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第三章:ミルクソップ・アンド・ヘルキャット④

 地下一階へと戻り、最早拷問器具に近い怪しげな装置が設置された実験室が立ち並ぶエリアを俺たちが歩いていると、ぼとん、と天井から何かが降ってきた。

 ぬちょっ、という音ともに床に落下してきた”それ”によって、前後に連なって歩いていた俺と結愛は分断される。

「う、うわあっ」

 一拍遅れて、俺は背後を振り返ると悲鳴を上げた。

 謎の液体で濡れた黒いロゴTシャツ。かぎ裂きの目立つターコイズのスラックス。厚底の白いスポーツサンダルはどこかに行ってしまったのか、片方しかない。

 赤黒いシミだらけのバケットハットの下、土気色の顔でにいっと獰猛な笑みを浮かべていたのは、二年の犀川洸輝(さいかわこうき)だった。

 洸輝だったものが俺を見る。人としての理性を失った彼の双眸は俺を獲物として見定めていた。

 洸輝は膝のバネを活用して飛び上がる。ゾンビになってそう時間が経っていないのか、筋肉や腱の能力はまださほど失われていないようだった。

 どこだったかは忘れたが、洸輝は他の運動系サークルと兼部していたはずだ。そちらで彼は真面目に汗を流し、時たま写真サークルに現れては酒を飲んで大騒ぎを繰り返していた。

 そもそも洸輝は才華大自体、スポーツ推薦で入ったらしいなんていう噂も聞く。とにかくこうして敵として相対するには最悪の相手だ。生まれてこのかた運動音痴のインドア系陰キャで通っている俺には色々きつい。

「うっわこのゾンビ身体能力パネエw」「こいつ、陸上か何かやってた? 動きがそんな感じする」ゾンビ離れした洸輝の動きに、俺のコメント欄がどよめいている。

「成瀬くんっ!」

「……へ?」

 結愛が何かを洸輝に投げつけたのが視界に入り、俺は間抜けな声を漏らした。フリルがふんだんにあしらわれたピンク色の布が洸輝の顔面を覆っていた。洸輝は目標物であった俺を見失って、壁へと激突する。「うー……ヴー……ぐぐぐ……」洸輝は顔面を覆う布を剥がそうと血管がむき出しの腐った両手で奮闘している。

「結愛ちゃん、ありがとう……」

 そう言いながら、俺は洸輝の視界を遮る布が、結愛の仕込み傘の布地であったことに気がついた。遮光性の高さが仇となり、洸輝には今、俺と結愛がいる場所がはっきりとはわからないに違いない。

「成瀬くん、どうする? ゾンビになってるとはいえ、相手は犀川先輩だよ。一体だけだし、今のうちに逃げたっていいと思う」

「だいじょう……」

 大丈夫。そう言って金属バットを構え直そうとした腕が上がらなかった。「蒼生きゅん頑張れ」空中に表示されたコメント欄にエールが飛んでくるが、それに応えることはできそうになかった。慣れないことをやり続けたせいで、筋肉が悲鳴を上げていた。

「いいから来て」

 結愛は決然とそう言い放つと、有無を言わさずに俺の手を掴む。

「あと少し……あと少しだけ、走れそう?」

「……平気」

 本当のことを言うなら、足だってとうに限界だった。脹脛が、太腿が、今にも痙攣しそうだった。体重を支える膝や足首の関節が痛い。靴擦れを起こしているのか、黒のキャンバスシューズの中の足はどこもかしこもずきずきと痛むし、爪が圧迫されて浮き上がってきている感じがある。

 それでも、無理とは言えなかった。男としての俺の矜持がそれをさせなかった。好きな女の子の前で、これ以上無様を晒したくなかった。

 結愛もまた、俺の言葉がただの痩せ我慢であることに気づいているようだった。それでも彼女は俺の心情を慮ってか、何も言わずに俺の手を引いて、廊下を駆けた。

 このフロアのエレベータ前には、ゾンビの気配はなかった。休憩しよ、と結愛に促されるままに、俺はその場にずるずると座り込んだ。

 背中がエレベータの扉に、尻が床に張り付いて、もう二度と立てそうになかった。

 結愛はその場で立ったまま、自分のスマートウォッチを指先で操作していた。

「えーと……、あれと、それと、これと……念のためにあれもかなあ?」

 彼女が一人でスマートウォッチの文字盤を見つめながら何事か呟いていたかと思うと、彼女の頭の上の天井の板が開いた。スプレー缶やゼリー飲料、ガムテープ状の何かや湿布、絆創膏の箱などがどさどさと落ちてくる。

