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第九章 禍災の降臨

 朝の陽射しが大地に降り注ぎ、窓ガラスを通して武の整った顔を照らしていた。


 陽の光を感じた武はわずかに眉をひそめ、ゆっくりと目を開けた。


 ベッドの上で身体を起こし、まだ眠たげな目をこする。それからベッドを降り、顔を洗うため洗面台へ向かおうとした。


 その途中、武は何気なく枕元へ目をやった。


 そこには、太い縄で数え切れないほど何重にも縛られたパンドラの箱が、昨夜と変わらず静かに置かれていた。


 冷たい水を顔に浴びると、残っていた眠気が一気に吹き飛んだ。


 洗面を済ませ、すっきりした顔になった武は、すぐに違和感に気づいた。


 家の中が静かすぎる。


 いつもならあるはずの何かが、欠けているような気がした。


 武はあることに気づき、そのまま台所へ向かった。


 見ると、食卓には様々な朝食が所狭しと並べられ、テーブルの隅には一枚の小さなメモが置かれていた。


「武くん、おはよう。とっても気持ちよさそうに寝ていたから、起こさないでおいたわ。


 朝ごはんは用意してあるから、ちゃんとよく噛んで食べるのよ。そのほうが身体にもいいからね。


 母さんはお墓へお線香をあげに行ってきます。途中で薬草も少し採ってくるつもりだから、十時頃には帰る予定です。


                                    母さん♡」


 武はメモを置き、顔を上げて壁に掛けられた時計を見た。


 時刻は九時十二分。


 武はたちまち、まずいと思った。


 いつもより二時間も遅く起きてしまったのだ。


 だが、その理由にはすぐに思い当たった。


 昨夜、武は誰かが卑怯にも寝込みを襲ってくる可能性を警戒し、ベッドの上で二、三時間も無理やり起き続けていた。


 そして、自分を夜更かしさせた張本人は、今どこにも姿が見えない。


「いるんだろ? 出てこい」


 武は誰もいない空間へ向かって言った。


 静まり返った部屋から返事はない。


「箱ごと土の中に埋められたくなければ、今すぐ出てこい」


 武が低い声で言い放つ。


 すると、小さな紫色の炎が武の胸元から浮かび上がり、ゆっくりと宙へ漂った。


「ええと……何か問題でもあったのか、若き友よ」


「まだいるかどうか確認しただけだ」


「前にも言った通り、今の我はお前からあまり遠くへ離れられぬ。ゆえに安心するがよい」


 紫色の炎が宙で揺れた。


 ディゼルには、武が何を警戒しているのか分かっていた。


 何しろディゼルは、一晩かけて武の記憶を探っていたのだから。


 得られた記憶は少なく、そのほとんどがごく表面的な情報にすぎなかった。


 それでも何の収穫もなかったわけではない。


 目の前にいる男がどのような人間なのか、その輪郭くらいはおおよそ掴めるようになっていた。


 魔法を一切使わずとも山をも動かしかねないほどの怪力を持ち、己の肉体だけで様々な魔物と渡り合える。


 そのうえ、常人を遥かに上回る魔力と、異常なほど高い精神力まで備えている。


 これほどの人間は、長い歴史を振り返ってみても極めて稀だ。


 閉塞体質は、まるで彼があまりにも完璧になりすぎるのを防ぐため、三神主が設けた枷であるかのようだった。


 だが、それら以上にディゼルの印象に残ったのは、武の性格だった。


 武は身内を守ろうとする意識が非常に強かった。


 それどころか、その思いが強すぎるあまり、少々疑り深い性格にまでなっている。


