第73話:月下の誓い
王都の喧騒が静まり返る夜。
明日の『黒翠の大樹海』への出立に備え、僕たちは宿の部屋で各自荷物の最終チェックを終えていた。
「よし……これで『汎用超貫通矢』と曲導用の補強リングも全部装填完了、だな」
僕はベッドの上に並べた矢筒に、バログさんが補強してくれた矢を一本ずつ丁寧に収めていった。
ふと窓の外を見ると、王都の街並みを満月の青白い光が優しく照らし出していた。心地よい夜風がシアー感のあるカーテンをかすかに揺らしている。
「少し、風にあたるか」
僕は弓を軽く手に取り、静かに部屋のドアを開けて宿の屋上テラスへと向かった。
屋上テラスに出ると、夜空に浮かぶ満月がいつも以上に大きく見えた。
遠くに見える王都の防壁の向こう側、漆黒のシルエットとなって広がる東の地平線。
あそこに、明日僕たちが挑む未開の巨木群——『黒翠の大樹海』が眠っている。
「……蓮さん?」
テラスの縁に立ち、夜風に吹かれていた僕の背中に、鈴の音のように透き通った声が届いた。
振り返ると、そこには薄い月光を浴びて佇むシルフの姿があった。
風にそよぐ美しい金銀の髪と、深い森を思わせる翡翠色の瞳。
月明かりに照らされた彼女の姿は、まるで夜の精霊が降臨したかのように幻想的で、思わず息をのんでしまうほど綺麗だった。
「シルフ……まだ起きてたのか」
「はい。明日の遠征用のポーション類の仕分けがちょうど終わったところです。……蓮さんも、明日の準備ですか?」
シルフは静かな足取りで僕の隣へと歩み寄り、テラスの手すりにそっと華奢な手を重ねた。
「あぁ。矢のチェックをしてたら、なんだか月が綺麗だったから」
「ふふ、本当ですね。……王都の夜は、こんなにも静かで優しいのですね」
シルフは街の灯りを見つめながら、柔らかく目を細めた。
シルフと出会った頃の出来事が、僕の頭の中に鮮やかによみがえってくる。
僕がこの異世界に召喚され、低スキル『ボム・プチ』しか持たない役立たずとして路頭に迷いかけていた時。
最初に僕の弓の「理」と構えを見て、その可能性を信じてくれたのがシルフだった。
「……シルフ」
「はい?」
「ずっと言えてなかったんだけど……僕を信じてくれて、ありがとう」
僕が素直な気持ちを口にすると、シルフは少し驚いたように翡翠色の瞳を丸くした。
「最初の頃、僕の持ってるスキルは『ボム・プチ』っていう、誰も見向きもしない生活魔法レベルのものだった。それなのにシルフは、僕の弓の所作や、物理ハックの理屈を一度も笑わずに、まっすぐ受け止めてくれただろ?」
僕が言うと、シルフはふっと胸を温めるような、優しく気品のある笑みを浮かべた。
「お礼を言うのは、私の方です、蓮さん」
シルフは振り返り、僕の目をじっと見つめてきた。
その瞳には、揺るぎない深い信頼と、温かな情愛が宿っていた。
「私が蓮さんを信じたのは、ただの直感ではありませんでした。……蓮さんが弓を構えた時の、あの澄み切った呼吸と一切の無駄がない美しい立ち姿。そして、どんな境遇でも愚痴をこぼさず、理を解き明かそうとするまっすぐな瞳を見た時……私の心が、強く揺さぶられたのです」
「シルフ……」
「私の『極冷』の魔法は、周囲の熱を奪い、全てを固定してしまう静寂の力です。……以前の私は、この冷たすぎる力を少し恐れていました。けれど、蓮さんは違いました」
シルフは自分の胸元に両手をそっと重ねる。
「私の極冷を『分子の熱運動をフリーズさせる最高のサポート』だと讃えてくれて、蓮さんの矢の方程式の中に、対等な最高のパーツとして組み込んでくれました。……蓮さんと出会えたからこそ、私は自分の魔法を心から誇れるようになったのです」
夜風がふわりと吹き抜け、シルフの長い髪を揺らす。
「だから……私にとっても、蓮さんは特別な存在です。私の氷がどれほど冷たくとも、蓮さんの射抜く一射と温かなお心があれば、私はどこまででも一緒に歩んでいけます」
