第十一章 欲望の代償
地面に倒れたまま動かない牛頭の怪物を見ても、武はそれ以上気に留めなかった。
そのまま向きを変え、由美子が身を隠している場所へと歩いていく。
苦労の末に掴み取った勝利を母さんに自慢しようと、武が笑みを浮かべて手を振ろうとした、その時だった。
由美子が恐怖に顔を引きつらせ、武へ手を伸ばして叫んだ。
「武くん! 後ろ!」
死角から襲いかかった凄まじい一撃が、武をまともに捉えた。
武の身体はそのまま吹き飛ばされ、激しく岩壁へ叩きつけられた。
大量の血を吐き出した武は、そのまま岩壁をずるずると滑り落ち、地面へ倒れ込んだ。
攻撃が直撃する一秒前、咄嗟に長剣を身体の横へ構え、鉄斧の鋭い刃を受け止めていなければ、おそらく武の身体はその場で真っ二つになっていただろう。
遠くから由美子の悲鳴が聞こえてくる。
だが、武にはほとんど聞き取れなかった。
耳に残っているのは、甲高い耳鳴りだけだった。
視界が次第にぼやけていく。
胸を何かに力任せに押し潰されたかのように、呼吸をするたび、引き裂かれるような激痛が走った。
本来なら死んでいるはずの牛頭の怪物は、今や全身から不気味な黒い気を放っていた。
全身の筋肉が異様なほど膨れ上がり、胸に刻まれていた傷口は盛り上がった筋肉によって押し潰され、すでに血すら流れていない。
とても傷を負っているようには見えなかった。
牛頭の怪物が天を仰いで長い咆哮を上げる。
呼吸に合わせ、大量の黒い気が口と鼻から噴き出した。
そして巨大な鉄斧を手に、一歩、また一歩とゆっくり武へ近づいてくる。
武は地面に倒れたまま、全身を制御できずに震わせていた。
心臓が激しく脈打ち、喉の奥からは絶えず血が込み上げてくる。
さっき避け損ねた一撃は、あまりにも致命的だった。
その威力は、それまでの攻撃とはまるで次元が違う。
動け……早く動け……!
武は地面に這いつくばったまま、必死に身体の主導権を取り戻そうとする。
だが、身体はまるで動かなかった。
巨大な山に押し潰されているかのようだった。
「ディゼル! 何か身体を動かす方法はないのか! 早く!」
武は心の中で叫んだ。
「これは……若き友よ、率直に言わせてもらうが、お前は今、全身いたるところが粉砕骨折し、内臓も衝撃で出血しておる。それでも意識を保っていられること自体、三神主の祝福としか言いようがない」
「だったら、お前の欲望の力で何とかしろ!」
「吾の欲望の力はとうに使い果たしておる。今のお前を救う方法は、ただ一つ……」
ディゼルは、それ以上言葉を続けなかった。
武の性格を理解していたからだ。
このような半ば脅迫に近い形で契約を結ばせれば、今後の二人の関係は決して良好なものにはならないだろう。
少なくとも、契約の主導権は武自身が握らなければならない。
そして今こそ、武自身が選択する時だった。
生きるか、死ぬか。
すべては彼の一念にかかっている。
牛頭の怪物の重い足音が、徐々に近づいてくる。
それでも武は諦めることなく、必死に身体を動かそうとしていた。
やがて巨大な影が武の身体を覆った。
牛頭の怪物が巨大な鉄斧を振り上げる。
「武くんから離れて!」
その時、遠くから聞き慣れた女性の声が響いた。
