第48話:黒き影の甘い誘惑
「だ、誰だ……!?」
佐藤は弾かれたように立ち上がり、腰の短い杖を構えた。だが、体中の全細胞が「それ」に向かって強い恐怖の警告を発していた。
膝がカチカチと音を立てて震える。
部屋の隅に生まれた漆黒の空間。
そこから現れたのは、人間でも魔獣でもない、揺らめく影のような存在だった。頭部には赤く輝く二本の角のような光が灯っている。
「恐怖する必要はない、哀れな異界の子供よ。我は魔王ヴァルザード。この世界の理を破り、新たなる秩序を打ち立てる者だ」
影——魔王ヴァルザードの分身は、低く、頭の奥に直接響くような音色で囁いた。
「ま、魔王……!? なんで王都の安宿に魔王が……!」
「お前のような『世界の歪み』に惹かれてやってきたのだよ。世界の神に選ばれながら、周囲の愚者どもに理解されず、落ちこぼれとして扱われる気分はどうだ? 悔しいだろう。許せないだろう」
「っ……!」
ヴァルザードの言葉は、佐藤が最も触れられたくない傷口を正確に抉り取った。
「お前には才能がある。世界を焦がす強力な魔術の芽を持っている。だが、この王都の愚か者どもはお前の真の価値を理解できず、小手先の器用さしか持たぬ弓手の男ばかりを持ち上げている……不条理だとは思わんか?」
「そうだ……! 俺は悪くない! あいつらが、あの蓮の野郎が俺の邪魔をしてるんだ!」
佐藤の瞳に、不穏な濁った光が宿る。
ヴァルザードの影は、満足そうにゆらりと揺れた。
「ならば、我の手に乗るが良い。我の傘下に入れ。お前に、あの小賢しい弓手も、お前を馬鹿にした愚民どもも一瞬でひれ伏せさせる『絶対的な力』を与えてやろう」
「力……俺に、絶対的な力を……?」
佐藤の心が大きく揺れ動いた。
(魔王側に就く……? そんなことしたら、俺は人間を裏切ることになるんじゃないのか? 元の世界の倫理はどうなる? 俺は……悪党になるのか……?)
脳裏に一瞬、元の世界の平和な日常や、同級生たちの顔が浮かぶ。
だが、次の瞬間、それらを全て塗り潰したのは、ギルドで自分を鼻で笑った冒険者たちの顔と、Bランクとなってシルフやウィネットと共に誇らしく歩く蓮の姿だった。
(嫌だ……! このまま『無能なチート持ち』として蓮の下に甘んじるなんて絶対嫌だ! 俺が主人公なんだ! 俺が一番じゃなきゃ意味がないんだよ!)
佐藤の中で、葛藤は一瞬にして消え去った。
手軽に得られる力への欲望と、蓮に対する歪んだプライドが、元の世界の倫理観を完全に食い尽くしていた。
「……くれるのか? 俺を……最強にしてくれるのか……!?」
「ククク……ああ、約束しよう。お前の望む全てを叶えてやる」
漆黒の影が、滑らかな手のような形を模して差し出された。
佐藤は震える手で、自らの意思でその不気味な影の手を強く握り返した。
「よし、契約は成り立った。……受け取るがいい、我の祝福を」
ヴァルザードの影が蠢き、佐藤の背後へと回り込む。
そして、抵抗する隙を与える間もなく、鋭い影の棘が佐藤の首元へと突き刺さった。




