第74話:黒翠の門前と、蠢く結晶
王都の東門を出て街道を歩むこと、丸一日。
街道沿いの平原は次第に姿を消し、僕たちの視界は天を突くほどの巨木群によって塗りつぶされていった。
『黒翠の大樹海』
樹齢数千年を超える巨木の幹は、大人が十数人で手をつないでも抱えきれないほど太く、その頭上を覆い尽くす鬱蒼とした枝葉は、地上へと降り注ぐ日光をほとんど遮り、昼間だというのに薄暗い緑の黄昏を作り出している。
「ここが……黒翠の大樹海……」
街道が途切れ、巨大な根が張り巡らされた樹海の入口で、僕は立ち止まって息をのんだ。
空気の質感が、王都のそれとはまるで異なっている。
湿り気を帯びた土と草木の匂いに混ざり、どこかピリピリとした高密度の「自然魔力」が肌を刺すような感覚。
「すごいマナの濃度……。王都周辺のダンジョンとは、根本的に環境の規模が違いますね」
シルフが慎重な足取りで僕の隣に並び、周囲の巨木群を見上げる。
「うん。でも、シルフの保冷袋と解毒薬品があるから、樹海特有の毒胞子や湿気はしっかりカットできてるよ。本当に助かる」
「ありがとう、ウィネット。シルフが用意してくれた『極冷保冷袋』もあるから、樹海特有の熱帯毒虫や腐敗ガスへの対策も完璧だね」
「へへっ、任せてよ! あたしの風で、変な胞子や毒気が近づいてきたら一気に吹き飛ばしてあげるからさ!」
ウィネットが頼もしく胸を叩き、背中の風導短剣の柄に手を置いた。
三人で頷き合い、僕たちは巨木の根が階段状に波打つ樹海の内部へと足を踏み入れた。
樹海内部の視界は極めて悪かった。
不規則にうねる巨大な根、折れて積み重なった倒木、そして何より視界を遮る高濃度の霧と鬱蒼とした茂み。
直線距離にしてわずか数十メートル先すら、木の陰になってしまい見通すことができない。
まさにバログさんが危惧していた通りの「射線が通らない環境」だった。
「蓮さん、足元と頭上に気を付けてくださいね。この樹海に生息する魔獣は、樹上や根の隙間から立体的な奇襲を仕掛けてくる傾向があります」
「了解。ウィネット、風の索敵はどう?」
「う〜ん……微風を張り巡らせて反応を探ってるんだけど……なんか嫌な感じ」
ウィネットが少し眉をひそめ、耳を澄ますように風の感触に集中した。
「嫌な感じ……?」
「うん。普通の魔獣の気配じゃなくて……なんていうか、ザラザラした冷たいノイズみたいな気配が、この先の空間全体に充満してるの。……それも、かなり近いよ!」
『シュササササササッ……!』
ウィネットの言葉が終わるとほぼ同時、上空の巨大な枝の影から、不気味な擦れ合いの音が響いた。
「上です……ッ!」
シルフの叫びと同時に、僕たちは一瞬で後方へと躍り出た。
直後、僕たちが立っていた根の表面に、ドスンと重い衝撃とともに「それ」が舞い降りた。
「ガァァァァァァッ……!!」
姿を現したのは、体長3メートルを超える巨躯を誇る大蜘蛛——『フォレスト・スパイダー』。
だが、その姿は僕たちが知る通常の魔獣とは明らかに異なっていた。
漆黒の甲殻の表面には、まるで病菌のように黒紫色の怪しい結晶がびっしりとへばりつき、不気味な脈動を繰り返している。
その八本の単眼は赤く濁り、口開けた顎からは粘着性の糸ではなく、黒い腐蝕性の液が滴り落ちていた。
「あの結晶……! 間違いない、黒銀鉱山で佐藤が纏っていた『寄生核』と同質の魔力波動です……!」
シルフが氷の杖を構え、表情を緊迫させる。
「樹海の魔獣にまで、寄生核の侵食が広がってるのか……!」
『ガルルルァァァッ!!』
異形化した大蜘蛛は、咆哮とともに一直線に襲いかかってはこなかった。
なんと側面の巨木の幹へと跳躍し、密集した枝葉の陰へと姿を消したのだ。
「消えた……!? 木の陰に隠れて、上から狙うつもりか!」
ウィネットが風を上空へ放ち、索敵を試みる。
「ダメっ、枝葉が多すぎて風が乱れる! 姿は見えないけど、あたしたちの真上……ううん、木の裏側を高速で移動してる!!」
直線上の死角。
樹木の幹と密生した葉が完全な壁となり、僕の直線射撃を完璧に防ぐ配置。
普通の射手なら、敵が姿を現す瞬間のコンマ数秒の隙を狙うか、接近戦を余儀なくされる局面だ。
(だが——今の僕たちには、新しい『方程式』がある!)