由美子は身を隠していた巨岩の陰から飛び出し、たった一人で戦場へ駆け込んでくる。
そして牛頭の怪物へ向けて両手を真っ直ぐ伸ばし、小さな声で魔術の呪文を唱え始めた。
「三神主よ、どうか私の願いにお応えください! 聖なる光のもと、あなたの信徒をお守りください! 樹蔓纏繞!」
詠唱が終わった瞬間、牛頭の怪物の足元の土から無数の太い枝が飛び出し、その手足へ絡みついた。
その光景を見た武は、ようやく理解した。
森で異常に増殖していたあの枝は、すべて母さんが牛頭の怪物の追跡から逃れるために使った魔術によるものだったのだ。
しかし魔術を唱え終えた直後、由美子は魔力を使い果たし、全身から力が抜けたようにその場へ膝をついた。
それでも両手だけは下ろさない。
苦しそうに息をしながら、必死に魔術を維持し続けていた。
無数の枝に絡みつかれた牛頭の怪物は、わずかに身体を捻ると、力任せに一度引っ張った。
それだけで拘束していた枝が簡単に引き千切られる。
「そんな……?」
由美子は目を大きく見開き、恐怖に顔を引きつらせた。
どうやら由美子自身も、先ほどまでは辛うじて牛頭の怪物を抑え込めていた魔術が、これほど簡単に破られるとは思っていなかったらしい。
枝の枷で牛頭の怪物を拘束することはできなかった。
だが、その注意を引くことには成功した。
牛頭の怪物が身体を反転させ、今度は由美子へ向かって一歩ずつ近づいていく。
武は地面に這いつくばったまま、その光景を見ていることしかできなかった。
牛頭の怪物が、一歩、また一歩と由美子へ迫っていく。
武は生まれて初めて、自分の弱さを心の底から憎んだ。
そして同時に、ついに決意を固めた。
「一つだけ聞く。聖者になれば、本当に強大な力が手に入るんだな?」
武は心の中で問いかけた。
「天下無敵を保証しよう」
武が再び目を開けると、そこには果てしなく広がる灰白色の空間があった。
そして目の前には、一筋の紫色の炎が静かに浮かんでいる。
「若き友よ、ここはお前の意識空間だ」
「始めろ。ぐずぐずするのは嫌いだ」
武は真剣な表情で紫色の炎を見据えた。
「若き友よ、本当に決めたのだな?」
紫色の炎がかすかに揺らめく。
その直後、武は何かを感じ取ったかのように、ゆっくりと右手を上げ、自らの胸へ当てた。
紫色の炎が一気に燃え上がる。
二つの声が同時に、灰白色の世界へ響き渡った。
「 三神主よ、御照覧あれ。
我ら、ここに誓う。
名を求めず、利を求めず。
希望をもって身を錬り、栄光をもって心を鋳る。
世の欲を収め、世の望みを奪い取らん。
己が身をもって穢れを浄め、文明の火種を繋がん。
己が身をもって深淵へ堕ち、天下の災厄を滅ぼさん。
欲の成すところ、悔いも憾みもなし。
この契りと誓いをもって、万世の栄光を共に築かん。 」
最後の一音が響き終わった瞬間、一本の金色の光柱が凄まじい勢いで天へと立ち昇り、瞬く間に森全体を照らし出した。
由美子へ近づいていた牛頭の怪物が突然足を止め、その金色の光を振り返る。
そして何らかの脅威を感じ取ったかのように長い咆哮を上げると、即座に跳び上がり、光柱の中心へ巨大な鉄斧を振り下ろした。
ガキィン!
激しい金属音が響き渡る。
次の瞬間、牛頭の怪物の巨体がそのまま後方へ吹き飛ばされた!
