第四章:スリンキング・キャット④
「……え?」
緑色の腐肉とボロ布を全身に纏わり付かせたゾンビが俺に襲いかかってきていた。
先ほど、金属バットを手放してしまったため、俺の手元にゾンビに対抗し得る手段はない。しかし、迫りくる危険に背後の結愛を晒すわけにはいかない。
俺は意を決すると、右手を握りしめた。そして、俺は振り向きざまに握った拳を思い切りゾンビへ向かって振り抜いた。
衝撃とともにぐちゃっという音が響いた。ぬちょぬちょとした嫌な湿った感触が俺の手に伝わってくる。
俺の右手はゾンビの鳩尾へと、服だった布と一緒にめり込んでいた。通常の人間が相手であれば、致命打になりうるその一撃に、ゾンビは衝撃で身体をくの字に折りはしたものの、すぐに体勢を立て直す。身を捩って鳩尾から俺の手を抜くと、そのままゾンビは俺へと当て身を食らわせてきた。
床に強かに背を打ちつけ、一瞬息が止まった。俺の頭上に黒い影が迫る。
ずしっ、と体の上に重さがのしかかる。べちょ、と生ぬるい何かが剥き出しの二の腕に触れる。
血や体液で汚れ、肉が腐った顔が俺を覗き込む。血走り、正気を失った双眸と視線が交錯する。黄ばんだ歯が剥き出しになった口元から、唾液が滴り、俺の顔を濡らした。
(やばい……! やられる……!)
俺は咄嗟に顔の前で両腕をクロスさせた。しかし、そんな防御など何の意味も為さず、ゾンビは俺へと襲いかかってくる。
「っつ……!」
手首の下に鋭い痛みが走った。俺の手にゾンビが噛み付いている。ゾンビの犬歯が手首の突起状の骨の少し下に突き刺さり、前腕を唾液と血液の混ざり合った液体が濡らしている。
俺はゾンビから逃れようと、床に押し付けられたままの状態でじたばたと足を動かす。
ぐちゃ。蹴りが腹に入ったのか、俺に覆い被さっていたゾンビの体がわずかに上向きにそり返る。
「成瀬くんっ!」
顔を蒼白にした結愛が俺の名を叫びながら、大鎌を一閃した。ぬちゃっ。ごきっ。俺の上にのしかかっていたゾンビの首が結愛の鎌によって切断される。ぐちゃっ、という音ともに床に頭が転がり落ち、ゾンビは動きを止めた。首の断面から溢れ出す腐った卵のような匂いがする血液が俺のTシャツを汚していく。
「アーッ」「蒼生きゅんオワタw」流れていくコメント欄にそんな文言が見えた気がしたが、今の俺にそれに反応する余裕などない。
「う……ぐっ……」
手首の血管が激しく脈打つのを感じる。血液が沸騰しているかのように血管が痛む。心臓が鼓動を刻む度に、痛みが傷口から少しずつ全身へと広がっていく。俺が細胞レベルで徐々に俺ではない何かに作り変えられていっているような感じがする。
「成瀬くん! 大丈夫!?」
結愛は様子のおかしい俺のそばに膝を折ってしゃがみ込むとそう聞いた。「咬まれたの!?」大丈夫とも大丈夫じゃないとも俺に言う間を与えずに、結愛はそう畳み掛ける。動揺しているのか、可愛らしい高い声はひっくり返っている。
「うっ……うあっ……結愛、ちゃん……俺が、ゾンビになる、前に……殺して、くれ……俺が……結愛ちゃんを、襲う……前に……」
「馬鹿なこと言わないで!」
結愛は眦を吊り上げ、俺を叱責した。
「だけど……そうしないと、結愛ちゃん、が……うぐっ……あっ……」
俺が苦悶の声を漏らしていると、結愛はちょっと待ってて、と自分のスマートウォッチの文字盤に指を走らせた。アイテムカタログのファイルを開き、彼女は盤面をタップしてページを繰っていく。
「あった」
小さく結愛は呟くと、自分の配信画面の上部を指差しながら、
「今、わたしのポイントはこれだけある。これを使えば、治療薬を手に入れられる。だから、成瀬くん、もう少し……もう少しだけ、頑張って」
「うっ……待って、結愛ちゃん……ぐあっ……」
結愛の現在の手持ちポイントは百五十万と少しだ。それに対して、rotten-32の治療薬の交換には百五十万ポイントも要求される。
日々、ネットニュースで報道されている通りであれば、香椎製薬のrotten-32の治療薬はまだ臨床試験の段階だ。国の薬事承認がまだされていない薬――つまるところ、本当にrotten-32に対して有効か裏付けが取れていないということだ。そんなものに対して、大量のポイントを費やしたところで、現在進行している俺のこの症状が治る保証などどこにもない。
