第十章 ミノタウロス
墓地を離れた武は、先ほど感じ取った方向へ向かってひたすら駆け続けていた。
やがて武は、両側を切り立った岩壁に挟まれた狭い道へと辿り着いた。
地震の影響で、今も両側の高所から巨大な岩の破片が絶え間なく落下している。
それでも武は足を止めることなく、迷わずその中へ飛び込んだ。
持ち前の身軽さを活かし、落石の間を素早く駆け抜けながら、正面から降り注ぐ巨岩のほとんどをかわしていく。
避けきれない岩は長剣で直接斬り裂き、かわす暇もない小石に至っては、武の服を汚す程度で、ほとんど何の影響も与えなかった。
危険をくぐり抜けて無事に断崖地帯を抜けると、武の視界に再び鬱蒼とした森と緑地が広がった。
ここから先が、本当の意味で森の奥地にあたる。
以前、武も何度か森の奥地まで足を運んだことがあったが、それはいずれも森の生態系に起きた異変を調査するためだった。
何度も確認を重ね、それが魔物同士の縄張り争いにすぎないと分かれば、武はそれ以上長居せず、そのまま引き返していた。
武がすべきことは、森で起きるあらゆる事態を自分の把握下に置いておくことだけだったからだ。
だが今は一刻を争う。
外周から様子を探る余裕などなく、森の奥へ直接踏み込むしかなかった。
地震の影響なのか、道中で武の行く手を阻むものは何も現れなかった。
それどころか、普段なら見かけるはずの魔物たちまで姿を消している。
おそらく地震に驚き、四方へ逃げ散ったのだろう。
足元の大地からは今も時折振動が伝わってくる。
武は人並み外れた速度を保ったまま、森の中を駆け抜けていった。
木々が次々と凄まじい勢いで脇を流れていく中、武はこの森に起きている奇妙な異変に気づいた。
大量の細長い枝が、幹や枝分かれした部分から何の規則性もなく伸び出し、互いに交差し、絡み合っている。
地面の至る所には、異常に増殖した枝の先端が見られ、その先端には力任せに引き千切られたような痕跡が残っていた。
周囲には樹皮の破片が散乱し、まるで何かがここで暴れ回り、辺り一帯を破壊したかのようだった。
武は足を止めず、通り過ぎざまに素早く周囲を見回した。
真っ先に思い浮かんだのは、何らかの魔物がこの森を破壊している可能性だった。
だが、それではなぜ木々がこれほど奇妙な姿に成長しているのか説明がつかない。
そもそも森の奥地に生えている木々は、外周に生えているものと同じ種類だ。
森の奥にある木だけが変異する道理はない。
この辺りの土壌に何か問題があるのか?
武がそう考えていた、その時だった。
先ほどまで感じ取れていた点が、ゆっくりと消え始めていることに気づいた。
武の脳裏に最悪の事態がよぎり、呼吸がたちまち荒くなる。
「どういうことだ!」
武は慌てて声を荒らげた。
「すまぬな、若き友よ。お前から取り出した欲望の力をすべて使い切ってしまった。ゆえに、これ以上は方角を感じ取ることができぬ」
武の頭の中に、ディゼルの返事が響いた。
それを聞いた武は、ほっと息をついた。
自分が想像したような事態が起きたわけではないのなら、それでいい。
武は頭の中にかすかに残っている方角を頼りに、そのまま先へ進み続けた。
それから間もなく、前方から低い音が聞こえてきた。
武が近づいて確認すると、そこには長牙猪の群れが集まっていた。
【レベル45】【長牙猪】
【レベル47】【長牙猪】
【レベル48】【長牙猪】
武はすぐには攻撃を仕掛けなかった。
それ以上に彼の注意を引いたのは、周囲に転がっている長牙猪の死体だったからだ。
数体の長牙猪が近くに倒れている。
首と胴が切り離されているものもあれば、身体に細長い傷がいくつも刻まれているものもあり、その傷口の断面はいずれも非常に綺麗だった。
この長牙猪たちは、何らかの鋭利なものによって殺されている。
しかも、かなり大きなものらしい。
武は自分の手にある長剣へ目を落とした。
こうした傷には見覚えがありすぎる。
もし自分が手を下していたとしても、おそらく現場は十中八九これと似たような有様になっていただろう。
問題は、そんなものがこんな山奥に一体どこから出てきたのかということだ。
それとも、未知の凶魔が持つ爪なのか?
だが、この森にはこんな傷を残せる魔物はいない。
そもそも魔物の爪痕なら、一筋だけということもないはずだ。
武は再び、生き残っている長牙猪たちへ視線を戻した。
どれも状態はひどく、ほぼすべてが傷を負っている。
中には骨が見えるほど深く長い傷を負い、強靭な生命力だけで辛うじて生き延びている個体までいた。
一瞬、長牙猪同士の争いで負った傷ではないかという考えも武の頭をよぎった。
だが、どう見てもこれらの傷は、牙によってつけられるものとは違う。
こいつらは一体、何に遭遇してこんな状態になったんだ?
