇を認めています」


「新しく入学した抗魔士は、家族と一緒に学生寮へ無料で入居することができます。ただし、一年後までに目立った成績を残せなかった場合、その特権は取り消されます。その際は、ご家族の住居を自分で手配していただくことになります」


 それなら、まあ悪くないな。


 ただ、魔力検査だけはどうなるか分からないんだよな……。


「なお、軍人になった場合は、最初の四か月間、ほかの隊員たちと一緒に訓練を受け、寝食も共にしていただきます」


「ご家族も軍人家族用の宿舎に割り当てられますので、危険はありません。訓練期間を乗り切り、無事に試験に合格すれば、その後は家族と一緒に暮らすことも選べますが……」


「駄目だ! 四か月なんて長すぎる! 絶対に駄目だ!」


 武は突然、興奮した様子で大声を上げた。


「すみません、先生。この子、普段はとってもいい子なんですけど……」


 由美子は少し気まずそうに苦笑した。


「構いません。何しろ非常時ですから、慎重に考えるに越したことはありません。今のうちにお二人でよく話し合ってください」


「結論が出ましたら、外にいる私のところへ来てください。ちょうど、先にお渡しできる書類もありますので」


 先生はそれ以上何も言わず、そのまま踵を返して立ち去ろうとした。


「はい。その時はまたよろしくお願いします、先生」


 由美子は先生に深々と頭を下げ、テントから出ていくのを見送った。


 帆布が再び垂れ下がると、テントの中には二人だけが残された。


 職業の選択、か……。


 武は由美子へ目を向けた。


 何か助言をもらえないかと思ったのだ。


 その視線を受けた由美子は、武の右手をぎゅっと握り、優しい声で言った。


「武くん、どんな道を選んでも、お母さんは応援するからね」


「だから、お母さんのために無理しなくてもいいのよ」


 由美子は柔らかく微笑んだ。


 武は自分の手を包む小さく温かな手を見下ろした。


 掌から伝わってくるぬくもりに、かつての平凡な日々が思い出される。


 どんな困難に直面しても、由美子はいつもこうして笑ってくれた。


 武の答えは、実のところ、とっくに決まっていた。


 武の望みは至って単純だ。


 母さんがいるところに、俺もいる。


 家族と長い間離れて暮らすなんて、到底受け入れられない。


 それに、避難してくる被災者が増え続ければ、収容区の生活環境はますます厳しくなるだろう。治安だって保証されない。


 そう考えると、抗魔士になることが武にとって唯一の選択肢だった。


 魔力検査に関しては、正直なところ、あまり自信がない。


 だが、魔物を狩ることなら、武には絶対の自信があった。


 アストラ総学園が、才能ある人間を一人たりとも埋もれさせるはずがない。


「母さん、俺、決めたよ!」


 武は固い決意を込めて言った。

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