光柱が消えていく。
その中心には、一人の人影が立っていた。
鋭い赤い瞳が、目の前のすべてを見渡している。
武の姿には、ほとんど変化がなかった。
ただ一つ。
まるですべてを見透かすかのような、鮮烈な赤い瞳を除いて。
「この程度の攻撃すら耐えられないのか? 雑種」
武は全身から圧倒的な威圧感を放ちながら言い放った。
地面に這いつくばっていた牛頭の怪物が、たちまち狂ったような咆哮を上げる。
そして両手両足を使い、武へ向かって猛然と駆け出した。
「ハハッ、そうこなくちゃな!」
武は地面に突き刺さっていた銀白の長剣を引き抜いた。
猛烈な勢いで迫る牛頭の怪物を前にしても、一歩たりとも退こうとはしない。
次の瞬間、両者の姿が同時にその場から消えた。
激突。
無数の剣閃と斧の軌跡が瞬く間に二人の間で交錯する。
戦場には斬撃同士がぶつかり合う音が絶え間なく響き、激しい衝撃が四方八方へ狂ったように広がっていった。
草地が引き裂かれ、岩が砕け散る。
少し離れた場所にいる由美子でさえ、外へ溢れ出す衝撃波に押され、目を開けていることすらできなかった。
しかし、戦況は拮抗してはいなかった。
真正面からぶつかり合うこの戦いは、次第に明確な結果を見せ始めていた。
斬撃を交わす回数が増えるにつれ、牛頭の怪物の身体には傷が一つ、また一つと増えていく。
一方の武は、まるで遊びを楽しんでいるかのように邪悪な笑みを浮かべていた。
次々と繰り出される斬撃が牛頭の怪物の皮膚を切り裂く。
牛頭の怪物の攻撃速度は明らかに最初よりも鈍っており、武の斬撃に押されて数歩後退せざるを得なかった。
牛頭の怪物が今にも耐えきれなくなりそうになった、その時。
武は突然、鋭い横蹴りを叩き込み、その巨体を蹴り飛ばした。
「せっかく機会をやったのに、その程度か? 雑種」
武は長剣を肩に担ぎ、笑いながら言った。
牛頭の怪物は先ほどの武と同じように岩壁へ激しく叩きつけられ、その口から大量の黒い気を吐き出した。
今の武は、身体の奥底から尽きることのない巨大な力が湧き出してくるのを感じていた。
頭はかつてないほど冴え渡り、全身の細胞一つ一つが極限まで解き放たれたかのように、言葉では言い表せないほどの爽快感と歓喜を高らかに叫んでいる。
牛頭の怪物がもがきながら立ち上がった。
凶悪な光を宿した目で武を睨みつけ、地面に落ちていた鉄斧を再び拾い上げる。
天を仰いで狂ったように咆哮すると、左手を盾、右手を矛とするような構えで、武へ向かって全速力で突進した。
「そろそろ、この茶番を終わらせるか」
武は手で前髪を掻き上げると、戦闘態勢を取った。
息を整え、大量の黒い気をまといながら迫ってくる牛頭の怪物を静かに見据える。
刹那。
武もまた、牛頭の怪物へ向かって全速力で駆け出した。
二つの影が交錯する。
何の波動も生じないまま、二人は同時に足を止め、まるで何事もなかったかのように静かに立っていた。
数秒後。
牛頭の怪物の胸に、突如として巨大な血の筋が走った。
傷口から大量の鮮血が噴き出し、巨大な鉄斧がその手から滑り落ちる。
牛頭の怪物はゆっくりと後方へ倒れ、そのまま二度と動くことはなかった。
武の一閃が、牛頭の怪物の命を完全に断ち切った。
【レベル72】【ミノタウロス】
牛頭の怪物が死ぬと、その死体から大量の黒い気が一気に溢れ出した。
そして出口を見つけたかのように、武のいる場所へ凄まじい勢いで集まり始める。
武は目を閉じ、その黒い気を貪るように吸収した。
言葉では表せないほどの充足感が全身を駆け巡る。
気持ちいい!!
