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第四章:スリンキング・キャット⑤

(う、わ……っ、何だ、これっ……!)

 意識を取り戻した俺が真っ先に感じたのはドリアンとくさやの混ざったような悪臭だった。『ゾンビコナーズ』の臭いだと理解すると同時に俺は忌避感で背が粟立つのを感じた。俺の本能がこの臭いを恐れ、拒否している。

 左手首に柔らかいものが当たっているのを感じ、俺はゆっくりと目を開いた。

 シアンブルーの煙の中、結愛が俺の左手の傷から血液を吸い出していた。

「結愛、ちゃん……」

 う、と呻きながら俺は状態を起こした。全身がぎこちなくしか動かないが、まだ俺は俺のままだった。先ほど結愛に殴られた顎がじんじんと痛い。どっかのお笑い芸人みたいに二つに割れたりしてないか、これ。

「奇跡」「蒼生きゅん戻ってきた!」「感染途中で止まることなんてあるのか」視界に飛び込んできた俺の配信画面のコメントの数々から、俺は現在自分が置かれている状況を理解する。

「成瀬くん、身体はどう? ゾンビになりかかってたのが、途中で止まったみたいなんだけど……」

 結愛は口に含んでいた俺の血液を床に吐くと、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。

 床に吐き出されたばかりの俺の血液は、鮮やかな赤色をしていた。先ほどのような腐ったような暗い色ではない。

 手足は土気色になり、蜘蛛の巣上にぱんぱんに腫れ上がった毛細血管が赤く浮き出ている。結愛の大きな目に映る俺の顔は、ぎょろりと眼球が眼窩から飛び出し、頬や額には腕と同様に網目状の模様が浮き出ていた。

 ゾンビ化の進行が止まったからか、今の俺に結愛を襲いたいという欲求はない。しかし、ゾンビが忌避するという『ゾンビコナーズ』の煙の匂いに吐き気が込み上げてきて、胃液を吐き戻しながら、俺はどうやら自分が完全なゾンビとも人間ともつかない何かに成り果てたてしまったらしいことを察した。

「大丈夫?」

 えずいている俺の背中を結愛の手がさすってくれる。彼女には人相が変わり果て、中途半端な異形に成り下がってしまった俺を厭う様子はない。俺を気遣ってくれる細い手は優しく、暖かかった。この熱を感じられることこそが、俺がまだ人として生きているということの証左に他ならなかった。

「だい、じょう……ぶ」

 俺は動作に違和感のある手で口元を押さえる。指が、関節が、俺の意図よりも数秒遅れでしか動かすことができない。俺はくぐもった声で結愛へと質問をする。

「そんなことより……俺は、どのくらい気を失ってた?」

「十分くらいかな。ごめんね、顎痛かったでしょ?」

 結愛は先ほど俺が放り捨てた『イタミトレール・エクストラコールド』のスプレー缶を拾ってくると、俺の顎へと吹きかけた。

 すうっとした気体が俺の飛び出した眼球に直撃し、「うわぁっ」俺は小さく悲鳴を上げた。一拍遅れて、毛細血管が浮き上がった手の甲で目を拭ったが、メントールのすうすう感は消えてはくれない。むしろごしごしと擦ったことで目の奥まで浸透させてしまった感さえある。

「ゆありん、それやっちゃいかんやつw」「蒼生きゅんカワイソスw」俺に同情するコメントが結愛の配信画面に溢れ出し、「ごめぇん」彼女は小さく舌を出して見せる。まだ空元気は残るが、視聴者たちを意識するだけの余裕が彼女に戻ってきたことに俺はほんの少し安堵する。

 ふと、血で汚れたスマートウォッチに目をやると、時刻は間も無く二十四時を回ろうとしていた。いつの間にか配信は途切れ、スマートウォッチ上で起動していたはずのTickingのアプリは落ちてしまっている。

 俺は文字盤の隅に通知のアイコンが光っていることに気づく。汚れた文字盤と指先を申し訳程度にTシャツの裾で拭うと、俺はアイコンをタップする。

「あ……」

 俺がこのゲームから脱落した旨のメッセージが文字盤に表示された。最早人間ではなくなってしまった以上、当然のことだった。

 そのとき、結愛のスマートウォッチが流行りの音楽を奏で始めた。おそらく、大雅による二十四時のランキング発表だろう。結愛はピンクの薔薇と肉球の模様があしらわれた文字盤をタップし、大雅からの着信に応じる。

「グッバイ昨日、やっほー今日! 日付変わったけどみんな頑張ってるう? おねむになっちゃった奴とかいねーよなぁ? こんな時に寝ようもんなら永眠しちまうからなあヒャッハー!」

 結愛の配信画面の横に大雅の映像が映し出される。なぜか大雅の前にはシャンパンタワーが三つも積み上がっている。

「うぇいうぇいうぇいうぇい! なーんかおもしれーことになってんじゃーん? 蒼生きゅーん、ゾンビになっちまったって割には元気そうじゃんー?」

 にやにやとしながら映像の中の大雅はそんなことを宣っている。彼は無造作にシャンパンの瓶を掴み上げると、積み上げたグラスの上からごぼごぼと中身を注ぎながら、

会社(うち)の研究者の連中が見たら、解剖やら解析やらのために欲しがるんだろーなー。蒼生きゅんみてーな症例(ケース)って、俺が知ってる限りじゃ今まで報告されてねえはずだし。

 ま、オレには関係ねーから知ったこっちゃねーけど。脱落したやつがどうなったところでオレ、キョーミねーしな。どーせ、もう蒼生きゅんには何もできねーんだし」

 確かに人間ではなくなり、参加資格を失ってしまった俺はもうこのゲームにおいて、何もすることはできない。結愛を無事にこのゲームから生還させると決めた矢先、彼女のために何もしてやれなくなってしまった自分が不甲斐なかった。

(何も……? いや、違う)

 俺ははっとした。大雅の定めたルールには、ゾンビが参加者との共闘を禁止するものはない。俺はもう、ここから出ることはきっと叶わないけれど、それでも結愛が最後まで生き残れるように手助けをし続けることはできる。

「さーて、そんなことはさておきィ! みんなのお楽しみのランキング発表のお時間だぜえ! イェイイェイイェイイェー!」

 結愛のスマートウォッチの文字盤に五位中三位という数字が表示される。先ほどマイクを切っていた間のことがポイントに響いたのだろう。

「今回の最下位は四年の支倉栞奈(はせくらかんな)! カンナぁ、コソ泥みてーな真似して、しぶとく頑張ってたってのに残念だったなあー! フッフー!」

 黒のロングTシャツに身を包んだ女の姿が大雅の映像の横に浮かび上がる。栞奈は防護服の男たちに腕を取られて引きずられながらも、黒いバケットハットの下からきつい目で画面の向こう側を睨んでいた。

 一体何が面白いのか、身体をくの字に折って爆笑する大雅の声が画面越しに響いてくる。俺たちを嘲っているようなその笑い声が癇に障った。

 絶対に結愛を俺はあんな目に遭わせたりはしない。連れて行かれる栞奈の姿を見ながら、俺は自分にそう言い聞かせる。その決意を新たに俺は空中に浮かぶ半透明の大雅の姿を睨みつけた。


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