 外部の人間をほとんど信用せず、見知らぬ相手はすべて敵とみなし、初対面の瞬間から、もし相手が襲いかかってきたらどうやって素早く返り討ちにするかを考え始める。


 実に恐ろしい……。


 特に由美子という女が関わると、武の警戒心は一瞬で何段階も跳ね上がる。


 それは昨夜の出来事だけでも、ディゼル自身が嫌というほど思い知らされていた。


 性別すら持たない神器である自分でさえあの扱いなのだ。


 ましてや他の人間なら、なおさらだろう。


 この辺りに他の人間が暮らしている気配がないのも当然だ。


 おそらく、周囲の人間はこいつに散々な目に遭わされたのだろう。


 武は何も答えず、椅子を引いて腰を下ろすと、由美子があらかじめ用意してくれていた朝食を食べ始めた。


 少し冷めてはいたものの、味は相変わらず美味しかった。


 武がこれ以上自分を相手にするつもりがないと悟ったディゼルは、ゆっくりと空気の中へ溶けるように消え、武の意識空間へと戻っていった。


 朝食を食べ終え、食器を片づけた武は、ソファに腰掛けたまま落ち着かなげに何度も足を踏み、じっとしていられずにいた。


 時計を見上げる。


 すでに十時を過ぎている。


 それなのに、母さんはまだ帰ってきていない。


 外へ探しに行くべきか。


 武がそう迷っていた、その時だった。


 突然、奇妙な音が聞こえてきた。


 低く、獣の唸り声にも似ている。


 だが一定の規則性はなく、いくつもの異なる鈍い音まで混じっていた。


 武が訝しんだ次の瞬間、ソファの下から突然振動が伝わってきた。


 違う。


 家全体が揺れている!


 木製のテーブル、書棚、テレビ。


 武の視界に入るあらゆる物が、一斉に激しく揺れ始めた。


 武は立ち上がろうとしたが、揺れはすでに何かにつかまらなければ、かろうじて身体のバランスを保つことすらできないほど激しくなっていた。


 棚から無数の物が落下し始める。


 ガラスや壊れやすい物が砕ける音が絶え間なく響き、大型の家具が激しい揺れに耐えきれず轟音とともに倒れた。


 白い壁には、次々と亀裂が走り始める。


 それを見た武は、もはや迷っている暇などなかった。


 両足で地面を強く蹴り、家の外へ飛び出した。


 地面を何度か転がった末、武はようやく止まった。


 その背後では木造の家が轟音とともに崩れ落ち、見慣れた我が家は瞬く間に立ち上る土煙の中へ呑み込まれていった。


 武たち一家の長年の思い出が詰まった家も、ついに今回の地震には耐えきれなかった。


 だが、武に悲しんでいる余裕はない。


 足元から伝わり続ける揺れが、地震はまだ終わっていないと告げていた。


 武は身体の重心を低く落とし、できる限りバランスを保ちながら素早く周囲を見回した。


 見渡す限り、山全体が震えている。


 無数の砂や石が斜面を転がり落ち、木々は激しい揺れの中で倒れ、あるいは折れていく。


 何かが砕ける音が四方八方から響き、時折、耳をつんざくような破裂音まで混じっていた。


 森に潜んでいた鳥や獣たちも、一斉に逃げ惑い始めている。


 その時、武は視界の端で、何かが空から落ちてくるのを捉えた。


 顔を上げ、空を見る。


 大小様々な無数の異門が空間を引き裂くように出現し、そこから正体不明の黒い物体が次々と溢れ出し、真っ直ぐ地上へ落下していた。


 その光景は、まるで世界の終末を描いた一枚の絵のようだった。


 至る所で、地獄さながらの光景が繰り広げられている。


 それを目にした武の頭に浮かんだことは、ただ一つ。


 母さんを見つける!


