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第五章:ピース・オブ・ケイク⑤

 まだ眠りにつくことなく、きらきらと光る街並み。遥か下の道路を走っていく車のライトの波。もう日付が変わったというのに、昨日を終わることを許されない、LEDライトで白く照らされたオフィスビルの窓々。ベッドの前に設られた壁掛けのテレビからはニュース番組が垂れ流されていて、もう夜も遅いことを知らせていた。

 貴成(たかなり)は窓辺のキャメルの革張りのロッキングチェアでタブレットを眺めていた。彼は洋梨の香りがするスコッチの入ったグラスを傾けながら、各部署から上がってきている報告資料に目を通していた。

 貴成は香椎製薬の現社長である。自ら支社に赴かなければならない案件があり、彼は本社のある東京から大阪を訪れていた。

 支社での用件を片付けた貴成は、梅田に宿を手配し、夕飯を済ませた後に残りの仕事をしていた。

 本社の営業部から上がってきていた資料に貴成が視線を走らせていると、こんこん、と外側から扉が控えめにノックされる音が響いた。

「夜分遅くに申し訳ありません。社長、少々お時間よろしいでしょうか」

 ドア越しに聞こえてきたのは秘書の咲間(さくま)の声だった。彼には別室でもう休むように伝えたはずだというのに一体どうしたというのだろう。いつも冷静なはずの彼の声からはどことなく切迫したものが感じられ、貴成は訝しく思いながらも入室の許可を出す。

「構わない。入りなさい」

 失礼します、と扉が開き、スーツに身を包んだ三十代後半の男が部屋の中に入ってきた。いかなるときも涼やかな余裕を崩さないはずのその顔には、戸惑いがほのかに滲んでいて、貴成は内心で身構える。

「咲間くん、こんな時間に一体どうした」

「社長。先ほど東京から連絡がありまして、大雅様のことで少々お耳に入れておきたいこが」

 息子の名前が咲間の口から発され、貴成は眉を顰めた。これは確実に悪い知らせだ。

「大雅がどうかしたのか? 山中湖でサークルの合宿をしたいというから、会社のバスを手配して、保養所を開放してやったはずだが」

「それが……どうにも、大雅様とご学友の皆様は山中湖にはいらっしゃっておられないようなのです」

「山中湖にいない? なら大雅はどこへ行ったというんだ?」

「長野の研究所です」

 一体どういうことだ、と貴成は咲間に続きを話すように促すと、スコッチを軽く口に含んだ。

 長野には、世界中を席巻しているrotten-32の治療薬やワクチンを研究している香椎製薬の施設がある。一体、大雅は何の目的であのような山奥を訪れたというのだろう。

「このようなものは社長にはあまりお見せしたくなかったのですが」

 そう言うと、咲間は目の前のカーテンを閉める。彼は手元のスマートウォッチを操作すると、サイバートレンド速報というニュースサイトの記事をカーテンへと映し出した。

『咬まれれば終わり! ゾンビ蔓延る施設での生き残りをかけたデスゲーム!』などという見出しが貴成の目に飛び込んでくる。センセーショナルな書き出しの後に連なる文面に、貴成は思わず口の中のスコッチを吹き出した。

「長野に常駐していた第三開発部の者たちはどうした! それにバスの運転を任せていた篠塚は何をしていたんだ!?」

 所属しているサークルのメンバーを大雅がガスで眠らせて拉致し、長野の研究所に監禁している。それだけでは飽き足らず、臨床試験の被検体としてこっそり輸入していたゾンビを檻から出し、サークルのメンバーをゾンビたちと戦わせているのだとか。更にはサークルメンバーたちにその様子をライブ配信させて、ポイントを競わせているのだという。

 咲間はスーツのポケットからきっちりとアイロンのかけられたネイビーのウィンドペーンのハンカチを取り出しながら、

「その、申し上げにくいのですが……皆、大雅様のポケットマネーで丸め込まれたようでして……。あとは、社内での昇進を持ちかけられた者もいたとか……」

 咲間から渡されたハンカチで口元を拭うと、貴成は深々と溜息を吐いた。大雅といい、うちの社員といい一体何をやっているんだ。今後のことを考えると、胃と頭が痛くなりそうだった。

「社長。この件、どういたしましょうか」

 咲間は貴成の意向を問うた。そうだな、と片手で頭を押さえながら貴成は口を開く。大雅に丸め込まれた社員たちの処分は必要だが、今しなければならないのはそれではない。あの馬鹿息子の愚行を止めるのが最優先だ。

「支社に連絡して、早急にヘリの準備をさせなさい。これから長野に急行する」

「承知いたしました。支社にはそのようにお伝えしておきます。支社に向かう車を五分後に用意しておきますので、社長の支度が整い次第、下のエントランスにいらしてください」

 わかった、と頷くと貴成はスコッチのグラスとタブレットをローテーブルの上に置き、椅子から立ち上がる。バスローブの腰紐を解き、貴成が着替え始めると、「社長。それでは後ほど」咲間は一礼して部屋を出ていった。

 今後のことを考えると頭が痛い。奔放な息子が何かをやらかしたときのために、多額の寄付をしている才華学園(さいかがくえん)に初等部からずっと通わせてきたが、これだけのことをしでかしてくれたからには自分の力を持ってしても揉み消しきることはままならないだろう。卒業後は香椎製薬に役員として迎え入れる予定であったが、さすがにそれも考え直さなければならないだろう。

 大雅の暴走を止めるまで、自分の一日は終わらない。貴成はスーツに着替え、先ほどまで見ていたタブレットをバッグに突っ込むと足早に部屋を出た。

 シャンデリアの光を受けて、グラスの中の球状の氷と飲み残された琥珀色の液体が煌めきを放っていた。


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