武はさらに目を凝らした。
すると、長牙猪たちが集まっている中央の小さな空き地に、見覚えのある物が落ちているのを見つけた。
母さんの菜籠?
武は突然、大きく目を見開いた。
考えるより先に長剣を振り上げ、そのまま奇襲を仕掛ける。
銀白の軌跡が上から下へと走り、最も外側にいた長牙猪の背中を一瞬で斬り裂いた。
続けざまに空中で連続して回転斬りを放ち、複数の長牙猪の背中に大きな細長い傷を刻み込む。
凄まじい悲鳴が森中に響き渡った。
傷を負った長牙猪たちは悲鳴を上げながら次々と地面へ倒れていく。
着地した武は動きを止めず、そのまま返す刀で背後にいた一体の長牙猪の牙を斬り落とした。
そのまま剣先を長牙猪の頭蓋へ突き刺す。
その長牙猪は、それきり動かなくなった。
ようやく異変に気づいた他の長牙猪たちが次々と咆哮を上げ、武へ向かって突進してくる。
武は足元に倒れた長牙猪の頭を踏みつけ、長剣を勢いよく引き抜いた。
そして左手を伸ばし、残された一本の牙を掴む。
腰に力を込め、数百キロはある長牙猪の死体を力任せに振り回すと、そのまま突進してくる長牙猪の群れへ投げつけた。
先頭を走っていた数体は何の備えもできず、仲間の死体をまともに受けてその場に薙ぎ倒された。
大量の土埃が巻き上がり、視界が一瞬にして煙塵に覆われる。
やがて土煙が晴れると、地面に残っていたのは数体の死体と、狂ったように地面を鼻先で掻き回すことしかできない長牙猪の群れだけだった。
戦場から少し離れた一本の大木の上で、武はぼろぼろになった菜籠の中身を素早く確認していた。
中にはまだ数株の薬草が残っていたが、その大半は食い荒らされ、無残な状態になっている。
こいつら、菜籠に入っていた薬草で傷を治そうとしていたのか?
いや、待て。
こいつらには理性がないんじゃなかったのか?
森に棲む魔物が薬草を探すこと自体は、何ら珍しいことではない。
ただ、異門から現れた凶魔にも同じ習性があるとは、武も思っていなかった。
武はしばらく菜籠を探ったものの、母さんにつながる手がかりは何も見つからなかった。
分かったのは、母さんが何らかの理由で慌てて菜籠を置き去りにしたということだけだ。
その直後、武は再び母さんの位置を感じ取った。
しかも、ここからそう遠くない。
「さっきの戦いで少しばかり欲望の力が得られたのでな。おかげで、また一時的に繋がることができた。ただし、今回は一分も持たぬぞ」
武が尋ねるより先に、ディゼルが自ら説明した。
「十分だ。助かった」
「……」
武は菜籠を収納の指輪へしまい、再び目標の位置へ向かって全速力で駆け出した。
母さんの位置は、今も移動を続けている。
間違いなく、何かが母さんの後をつけている。
先ほどまでに得た情報を合わせて考えれば、母さんを追っているあの魔物こそ、長牙猪の群れに重傷を負わせた張本人なのだろう。
武は、この先で激しい戦いになることを覚悟した。
収納の指輪から初級回復薬を一本取り出し、栓を抜くと、そのまま顔を上げて一気に飲み干す。
わずかに苦みのある液体が喉を流れ落ち、長時間走り続け、立て続けに戦ったことで溜まっていた疲労が少しだけ和らいだ。
武は細長い通路を抜けた。
その先には広大な草地が広がっており、そこには大きさの異なる二つの影があった。
一つは、由美子だった。
地面に倒れ込み、服は泥にまみれ、呼吸も荒い。
すでにほとんど力が残っていないように見えた。
そして由美子の前に立っていたのは、武がこれまで一度も見たことのない凶魔だった。
四メートル近い巨体。
全身が褐色の毛で覆われた、牛の頭と人間の身体を持つ怪物。
その太い右手には、大人の身長にも迫る巨大な鉄斧が握られている。
由美子は地面に手をつき、必死に後ろへ下がろうとしていた。
だが、その体力はすでに尽きかけているようだった。
牛頭の怪物は、力尽きて地面に倒れている由美子へゆっくりと近づいていく。
そして、巨大な鉄斧を高々と振り上げた。
由美子はすべてを諦めたかのように目を閉じる。
巨大な影が、その身体を覆った。
ガキィン!
凄まじい金属音が辺りに響き渡った。
由美子が目を開ける。
そこには、見慣れた背中が立ちはだかっていた。
武は銀白の長剣を両手で強く握り締め、その刀身で振り下ろされた一撃を受け止めていた。
巨大な鉄斧が長剣の上から凄まじい力で押しつけられ、二つの力がぶつかり合う中、武の足元の土が徐々に沈み込んでいく。
「早く逃げろ!」
武は由美子に背を向けたまま叫んだ。
由美子は唇を噛み締め、無理やり身体を起こすと、ふらつきながら少し離れた巨岩の陰へと走っていった。
由美子が戦場から離れたことを確認した瞬間、武は全身の力を一気に爆発させた。
牛頭の怪物が上から押し込んでくる力を弾き返し、そのまま大きく一歩後退する。
武は表情を引き締め、目の前の怪物についておおよその見当をつけた。
【レベル?】【?】
武の記憶にある限り、力比べで自分と互角に渡り合える凶魔に出会ったのは、これが初めてだった。
だが、倒せない相手ではない!