「あっ……うっ……ぐあっ……結愛、ちゃん……俺の、ためなんかに、そんなこと、しなくて……いいっ……! その薬で、本当に、治る保証もないし……何よりっ、そんなことしたら、結愛ちゃんが、次の最下位になる……!」
結愛が勝ち残れるように協力すると言ったばかりなのに、彼女にそんなことをさせるわけにはいかなかった。
「ゆありん待て」「それやったらゆありん終わるぞ」結愛の配信画面のコメント欄に、彼女を思い留まらせようとするコメントが次々と流れてくる。
「でも……」
ピンクと黒のドット柄の指先が、交換の二文字が光るアイコンの上を彷徨っている。
「だめ、だよ……」
俺は力なく首を横に振る。血管を流れていく血液がふつふつと泡立っているような感覚がある。俺は突っ張るような感覚が広がりつつある左手を持ち上げると、彼女の華奢な人差し指を握った。
「だけど……成瀬くんがこんなことになってるのに、何もしないで見てるなんてできないよ……」
「じゃあさ」
うっ、と俺は血管を伝う熱い痛みをやり過ごすと、言葉を続ける。
「結愛、ちゃん……一個だけ、お願いしてもいい……かな……?」
嫌だよ、と俺の言葉を受け、即座に結愛はかぶりを振った。
「成瀬くんを殺せっていうことなら、断る」
「そうじゃ……ない、よ……。何でもいいから、俺の肩を縛ってくれない、かな……? できるだけ、きつく」
結愛は怪訝そうな顔をしながらも、わかったと頷く。彼女は髪に編み込んでいた白いリボンを解いた。ほどけたピンクブラウンの髪が緩い曲線を描きながら、黒いパーカーの背中で波を打つ。
「何をするつもりなの?」
疑問を口にしながらも、俺のTシャツの袖を捲り上げると、彼女は肩口をリボンで縛っていく。こんなときでなければさすがは元男バレマネージャーと称賛したくなるくらい、その手つきは淀みも迷いもなかった。
「ありが、と……」
そう言うと、俺は身体を起こし、手首の傷口に口をつける。全身に広がっていくこのウィルスを少しでもいいから、体外へ出すことはできないだろうか。傷口から血液を吸い出すと、鉄錆のような味の中、自分の中の異質なものが苦味という形で味覚に存在を訴えかけてきた。
傷口から吸い出したものを床に吐き出すと、それは普通の血液に比べて黒味を帯びていた。ゾンビの唾液を介して体内に入り込んだウィルスが、自分の血液を腐らせつつあるのだと俺は思った。
俺は血液を吸っては吐き、吸っては吐きを繰り返した。しかし、その甲斐なく心臓の拍動とともに異常化した血液と苦痛は俺の身体の中を広がっていく。
もう俺はきっと何分ももたない。何分もしないうちに、俺は俺としての意識を保っていられなくなるだろう。
「蒼生きゅん頑張れ!」「ゆありんのためにもゾンビにはなるな!」視聴者たちから投げかけられた言葉たちが身体をぎりぎりのところで人間側へと繋ぎ止めてくれていた。
傷口を中心として、左腕から血色が失われ、土気色へと変わってきている。筋や腱が突っ張る感じがしてうまく動かせない。自分の意志が神経へと伝わらない。
駄目だ。駄目だ。そう思うのに、霞がかかったかのように段々と意識がぼんやりとしてくる。
俺の傍らには不安そうな面持ちの可愛らしい女の子がいる。俺に向かって何かを言っているのはわかるが、内容が聞き取れない。音としては頭の中に入ってきているのに、言葉として理解ができない。
新鮮で健康な人間の匂いが俺の鼻腔をつく。生きた人間の放つ魅惑的な香りは俺の思考を魅了していく。俺は自分が少しずつ人間からゾンビ(あちら)に堕ちていこうとしているのを感じていた。
欲しい。襲いたい。俺の意識はその一点へと収束していく。
俺は自分の傷口から顔を上げると、結愛を見た。喉の奥から唾液が込み上げてくる。俺はニィ、と口の端を釣り上げた。口角からだらりと涎が漏れ、顎へと伝い落ちていった。
「ぐあ、っ……グォォォォ」
俺は自分の喉の奥から漏れた音を認識することができなかった。そばにいるこの人間を襲いたいという欲求だけが俺の思考を占めていた。自由を失った俺の左手が結愛へと伸びる。
「成瀬くん! しゃんとして!」
自分が襲われかけていることに気づいた結愛は俺へ向かって声を張る。しかし、俺に自分の声が届いていないことを悟り、結愛は俺の顎を大鎌の柄で強く叩きのめした。
「う……が……」
意識が遠ざかっていく。視界が黒く塗りつぶされていく。結愛を襲いたいという衝動で満たされた思考が闇の中へと落ちていく。
そうして、俺の意識はぷつりと糸が切れたように途絶え、何もわからなくなった。




