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第一章:エキサイティング・サマー③

 停車中換気がなされていたにもかかわらず、バスの中にはアルコールとイカの干物のような匂いが充満していた。俺たちがバスに戻ると、「一、ニ……よーし、大体いるなー! いない奴は返事しろー!」大雅によってなおざりな点呼が行なわれた。いない奴が返事をする訳がないし、そもそもいない奴がいたところで大雅は平気で置いていくのだろう。

 大雅の適当すぎる確認に疑問を口にするものはなく、バスは談合坂を出発した。

 サービスエリアを出発して十五分近くが過ぎた。バスの停車中に更にエアコンの設定温度が下げられたらしい車内が肌寒く、俺はバランスを崩さないように気をつけながら席から立ち上がった。

 完全に酔っ払い仕様の温度設定に、先ほどバスの中が寒いと言っていた結愛のことを俺は不憫に思った。自分で何か防寒対策をしてくれているといいんだけれど。

 俺は網棚を弄って、黒い長袖のパーカーを引っ張り出した。パーカーに袖を通し、席に座り直そうとしたとき、隣の席の柊夜が声を上げた。

「……あれ?」

「柊夜、どうかした?」

「いや……」

 言葉を濁しはしてはいるものの、柊夜の眼鏡の奥の目は訝しげだ。言うべきか言わないべきか少しの間、柊夜は逡巡していた。しかし、疑問を一人で抱えたままにしておきたくなかったのか柊夜は口を開いた。

「蒼生。僕たちの合宿の行き先って山中湖でいいんだよな?」

「そうだと思うけど……大雅先輩がそう言ってたじゃん」

 だよね、と柊夜は小さく呟く。彼の眉間に皺が寄せられていく。

「で、それがどうかしたの?」

 俺は氷が溶けかけたアイスコーヒーを啜りながら、柊夜へと聞く。柊夜は周囲が騒がしくしていて、自分たちに注意を向けていないことを確認すると、俺にだけ聞こえる声で言った。

「まだ、ちょっと気になるっていうだけなんだけど。車運転しない蒼生にはわからないかもしれないけど、さっき、大月ジャンクションを通過したときこのバスは山中湖方面じゃなく、甲府方面に進んだんだ。運転手さんも特に慌てた感じもないから、道を間違えたってわけでもないんだろうし、何か変だなって」

「へえ」

 よくわからないまま、俺は柊夜の話に相槌を打つ。背後の席では先輩たちがロシアン信玄餅なるもので大盛り上がりしている。一体何なんだロシアン信玄餅って。謎すぎる。

 バスは走り続け、一時間半以上が経った。酔っ払っている先輩たちは特に気にも留めていないようだが、小仏トンネルから先、一切渋滞などしていないにもかかわらず、一向に目的地に着く様子がない。事前に大雅から説明されていた到着時間を三十分は優に過ぎていた。

 このころになると、柊夜の言う通り、俺も確かに何かがおかしいと思い始めていた。つい先ほど窓から見えた大きな湖が山中湖なのではないかとわずかに希望を抱きはしたものの、柊夜いわくあれは山中湖ではなく諏訪湖なのだという。

 諏訪湖を通り過ぎて間もなくバスは岡谷ジャンクションへと差し掛かった。バスは迷うことなく左の車線へと逸れ、長野道へと進んでいった。

「……やっぱり何かが変だ。おかしいよ」

「……そうだね」

 今度は俺も柊夜の言葉をはっきりと肯定した。道中、途中までは近づいてきていた富士山が、今は少しずつ小さくなってきている。

 柊夜はスマートウォッチの画面を操作し、前の座席の背に地図を投影する。光の地図に柊夜は指先で触れながら、

「山中湖がここ。それで、この諏訪湖を過ぎたあたりの赤い点が今僕たちのいるところだ。このまま行けば、じきに松本の方に着くけれど、このバスは一体どこに向かっているんだろう?」

 さあ、と俺は首を傾げる。このバスの運転手でもなければ、大雅でもない俺には答えがわからない。不安に片頬を引き攣らせながらも、俺は柊夜のネイビーストライプのシャツの肩を叩く。

「心配したって仕方ないじゃん。大雅先輩言ってたじゃん、思い出に残る刺激的な夏にしようとかなんとかって。先輩のことだから、案外、山に行くと見せかけて海に来ちゃいましたー! くらいのサプライズは用意してるかも」

「そんな話ならいいんだけどね……」

 楽観的な俺の言葉に、物憂げな表情を崩さないまま柊夜は光の地図を指先で繰り、長野県北部の地図を表示させる。このまま進めば更埴から上信越道へと入ってしまうが、いったいどこへ連れて行かれてしまうのだろうと柊夜は頭を悩ませた。

 それからもバスは四十五分ほど長野道を進み続けた。左右は似たような山ばかりで景色に変化はない。

 梓川サービスエリアまで残り五百メートルという標識が見えると、バスは一番左側へと車線を移した。みるみるうちにサービスエリアの入り口の分岐が近づいてくる。

「柊夜、サービスエリアだってさ。休憩かな?」

 どうだろ、と言った柊夜の声には覇気がなかった。眼鏡の奥の双眸は不安そうに揺れている。

「そんなに気になるなら、休憩の間に大雅先輩に聞いてみたらいいじゃん。本当はどこ向かってるんですかーって」

「そんなふうに聞いて、大雅先輩が教えてくれると思う?」

「……」

 まあまあ細かいこと気にすんなって、着いてからのお楽しみってやつだよ。ウィンク付きでそう返してくる大雅の姿がありありと想像できる。

「まあ……ほら、柊夜。せっかく長野のナントカ川とかいう知らないところまで来てるんだから、休憩中SAグルメでも楽しもうよ」

「うーん……僕はそんな気分でもないかな。梓川はそばだのラーメンだのばっかりだから、食後の今にはちょっと重いし」

「その割にしっかり何があるのか把握してるのな」

 俺が茶々を入れると、ようやく柊夜は小さく笑った。

「そりゃ僕の趣味はドライブだからね。全国津々浦々、どこのサービスエリアに何があるかは大体把握してるよ」

 バスは分岐を左に進み、梓川サービスエリアへと入っていった。徐行して駐車場の中へ入っていくと、大型車専用のスペースにバスは停車した。

「それじゃ、これから十五分休憩するぞー! これが最後の休憩になるから、ちゃんとトイレ行っとけよー」

 そう言って背後を振り返った大雅の顔は、全体が黒いガスマスクで覆われていた。アクション映画かサバゲーのショップでしかあんなもの見たことがない。しかし、大雅はあんなものを被って一体どうしたというのだろうか。

「――まあ、そうは言っても行かせねえんだけどな」

 やれ、とくぐもった声で大雅は運転手へと指示を出す。ルームミラー越しに見える運転手の顔にもいつの間にか大雅のものと同じガスマスクが装着されている。

「はい、大雅様。――仰せのままに」

 運転手はメーター類の横にあった赤いボタンを押下する。バス中のエアコンの噴出口から無色透明のガスが勢いよく吹き出した。

「大雅先輩、一体何を……!」

 俺は思わず声を上げたが、車内にガスが充満していくとともに、意識が急速に眠気に塗りつぶされていく。わりぃわりぃと微塵も悪いと思っていなさそうな大雅のくぐもった嘲笑が聴覚にわずかに届いた。

(何か……甘い匂いがする……)

 そんなどうでもいいことを考えたのを最後に俺の視界は暗転した。そうして、俺の意識は押し寄せてくる強烈な眠気に抗うことができずに、闇の中へと沈んでいった。

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