 まずはこれ、と結愛は見覚えのない怪しげな箱に手を伸ばす。その箱には『ゾンビコナーズ』なる気の抜ける商品名が香椎製薬のロゴとともに刻まれている。よく見るとサンプル品と小さく書いてあるが、大丈夫なのかこれ。絶対これ一般流通前の臨床試験中の商品だろ。そもそもゾンビに対して臨床試験とか治験って言葉が適用されるのか知らんけど。

「えぇと、ゆありんと蒼生きゅんは一旦休憩ってことでぇ、この『ゾンビコナーズ』とかいうのを使ってみようと思いまぁす」

 結愛の配信画面を「怪しげwww」「ステマ乙www」などといった弾幕が通り抜けていった。っていうか彼女が一言喋るだけであんなにコメントもいいねもされるのか。美少女っておそろしい。

 結愛は『ゾンビコナーズ』なるものの箱を開け、蚊取り線香じみたビジュアルの何かを取り出してみせる。結愛は箱の説明を読み上げながら、「『使用方法。先端を折って、水平な場所に置いてください。ゾンビ避けの煙が発生し、十五分程度効果が持続します。なお、当製品の効果を過信せず、必ずゾンビへの警戒を怠らないようにしてください』っだってぇ! みんな、とりあえずやってみるねえー!」

 結愛は『ゾンビコナーズ』なる蚊取り線香もどきの先端を折る。途端にもくもくとシアンブルーの煙が立ち上り始め、俺はぎょっとした。煙の直撃を受けた結愛はけほけほと咳き込みながら、エレベーター前の床に『ゾンビコナーズ』を置いた。

 ドリアンとくさやが混ざったような悪臭が辺りに立ち込める。これはゾンビじゃなくても敬遠するだろうと俺はげんなりした。

「結愛ちゃん……一体、これに何ポイント使ったの……?」

「一万五千ポイント。一時的とはいえ、これで安全を確保できるなら安いでしょ?」

 なんてことはない口調で結愛はそういってのける。彼女と俺では所持しているポイント数は桁が違う。このくらい、現在一位の結愛からしたらなんてことないことなのだろう。

 それよりも、と結愛は俺に向き直る。

「成瀬くん、手と足、見せて。怪我してるでしょ。それに筋肉とか関節とかに痛みが出てるんじゃない?」

「い、いいよ……自分でやるし」

 手も足も肉刺(まめ)や靴擦れで見られたものじゃなくなっている。それに、怪我の治療のためとはいえ、結愛の前で服を脱ぐのはなんだか恥ずかしい。”はじめて”は妄想の中で何度も繰り返したそういうときに取っておきたかった。

「死にたくなかったら、わたしに任せて。まさか、自分じゃ脱げないなんてだらしないこと言わないよね?」

 白けた表情の結愛の半眼が俺のこめかみに突き刺さる。「ハ、ハイ……」俺は情けない返事をすると、ズボンのベルトに手をかける。心細い思いを感じながら、俺はホックを外し、重く痛い足を引っこ抜いていく。女の子が男の前で服を脱ぐときもこんな気持ちなのだろうかという思考がちらりと俺の脳裏を掠めていった。

「うわ、蒼生きゅんぼろぼろじゃん」「男の脱衣シーンとか誰得w」コメントで指摘されたことで、誰の得にもならない脱衣シーンを全世界に垂れ流してしまっていることに俺は気付かされた。疲労で思考が鈍っているのだろう。

「ご、ごめん、皆、変なもの見せて……」

 ネットの海に自ら黒歴史(デジタルタトゥー)を刻んでしまったことにげんなりとしながら、俺は視聴者たちに詫びる。っていうか、これって垢BAN対象にならないんだろうか。一応、必要最低限は履いているしセーフだろうか。