おっとりとした丁寧な口調の中に込められた、偽りのない深い想い。
昨日の夕暮れ、ウィネットが見せてくれた元気で照れ屋な情熱とはまた違う、静かで、けれど深く胸の奥へと沁み通るようなシルフの温もり。
ウィネットの『風』が僕の射路を切り拓いてくれる相棒なら、シルフの『氷』は僕の立ち位置を強固に支えてくれる相棒だ。
どちらが上でも下でもない。
ふたりとも、僕にとってかけがえのない、命を預け合える対等で大切なパートナーだった。
「……ありがとう、シルフ。シルフが僕の氷でいてくれるから、僕はどんな強敵が相手でも、迷わずに『会』に至ることができるんだ」
僕が真っ直ぐ見つめ返すと、シルフの白い頬が、月光の下でほんのりと桜色に染まった。
「……はい! 私の極冷は、永遠に蓮さんのためにあります」
シルフは嬉しそうに微笑み、静かに僕の隣で夜空を見上げた。
言葉はなくとも、二人を包む空気は、これまでにないほど深く温かな絆で満たされていた。
「ちょっとー! ふたりでなにカッコつけて月見てるのさー!」
静かな余韻を破るように、テラスのドアが勢いよく開き、ウィネットが元気よく跳び出してきた。
「あ、ウィネットさん。起きてたんだ」
「起きてたよ! っていうか、ふたりで抜け出すなんてズルいじゃん! あたしも混ぜてよ!」
ウィネットはぷくーっと頬を膨らませて僕とシルフの間に割り込むと、僕の腕とシルフの腕を両方ぎゅっと抱え込んだ。
「ふふ、ウィネットさん。明日は早いのですから、しっかり休まないとダメですよ?」
「シルフこそ、蓮さんとふたりきりで良い雰囲気になろうとしてたでしょ〜! あたしも蓮さんの隣は譲らないんだからね!」
「あら、私はただ明日の星回りを見ていただけですよ?」
「絶対ウソだぁ〜!」
ウィネットの軽快なツッコミに、シルフがくすくすとお上品に笑う。
二人の賑やかで温かなやり取りを見ていると、明日からの厳しい戦いへの不安なんて、吹き飛んでしまうようだった。
「よし……行こう。僕たち三人で、『黒翠の大樹海』へ」
僕が力強く呟くと、ウィネットとシルフは互いに顔を見合わせ、満面の笑みで頷いた。
「「うんっ!!」」
月光が照らすテラスの上で、僕たちの絆は完全にひとつになった。
翌朝。
朝陽が王都の街道を黄金色に染め上げる中、僕たち三人はAランクの証である銀のプレートを胸に輝かせ、東の城門へと向かっていた。
「蓮さん、見てください! 街の人たちが……」
シルフが声を潜めて指さす。
城門へと続く大通り沿いには、早朝にもかかわらず多くの冒険者や町の人々が集まっていた。
「おい、見たか……! あの三人が、佐藤の化け物を倒してAランクになった『物理ハックの射手』ご一行だぞ!」
「低スキル『ボム・プチ』と弓で、あの寄生核を撃ち砕いたんだろ? すげぇよ……!」
「気をつけてな、Aランク様! 応援してるぞー!」
人々から送られる温かい歓声と拍手。
かつて「役立たず」と蔑まれ、ギルドの片隅で途方に暮れていた僕たちが、今では王都の希望として見送られている。
「へへっ、なんだか照れちゃうね!」
ウィネットが恥ずかしそうに鼻の頭をかきながらも、誇らしげに胸を張る。
「みんなの期待に応えるためにも、まずは『黒翠ダンジョン』の異常を解明して、異形化の波を食い止めよう」
「はい! 私の極冷で、いかなる異形も逃しません!」
「あたしの風で、どんな死角の敵も逃がさないよ!」
城門をくぐり抜けると、目の前にはどこまでも続く緑の街道と、その先に佇む広大な樹海の影が見えてきた。
弓を肩に担ぎ直し、手に伝わる竹の質感と弦の張りを確認する。
僕の弓と物理ハック。
ウィネットの切り開く風。
シルフの凍てつかせる氷。
三人の絆を結集した新たなる方程式を胸に、僕たちは迷うことなく、未知なる大樹海へと一歩を踏み出した。




