第四章:スリンキング・キャット③
「……成瀬くん、聞いて」
ひくっ、ひくっと腕の中でしゃくりあげていた結愛が俺の耳元で囁いたのが聞こえた。彼女の華奢な肩は微かに震えているが、俺に話しかけてきた声は至って平静で、今まで泣いていたのはまったくの演技だったと察せられた。
「……結愛ちゃん?」
女の子という生き物に空恐ろしさを感じながら、俺が腕を振り解こうとすると、待ってと彼女が小声でそれを静止した。結愛は自分のスマートウォッチのマイクをオフにすると、俺の耳元で早口に言葉を続けていく。
「お願い、このまま聞いてほしいの。配信で流すわけにもいかないし、どこかで見ているはずの大雅先輩に聞かれるわけにもいかないから」
うん、と俺は渋々ながらも頷き、自分のスマートウォッチのマイクを切った。ひくっ、ひくっと結愛の嘘の嗚咽が彼女の喉の奥から漏れる。彼女の体が小さく震える。これがすべて演技だなんて恐れ入る。
「全部、話すね。――成瀬くんと別れた後、わたしが皆を襲ってた理由を」
「……わかった。聞くよ」
話して、と俺が促すと、結愛は小さく頷いた。長い睫毛の先では小さな雫が揺れていた。
「わたし……脅されてるの。大雅先輩に、弱みを握られてて」
弱み、と俺は眉根を寄せた。仮にも恋人であるはずの結愛を脅しているとは穏やかではない。
「どういうこと?」
「四月に、サークルの歓迎会あったでしょ。わたし、歓迎会のときに大雅先輩に連れ出されてホテルに連れ込まれて……無理矢理強姦されたの」
俺のTシャツの肩が結愛の涙で濡れる。何となく、これは演技ではなく彼女の本心からの涙であるような気がした。
おぼろげではあるが、歓迎会のときのことは俺も覚えている。結愛が途中で具合が悪くなり、送っていくといって大雅とともに出ていった。その後から二人が付き合うようになり、つまりあの後そういう関係を持ったりしたんだろうなあ羨ましいなあと俺は思っていた。
「あのとき、飲み物に薬を入れられていたみたいで、わたし、抵抗できなくって。嫌だって言ったのに、大雅先輩に無理矢理されて。はじめてだったのに、やめてって言っても、痛いって言っても、大雅先輩は全然やめてくれなくって……それどころか、わたしを強姦しているところを全部撮られてて、ネットでばら撒かれたくなければ、付き合えって迫られたの」
彼女のあられもない姿の一部始終。喉がごくりと鳴った。めっちゃ欲しい。めっちゃ見たい。ていうかそれで自分を慰めたい。妄想でいいからシたい。
っていやいやいや。今はそんな場合ではないと俺は煩悩を振り払う。こんなときでも反応してしまう、男としての自分の本能が情けない。
「それってもう犯罪じゃん。警察は?」
「誰かに話したりしたら、ネットに上げるって言われてて、誰にも言えなくって。それに、自分は香椎製薬の御曹司だから、警察に言ったところで親の力で揉み消されるだけだぞって」
「……」
確かに、結愛の言う通り、香椎製薬の力を持ってすれば、馬鹿息子のその程度の不祥事の一つや二つ、揉み消すことは容易だろう。恐らく、金の力で示談に持ち込まれるのが関の山だ。
しかし、警察にすら相談できなかったっていうことは、彼女は今まで一人でこのことを抱え込んできたと言うことに他ならない。
「だから、わたし……大雅先輩に従うしかなかったの。付き合ってるなんて、ただのフリだけで、あのときの動画を盾にその……都合のいい性処理の道具にされて、オモチャにされて。
だけど、今回の他の皆を襲ってこのゲームを引っ掻き回した上で、最後まで生き残れればあのときの動画を消してやるって大雅先輩に持ちかけられたの。わたしは……その取引を呑むしかなかった」
そうだったのか、と俺の中で全てが腑に落ちた。結愛が皆を襲っていたことも、二十一時のランキング発表の際の意味深な大雅の言葉の意味も彼女の話を聞いた今なら理解できる。このゲームが始まるよりも前から、時折、結愛の様子がおかしいように見えたのもきっとこのことが理由だったのだろう。
大雅が結愛との約束をそう簡単に守るとも思えない。しかし、それでも大雅に従わざるを得なかった結愛がひどく哀れだった。大雅を許せないと俺は思った。
「結愛ちゃん……大変だったよね、辛かったよね……」
苦しさに耐えるような甲高い声が微かに彼女の喉から漏れる。押し殺した悲痛な叫びが彼女が今まで味わされてきた苦痛を肯定していた。
「だけど……結愛ちゃん、話してくれてありがとう」
ううん、と結愛は涙でぐちゃぐちゃになった顔でかぶりを振った。その顔は世界一不細工で世界一一生懸命で世界一可愛かった。
「わたしの……ほうこそ、聞いてくれて、ありがとう……なるせくん、じゃなきゃ、きっと、はなせなかった……なるせくん、やさしい、から……」
「結愛ちゃん、俺は打算なく人に優しくできるような人間じゃないよ。結愛ちゃんに優しくするのだって、元を糺せば大雅先輩と同じ下心でしかない。結愛ちゃんにちょっとでも俺のことを好きになってもらいたいからでしかないんだよ」
ずびびっと結愛は鼻を啜る。違うよ、手の甲で目元を拭うと彼女は言葉を続けた。
「ぜんぜん、おなじじゃ、ないよ。下心が、あるにせよ、なるせくんは、わたしのことを思って行動してくれた。だけど……あのひとは、違う。大雅先輩は自分が、愉しむことしか、考えてない」
俺は先ほど彼女の話に劣情を覚えた自分を恥じた。彼女のことは異性として好きだけれど、俺は大雅のような下衆にはなりたくない。
「わたし……もう、大雅先輩の言いなりになんてなりたくない。だから、お願い……助けて、成瀬くん」
赤味を帯びた結愛の双眸が俺を見た。ここで彼女のお願いを断ろうものなら男じゃない。俺は肚を括ると、わかったと頷いた。彼女を最後まで勝ち残らせるということは、すなわち俺は自分が無事にここを出ることを放棄せざるを得ないということを意味していたが、こんな自分が好きな女の子のためにしてあげられることがあるのであれば、それもいいと思えた。
「結愛ちゃんがここから生きて帰れるように、大雅先輩との関係を断ち切れるように、精一杯手助けする。――約束するよ」
「ありがと」
そう囁くと同時に、結愛の腕が俺の首元からするりと解けた。彼女の顔が遠ざかっていく。離れざまに柔らかな感触が一瞬、俺の頬に触れた気がしたが、気のせいだったかもしれない。
シアンブルーの煙はいつの間にか晴れていた。結愛と話をしていた間の視聴者たちのコメントに目を通しながら、スマートウォッチのマイクを入れ直し、俺が配信を再開する準備をしていると、「グォォォォォォォ」背後から唸り声が聞こえた。