 地震の揺れがようやく少し弱まったところで、武はすぐに収納の指輪から銀白の長剣を取り出した。


 そして両脚に力を込めて地面を蹴り、前方へ跳躍すると、そのまま墓地の方向へと全速力で駆け出した。


 庭を出た直後、武は門の近くに立っていた駆魔台が巨石の直撃を受け、ひび割れているのを目にした。


 駆魔石は砕けていくつもの破片となって周囲に散らばり、すでに本来の機能を失っている。


 武は一瞥しただけで、それ以上気に留めなかった。


 今は、それどころではない。


 一刻を争う事態だった。


 武は全速力で森の小道へ向かった。


 その時、前方の空間が突然大きく歪んだ。


 空間を無理やり引き裂くように漆黒の亀裂が開き、そこからいくつもの影が飛び出してくる。


【レベル18】【大型ゴブリン】


【レベル17】【大型ゴブリン】


【レベル19】【大型ゴブリン】


 武は速度を落とさなかった。


 そのまま一体の大型ゴブリンの頭部を全力で踏みつけ、反動を利用して比較的安全な位置へ着地した。


 踏み潰された大型ゴブリンの頭部は圧力に耐えきれず弾け飛び、噴き出した血が周囲のゴブリンたちへ降りかかった。


 血を浴びた大型ゴブリンたちは、ただひたすら咆哮を上げ、怒りを撒き散らしている。


 だが、どれほど凶暴であろうと、頭上に表示されたレベルは嘘をつかない。


 武に恐怖は一切なかった。


 いきなり一体の大型ゴブリンの頭を狙って斬りかかり、そのままゴブリンの群れとの乱戦へ突入する。


 一体、二体、三体。


 銀白の長剣が何度も振り下ろされるたび、血が飛び散り、骨が砕けた。


 武の剣撃の前に大型ゴブリンたちは次々と命を落としていく。


 だが、その最中、武はある異変に気づいた。


 こいつらには、まるで痛覚がない。


 四肢を斬り落とされても、なお武へ襲いかかってくる。


 つい先ほども、両脚を斬り落とした大型ゴブリンに危うく噛みつかれそうになった。


 もっとも、それで武が大きく不利になることはなかった。


 所詮は幻影狼よりもレベルの低い凶魔の群れだ。


 基本的に武へ触れることすらできない。


 たとえその数が百体に達したとしても、武には何の影響も与えられないだろう。


 それでも武がここで大型ゴブリンたちと戦い続けている理由は単純だった。


 こいつらが森の小道の入口を塞いでいる。


 ならば、自分で血路を切り開くしかない。


 大型ゴブリンの死体がいくつもの山となって積み重なった頃、一方的な血みどろの戦いはようやく終わった。


 武は無傷のまま勝利を収めた。


 森の小道を塞いでいた異門は、まるでその時を見計らっていたかのように激しく収縮し始め、そのまま空間から消滅した。


 武は袖で顔についた血を拭い、身体の状態を整える。


 そして深く考えることもなく、そのまま森の小道へ飛び込んだ。


 道中では異門が次々と現れては消えていった。


 突然、中から凶魔が飛び出してくるものもあれば、何も出てこないものもある。


 まるでサプライズボックスを次々と開けているようだった。


 もっとも、今の武にはそんな箱を楽しんで開けているような気分など微塵もない。


 ただひたすら、それらを高速で駆け抜けていった。


 どれほどの時間が経ったのか。


 進路を塞ぐいくつもの巨石を砕きながら進み、武はようやく墓地へ辿り着いた。


 昨日まで盛大に花びらを散らしていた桜の木は、今やすっかり枯れ果てていた。


 残っているのは、辛うじて立ち続けている巨大な幹と枝だけ。


 地面一面に散らばった桜の花びらは、まるで闇に染め上げられたかのように墨色へと変わっていた。


 どういうことだ?


 武は驚きながらも、まず由美子の痕跡を探すことにした。


 しかし、ここには母さんにつながる手がかりが何一つない。


 その時、武は母さんが残していったメモの内容を突然思い出した。


 母さんはきっと、森の奥へ薬草を採りに行ったんだ。


「くそっ……」


 武の脳裏に、以前この森の小道で薬草を採った時の記憶が蘇った。


 あの時、自分があの薬草を採っていなければ、母さんはこの辺りに留まっていたかもしれない。


 危険を冒して森の奥まで行く必要もなかったはずだ。


 過去の自分の行動に激しい憤りを覚えていた、その時。


 武の頭の中に声が響いた。


「若き友よ、我ならお前の母親の居場所を見つける手助けができるぞ」


「余計な話はいい。方法だけ言え」


 武はひどく冷たい口調で言った。


「この方法には、お前が我を信じる必要がある。我ならお前と母親との間に繋がりを作ることができる。それが完成すれば、お前は母親のいる場所を直接感じ取れるようになる」


「分かった。やれ。早くしろ」


 武は考えることすらなく、即座に了承した。


 ディゼルは、武がここまで迷いなく承諾するとは思っていなかった。


 だが状況が切迫していることは理解していたため、余計なことは言わず、残り少ない欲望の力をすぐに動かし始めた。


「お前が母親へ抱く執念を錨とし、それと繋がるもう一方の端を探す」


 武は目を閉じ、全身から力を抜いて心を空にした。


 やがて頭の中に温かな感覚が生まれ、それが絶えず外へと広がっていくのを感じ始める。


 どれほどの時間が経ったのか。


 武はぼんやりと、一つの淡い輪郭が徐々に集まり、一つの赤い点へと変わっていくのを感じ取った。


 そして、その赤い点はゆっくりと自分から遠ざかっている。


 母さんに何かあった!


 武は勢いよく目を見開いた。


 足元の土が轟音とともに弾け飛ぶ。


 その考えが頭に浮かんだ時には、武の身体はすでに動き出していた。


 武は手にした長剣を強く握り締め、全力でその赤い点を追って駆け出した。


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