 なよっとして白く細い俺の脚に結愛は特に興味もないように一瞥をくれると、『イタミトレール・エクストラコールド』なるスプレー缶を手に取った。彼女は何回かスプレー缶を振ると、蓋を取り、それを俺の脚へと満遍なく吹きかけた。

「っ、冷たっ!?」

 氷点下二百度の冷却力を貴方に。そんな物騒なキャッチコピーと香椎製薬のロゴが目に入る。パッケージに描かれた愛らしいペンギンのキャラクターにハラワタ掻っ捌いてやろうかという苛立ちが募る。完全に八つ当たりだけど。

 俺が苛立ち混じりに悶えている間に、結愛は冷静に足の靴擦れに絆創膏を貼っていく。その後も彼女は、淡々と俺の脹脛や太腿に湿布を貼っていく。俺は膝や足首を彼女に処置されながら、

「結愛ちゃん……何か手慣れてない?」

「わたし、高校のとき、男バレのマネージャーしてたの。それで、一通りの怪我の手当ての仕方は覚えてて」

「へえ」

 宙に浮かぶ俺の配信画面のコメント欄に「蒼生きゅん裏山w」「俺もゆありんにお手当てされたいハァハァ」「俺はゆありんとお医者さんごっこしたいw」やらといった言葉たちが浮かぶ。俺だって、高校のときに彼女に手当てされたかったし、いっそ中三に戻って彼女と同じ高校を受け直したい。

 そんな不謹慎なことを考えているうちに結愛による治療は済み、「いいよ、服着ちゃって」結愛に言われるがままにズボンを履き直す。俺はベルトを締め直しながら、

「結愛ちゃん、手当てありがとう。俺のために随分ポイント使わせちゃったんじゃない? ごめん」

「ううん、気にしないで。成瀬くん、わたしのために随分戦ってくれてたから。運動全然しなさそうなのに、これだけ動き回ってたら絶対いろんなところ痛くなってるだろうと思ってたし」

 結愛は床に落ちたままだったゼリー飲料を拾い上げると、二つあるうちの一つを俺に渡した。

「今のうちにこれだけでも飲んじゃって。このゲームが終わるまであと何時間かかるかわからないけど、これでちょっとでもエネルギーチャージしないと。今は夏だし、室内とはいえ熱中症も怖いしね」

「そうだね……ありがたくいただくね」

 俺は素直に香椎製薬のロゴが入ったゼリー飲料を受け取った。パッケージには「夜のお供に!」などという吹き出しがつけられたマッチョ芸人の顔と一緒に『エンドレスナイトフィーバー』なる製品名が印字されており、俺は口にしたそれを一瞬吹き出しそうになった。

 スッポン。赤マムシ。サソリ。馬の心臓。高麗人参。黒ニンニク。マカ。亜鉛。オットセイ。

(――これ、精力剤じゃねーか!!)

 原材料欄を見た俺は頭を抱えた。確かにこのままだと『エンドレス』にゾンビ相手にオール『ナイト』で『フィーバー』を強いられそうではあるが、これは本来『エンドレスナイト』な感じでオトナが夜の営みを『フィーバー』するために作られた商品なわけで。だけどおかげでなんだかいろいろ元気になってきた気がしないでも……っていやいやいや。

 一人でわたわたしている俺を面白がりながら、結愛は『エンドレスナイトフィーバー』のパッケージを視聴者に見えるように映して見せる。「ゆありんwwwそれはアウトwww」「ゆありん誘ってる?ww」「蒼生きゅんにガオーされるぞwww」「いや、ゆありんが蒼生きゅんをガオーするのかも?www」コメント欄を染め上げていくそんな言葉たちに結愛はちらりと舌を出してウィンクしてみせる。たったそれだけで結愛のいいね数は爆発的に増えていく。わかる、あの可愛さ破壊的だもん。

「ところで……成瀬くん。大事な話があるんだけど」

 ゼリー飲料を飲み終えると結愛が真顔で俺に切り出した。『ゾンビコナーズ』は残り三分の一を切っている。

「――わたしたちの関係、解消しよう」


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