第72話:黒翠の予兆
王都の東方に広がる未開地——『黒翠の大樹海』。
樹齢数千年の巨木が鬱蒼と生い茂り、日光すら遮られるその広大な緑の領域は、古代の魔力が濃密に留まる天然の要塞として知られている。
そして、その樹海の最深部に口を開ける『黒翠ダンジョン』。
「よし……遠征に必要な『魔導ランタン』と『高純度ポーション』、それに解毒薬の補充は完了したよ!」
バログの工房の作業台で、ウィネットが大きな革袋の口をぎゅっと結びながら声を弾ませた。
「ありがとう、ウィネット。シルフが用意してくれた『極冷保冷袋』もあるから、樹海特有の熱帯毒虫や腐敗ガスへの対策も完璧だ」
僕が応えると、工房の奥で大槌を振るっていたバログが、汗を拭いながら重々しい足取りで近づいてきた。
「おい小僧……ギルドから話は聞いたぞ。『黒翠ダンジョン』で、あの『佐藤』と同じ異形化(黒い結晶化)が発生したってのは本当か?」
バログの険しい表情に、工房内の空気がキュッと引き締まる。
「はい。ギルドの先遣スカウト部隊からの報告だと、ダンジョン内部の魔物が黒紫色の結晶を纏い、凶暴化しているそうです。……佐藤の首筋にあった『寄生核』と同じ性質の魔力波動が検出されていると」
僕が答えると、バログは腕を組み、深々と溜め息を吐いた。
「チッ……気味の悪い野郎だ。あいつ自身は拘留されたってのに、その元凶の魔王だか何だかの置き土産が、世界のあちこちで目を覚まし始めてるってわけか」
バログはゴツゴツとした太い指で、作業台の上に置かれた僕の矢筒——そしてその中に収められた『新・風切三羽矢』と22本の『汎用超貫通鋼鏃』を差した。
「だがな、蓮。相手が樹海や大ダンジョンとなると、今までの『鉱山』や『平原』の戦いとはワケが違ってくるぞ」
「……環境の違い、ですか?」
「そうだ。樹海やダンジョン内部は、巨大な木々や不規則な岩壁が入り組んだ『視界と射線が極端に制限される空間』だ。お前の弓と超貫通矢は直撃すれば山すら穿つが、障害物だらけの密集地帯じゃ、どれだけまっすぐ飛ばす技術があっても『直線』が見えなきゃ射てねぇだろ?」
バログの指摘は、極めて鋭かった。
これまでの戦いでは、広野や一直線の坑道という「矢筋を通しやすい環境」が多かった。
だが、入り組んだ樹海やダンジョンの迷宮構造では、敵が巨木の陰や壁の曲がり角から奇襲を仕掛けてくる可能性が高い。直線的な物理穿透だけでは、射程や威力を生かし切れない場面が出てくる。
「……うん、バログさんの言う通りだ。直線で狙えない相手に対して、どうやって物理ハックの『和弓の理』を届かせるか……それが次の課題だね」
「何か考えがあるのですか、蓮さん?」
シルフが興味深く目を輝かせて尋ねてくる。
僕が背中の矢筒から、一本の『汎用超貫通矢』を引き抜いた。
「弓を引く時の方法として『曲射』というものがある。障害物を飛び越えて高高度から放物線を描いて落とす技術だ。……でも、ダンジョン内部のような狭い空間で天井がある場合、通常の放物線じゃ天井に激突してしまう」
「じゃあ……どうするの?」
ウィネットが首をかしげる。
「流体力学と『ボム・プチ』の応用だよ。矢の側面に、微小な爆縮を仕込んで『側方推進力』を生み出すんだ」
「側方推進力……!?」
シルフが息をのむ。
「そう。直線に放たれた矢が、障害物の手前に差し掛かった瞬間、側面のボム・プチを連続爆縮させる。それによって、矢の進行方向に急速な『横向きの力』を与え、超高速回転を維持したまま、角度90度の直角コーナーやS字カーブを流体運動として曲がり切らせるんだ」
「直角コーナーを……曲がる矢……!?」
バログが口を盃のように大きく開けて固まった。
「普通の矢なら、飛行中に横からの衝撃を受けたら軸がブレて失速・落下する。でも、重甲亀の極高密度鏃と、らせん溝による『ジャイロ効果』があれば、回転の慣性モーメントによって軸のブレは最小限に抑えられる。……そこにウィネットの『誘導風脈』を重ねれば、曲がり角の先(見えない死角)に潜む敵へ、超運動エネルギーを殺さずに突貫させられる」
「す、すごーいっ!! それ、あたしの風で曲がり角の先まで風のレールを敷けば、壁の裏にいる敵もドカンって撃ち抜けるってことじゃんか!!」
ウィネットが目を輝かせて跳び上がった。
「ああ。シルフの極冷で死角の敵の動体反応を凍結固定し、ウィネットの風で曲導バレルを作り、僕の『側方ボム・プチ』で直角旋回させる。……これが、大樹海とダンジョン攻略のための『曲導超貫通射撃』の方程式だ」
「ハ……ハハッ! お前という奴は……!!」
バログが腹を抱えて大笑いし始めた。
「曲がる矢だと!? 弓の理屈と流体力学をそんな風に悪用……いや、応用する奴がどこにいる!! 面白すぎるぞ小僧!! よし、その側方爆縮の衝撃に耐えられるよう、予備矢の竹軸の節部分を特殊な高密度金属リングで補強してやる!!」
「ありがとうございます、バログさん!」
夕方、補強を終えた新装備を携え、僕たちはバログの工房を後にした。
明日はいよいよ、王都の東門から『黒翠の大樹海』へ向けて出立する日だ。
宿へ向かう道中、夕暮れの涼しい風が街道を吹き抜けていく。
「蓮さん……新しい『曲導射撃』の理論、本当に素晴らしい発想ですね。これなら、どんな不気味なダンジョンでも迷わず進めます」
シルフが歩幅を合わせながら、柔らかく微笑んだ。
「うん。でも、シルフの温度感知や極冷のフリーズ、それにウィネットの風の誘導がないと成立しない方程式だからね。二人の協力があってこそだよ」
「へへっ、任せてよ! あたしの風は、蓮さんの矢がどこへ向かおうと、絶対に途切れさせないんだから!」
ウィネットが自信満々に胸を張り、ちらりと僕の顔を見上げて、少しだけ頬を赤らめた。
昨日、夕暮れの小路で交わした言葉。
『あたしの風は、絶対に追いついて、ずっと一番近くで横を走ってやるんだから』
あの一言以来、ウィネットの笑顔にはどこか吹っ切れたような明るさと、僕に向けられる温かな甘さが混ざり合うようになっていた。
(Aランク冒険者としての初仕事……そして、世界に広がり始めたヴァルザードの影)
決して楽な道ではない。
佐藤のように、過剰な力に呑まれた者や、異形の魔物が僕たちの前に立ちはだかるだろう。
けれど、僕の手には日本の弓道で磨き抜いた「和弓」と「物理ハック」がある。
そして何より、互いに信頼し合い、絆を深めた最高の仲間たちがいる。
「行こう、明日……『黒翠の大樹海』へ!」
「「はいっ!!」」
ふたりの力強い返事が、夕暮れの王都の空に心地よく響き渡った。