僕は落ち着いて弓を押し立て、左足を一歩踏み出して『足踏み』を決めた。
「ウィネット! 敵の正確な位置と、木の裏側を通る『風の道』を!」
「了解っ! 幹の裏側、右へ曲がって90度の地点! 風の道、敷いたよっ!!」
ウィネットが放った風のバレルが、直線ではなく、巨木の幹の側面に沿って綺麗なカーブを描いて角の向こう側へと伸びていく。
「シルフ! 敵の足止めを!」
「はいっ! 幹の裏側の空間全体へ——『絶対極冷・局所固定』!!」
シルフが杖を振るうと、幹の死角にある空間全体の熱運動が一瞬で奪われ、異形大蜘蛛の動きが氷の微粒子によってコンマ数秒、ピキリとフリーズした。
相手が死角で停止したその一瞬。
僕は背中の矢筒から、バログさんが竹軸を補強してくれた『新・汎用超貫通矢』を引き抜き、弦へと番えた。
『引き分け』から、静かに『会』へと至る。
狙うは、目の前にある巨木の幹……ではない。
その幹のわずか数センチ横、ウィネットが作り出した風のバレルが渦巻く空道だ。
(矢の超回転によるジャイロ効果を維持……角度90度の直角カーブの手前で、節の側方爆縮を作動させる……!)
全神経を研ぎ澄まし、弓手で標的の位相を捕らえる。
離れ——!
『チュドバァァァァンッ!!』
放たれた超貫通矢は、毎秒数万回転という凄まじいジャイロ回転を伴って滑空。
そして巨木の幹の側面に差し掛かった瞬間——
『スパァンッ!!』
矢軸の節部分に仕込まれた『ボム・プチ』が、側方に向けて指向性の微爆縮を起こした!
横方向への衝撃を受けた矢は、失速することも軸をぶらすこともなく、超高周波のドリル回転を保ったまま、まるで生き物のように物理法則を無視して直角に90度旋回した。
ウィネットの風のレールに乗り、幹の裏側(死角)へと吸い込まれていった。
「ガ……ッ!?」
木の陰でフリーズしていた異形大蜘蛛が、死角から突如として襲いかかってきた超運動エネルギーの弾丸に気づいた時には、すでに遅かった。
『ドズガァァァァァンッ!!!!』
直角に折れ曲がって突入した超貫通矢は、大蜘蛛の胸元にへばりついていた『黒紫の結晶』の真芯を完璧に貫通。
回転の衝撃波と微爆縮の伝播により、結晶は一瞬で粉砕・消滅し、そのまま大蜘蛛の巨躯を吹き飛ばして背後の岩盤へと深々と突き刺さった。
「カハッ…………っ」
黒い結晶を砕かれた大蜘蛛は、異形化の魔力を失って力なく地面へと転がり落ち、やがて動かなくなった。
巨木の死角に潜む敵を、障害物を迂回して仕留める神業——『曲導超貫通射撃』の完全な実証だった。
「や……やったぁぁぁぁっ!! 本当に曲がった! 直角に曲がって壁の裏の敵を打ち砕いたよ、蓮さんっ!!」
ウィネットが躍り上がって歓声をあげ、僕の手にハイタッチを求めてきた。
「すごい……! 物理ハックとボム・プチの側方推進力、そしてウィネットさんの風と私の極冷が、完璧に噛み合いましたね……!」
シルフも感極まったように口元を押さえ、翡翠色の瞳を輝かせる。
「うん……二人のおかげだよ。これで、樹海やダンジョンみたいな視界の悪い場所でも、僕たちの理は届く」
僕は手応えを感じながら弓を静かに倒した。
だが、喜びも束の間。
倒れた大蜘蛛の体から、黒紫色の不気味な煙が立ち昇り、樹海の奥へと向かってゆっくりと流れていくのが見えた。
「これは……?」
「魔力の引き潮……。ダンジョン深部から、あの結晶の魔力が引き寄せられているようです」
シルフが表情を引き締め、樹海のさらに深く——黒翠ダンジョンの洞窟口がある方向を指さした。
「行こう。この異形化の源流を突き止めて、今度こそ完全に断ち切るために」
僕たち三人は黒い煙の行く末を追い、樹海の最深部へと足を進めた。