牛頭の怪物が低い咆哮を上げ、その力を誇示する。
武は長剣を強く握り締め、一歩踏み込んで前方へ駆け出した。
牛頭の怪物の攻撃範囲へ入る寸前、勢いよく跳躍する。
空中で身体を横へ捻りながら回転し、その回転の勢いを利用して斬撃の威力を高め、牛頭の怪物の胴体へ長剣を振り下ろした。
牛頭の怪物は瞬時に左腕を持ち上げ、分厚い銀白の手甲でその一撃を真正面から受け止める。
剣と手甲がぶつかり、澄んだ金属音が響いた。
牛頭の怪物は、武の身体が宙に浮いている隙を逃さなかった。
巨大な斧を水平に構え、そのまま勢いよく突き出す。
武の瞳孔が縮む。
すぐさま銀白の手甲を足場にして跳び退いた。
空中で一回転し、無事に地面へ着地する。
だが、武が着地して体勢を整えた時には、牛頭の怪物はすでに目の前まで迫っていた!
武は横へ身をかわす。
巨大な影がすぐ脇を駆け抜けていった。
武はそのまま背後へ回り込み、不意を突こうとした。
しかし牛頭の怪物は突然急停止すると、武が接近した瞬間に身体を捻って体勢を変え、右手の鉄斧を後方へ力任せに薙ぎ払った。
避けきれないと判断した武は、慌てて上体を大きく反らす。
鋭い斧刃が武の鼻先すれすれを通過し、黒髪を数本斬り飛ばした。
それでも武は退かなかった。
攻撃をかわした直後、すぐさま姿勢を低くして前へ踏み込み、一気に牛頭の怪物の懐へ潜り込む。
両手で長剣を握り締め、その胸元を斬り裂いた。
傷口から鮮血が激しく飛び散り、牛頭の怪物が苦痛の咆哮を上げる。
武は深追いせず、一撃を入れるとすぐに大きく距離を取った。
惜しいな。こいつ、身体が硬すぎて、これ以上深く斬り込めなかった。
牛頭の怪物は自らの胸元へ目を落とした。
そして左手を地面へ伸ばして大量の土を掴み取ると、そのまま自分の傷口へ押しつけた。
続けて強く一度叩く。
傷口に付着した土が急速に分厚い土塊へと変わり、傷を完全に塞いだ。
これは……魔術?
武が考える暇もなく、牛頭の怪物は再び動き出した。
巨体が勢いよく宙へ跳び上がり、斧を高々と掲げたまま武へ襲いかかる。
武はすぐさま横へ転がった。
それでも牛頭の怪物が着地した際の衝撃波を受けてしまったが、幸い大したダメージではない。
巨大な斧が地面へ叩き込まれる。
力を込めすぎたのか、斧は地面の奥深くまで食い込んでいた。
武はその隙を逃さなかった。
一瞬で牛頭の怪物の背後へ回り込み、その背中へさらに二度斬撃を叩き込む。
牛頭の怪物は斬られた勢いで前方へよろめき、それから斧を引き抜いて後方へ振り回した。
だが、武はすでに安全な距離まで退いていた。
巨大な斧が斬り裂いたのは、わずかに血の臭いが混じった空気だけだった。
牛頭の怪物が天を仰いで咆哮する。
その両目が徐々に血走り、次の瞬間、高速で武へ突進してきた。
これで最後だ!
武は全神経を集中させ、牛頭の怪物の動きを見据えた。
牛頭の怪物は太い左腕を振るい、武へ攻撃を仕掛ける。
武がそれをかわすと、すぐさま身体を回転させ、鉄斧を高々と振り上げて、武が避けた先へ叩きつけようとした。
武は今度はかわさなかった。
逆に、迫る斧刃へ向かって一歩踏み込む!
巨大な斧が肩のすぐ脇を唸りながら通り過ぎた。
武はその一瞬の隙を逃さず、一気に懐へ入り込むと、土に覆われた傷口へ長剣を深々と突き刺した。
武が勢いよく長剣を引き抜く。
大量の鮮血が四方へ飛び散った。
牛頭の怪物の身体がぐらりと揺れた。
手にしていた巨大な斧が地面へ落ち、その巨体もゆっくりと後方へ倒れていく。
轟音とともに、辺り一面へ大量の土埃が舞い上がった。
武の胸は激しく上下していた。
長時間にわたって強烈な力を受け止め続けた両手には、わずかな痺れが残っている。
終わったか……。
地面に倒れたまま動かない牛頭の怪物を見ても、武はそれ以上気に留めなかった。
武は疲れ切った身体を引きずりながら向きを変え、由美子が身を隠している巨岩へ向かって歩き出した。