生まれてから今まで、武はこれほど純粋で強烈な快感を味わったことがなかった。
最後の一筋の黒い気が身体へ吸い込まれる。
武は再び、まるで鮮血に染め上げられたかのような赤い瞳を開いた。
そしてその視線を、少し離れた場所で力なく座り込んでいる由美子へ向ける。
由美子の胸に、一瞬だけ恐怖がよぎった。
それでも武を信じる気持ちから、いつもの優しい笑みを浮かべる。
「武くん、すごい! あの凶魔に勝っちゃうなんて!」
武は答えなかった。
ただ真っ直ぐ、由美子へ向かって歩いてくる。
自分を起こしに来てくれたのだと思った由美子は、わずかに安堵すると、武へ両手を伸ばした。
武は由美子の前にしゃがみ込み、右手を上げる。
そして由美子の白い上着を掴むと、力任せに引き裂こうとした。
由美子は慌てて両手で服を押さえた。
「武くん、どうしたの? 待って……」
武は由美子の問いかけにも答えない。
左手で由美子の両手をまとめて掴み、そのまま頭上へ押し上げると、右手で薄い衣服をさらに引き裂こうとした。
すでに力の残っていない由美子は、武に獣欲をぶつけられるがまま、顔を横へ背け、静かに二筋の涙を流した。
その涙を目にした瞬間。
武は突然、何かに撃ち抜かれたかのように両手で頭を抱え、苦しげな叫び声を上げた。
「うあああああっ!!」
数秒後、武は前のめりに倒れ込み、両手で地面の土を強く掴んだ。
苦痛に顔を歪めながら、由美子へ叫ぶ。
「母さん、逃げろ! もう自分を抑えられない!」
武の両手は激しく震え続けていた。
赤く染まっていた瞳も、次第に本来の澄んだ青色へと戻っていく。
苦しみに耐える武の姿を見つめているうちに、由美子の顔に残っていた恐怖が少しずつ消えていった。
何が起きているのか、由美子には分からない。
ただ一つだけ分かっていた。
武くんはきっと、自分のために多くのものを犠牲にした。
だからこそ、こんな状態になってしまったのだ。
由美子は逃げようとはしなかった。
手を伸ばし、武の頬を優しく撫でる。
「大丈夫。お母さんはここにいるから」
由美子はいつもの笑顔を浮かべた。
「何があっても、お母さんがずっとそばにいるからね~」
由美子は両腕を武の首へ回し、苦しみながら必死に自分を抑えている武をそっと胸元へ抱き寄せた。
「もう大丈夫だから」
その行動は由美子の黙認を意味し、武の中に残っていた最後の理性を一気に突き破った。
その頃、武の意識空間にいるディゼルは、一人静かに呟いていた。
「欲を成す者は、皆、欲する者となる」
外の状況を知ることはできない。
だが、欲望の力を使った後に何が起こるのかについては、誰よりもよく理解していた。
歴代の宿主は、初めて欲望の力を行使した後、往々にして極めて大きな代償を支払わなければならなかった。
その代償とは、欲望そのものを直接実行すること。
傲慢、憤怒、嫉妬、暴食、貪欲、色欲、怠惰。
人間の欲望を象徴する七つの原罪こそ、その最も分かりやすい対象だった。
欲の聖者になるということは、単に契約を結べば済むような話ではない。
常に周囲の穢れを吸収し続ける聖者には、欲望を絶対的に支配できるだけの制御力が必要となる。
それができなければ、最後には欲望の力に呑み込まれ、人とも怪物ともつかない存在へと成り果てる。
だからこそ、初めて欲望の力を行使した際に支払う代償によって、その代の宿主がどれほどの資質を持っているのかを見極めることができる。
代償を実行した後でも自我を保つことができれば、極めて優秀な宿主。
反対に自我を失い、酒池肉林に溺れてしまえば、自滅する時もそう遠くはない。
ディゼルには考えるまでもなく分かっていた。
武が実行することになる代償は、色欲だ。
以前、わずかな欲望の力を得るため、ディゼルは一度武の欲望を刺激したことがある。
その時、武が表に出した欲望こそ、色欲に属するものだった。
だからといって、武の本性が女色に溺れるようなものだという証明にはならない。
ただ現時点で、武に最も近い欲望が色欲だったというだけのことだ。
宿主として見れば、武が秘めている潜在能力は極めて大きい。
適切に鍛え上げさえすれば、武はいずれ必ず一方を統べる雄主となれるだろう。
もっとも、それには本人が大志を抱くことができれば、という前提がつくのだが。
そこまで考え、ディゼルは再びため息をついた。
「一日中、母親のそばにいたいとしか考えておらぬ子供に、どれほどの大志が抱けようか?」
「まあよい……まあよい。これからお前がどのような道を歩むのか、吾に見せてもらおう」
*
森林上空。
一機の白い楕円形の飛行艇が、森林地帯の上空を通過していた。
その時、機内から突然大きな声が上がった。
「まだ被災者がいるぞ! 急いで降りて救助しろ!」
(駆け出し編・完)




