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第二章:ファック・マイ・ライフ⑩

 二十一時のランキング発表まで残り十五分ほどになったころのことだった。二階の倉庫らしき部屋が並ぶ通路を俺たちが歩いていると、ふいに曲がり角から一体のゾンビが現れた。

「ぐおおおおおおおおお!!」

 手を振り上げ、歯を剥き出したゾンビが、俺の少し先を歩いていた結愛へと襲いかかる。しかし、配信に夢中になっている結愛はゾンビの存在に気づいていない。

「わあ、みんな見て見てー、あっちの部屋にいろんな薬があるよぉ! あそこでrotten-32の治療薬とかワクチンも作られてたりしてるのかなあ? ねえねえ、蒼生きゅんは」

 どう思う、と言いかけた結愛の上にゆらりと影がかかる。え、と結愛は言葉を切ると、悲鳴を上げた。

「きゃっ、きゃあああああ!!」

 結愛の体がゾンビによって床に引き倒される。結愛の手から仕込み傘が離れ、床へと転がる。彼女は抵抗を試みようと、仕込み傘に手を伸ばそうとするが、わずかに指先が届かない。

「結愛ちゃん!!」

 俺はゾンビへと向かって金属バットを振り抜いた。ぐちゃあっという腐った肉の感触がバットを通じて手に伝わってくる。

 俺に殴られたゾンビの体が衝撃で仰け反った。その隙に結愛は覆い被さろうとしてきていたゾンビの体の下から這い出る。彼女は床に落ちていた仕込み傘を震える手で掴むと、それを抱きしめる。

「結愛ちゃん、大丈夫!? 怪我してない!?」

 俺はゾンビと対峙したまま、結愛へと無事を問う。彼女は小さく頷くと蚊の鳴くような声で答えた。

「だ、だい、じょうぶ……っく……ひくっ……」

 結愛の語尾が涙で滲む。ゾンビに襲われた恐怖で床に座り込んだまま彼女は嗚咽を漏らし始めた。

 許さない。彼女を襲ったこいつのことだけは絶対に許せないと俺は思った。怒りに任せ、俺はバットを振りかぶる。

「やっちまえ!」「いいぞ!」「男見せろ!」視界の端で視聴者からの俺へのエールが流れていく。いいねの数が増えていく。

 ゾンビは首を切断するか、頭を破壊しない限り殺すことができない。俺は襲いかかってくるゾンビに向かって夢中で何度も何度もバットを振り抜く。

 やらなければこっちがやられる。俺がゾンビにされてしまう。それに俺がやられてしまえば、結愛だってきっと無事では済まない。

 怒りで思考が、感情が昂っていくのを感じる。

 もっと、もっとだ。徹底的に殺らないといけない。

 ぐちゃっ。ごきっ。ぐちゅっ。ぼきっ。ぬちゅっ。俺がバットを振り下ろし続けるうちに、いつしかゾンビは動かなくなっていた。俺の手の中のバットはゾンビのものらしき腐肉がこびりつき、辺りの床や壁には血液や脳漿が飛び散っていた。

 汚れた壁に投影された俺の配信画面の上で一万ポイントが加算されたのが見えた。しかし、まだ自分がゾンビを殺したのだという実感は薄い。

「……なるせ、くん」

 結愛が俺の名前を呼んだ。配信の視聴者に向けたものではない素の口調には怯えと躊躇いが色濃く含まれていた。

「それ……和泉くん、だよ……」

「……え?」

 俺は結愛の口から知らされた事実に絶句した。嘘だろ、と思いながら、床に倒れたゾンビの遺体へと俺は視線を走らせていく。

 血や体液で汚れたネイビーのストライプシャツに白のカットソー。ぼろぼろに裂けたジーンズ。かけていたはずの茶色い縁のウェリントン眼鏡はどこかへ行ってしまっていたが、土気色に変色し、ぐちゃぐちゃに叩き潰された相貌には、確かに俺の親友である柊夜の面影があった。

「そん、な……」

 さあっと全身の血液が下へと流れ落ちていくのを感じた。顔が急速に冷たくなっていく。

 あまりのことに、立っていられなくなって、俺はその場に崩れ落ちた。柊夜だったものがこびりついた金属バットが手の中をすり抜けていく。からん、からんとバットが床に転がる音を俺はどこか現実感なく聞いていた。

 俺が、柊夜を殺した。俺が、柊夜をこんなになるまでぐちゃぐちゃに叩きのめした。信じたくはないけれど、それが現実だった。

 精神を湧き立たせていた興奮が潮が引くように薄れていく。腐った肉へとバットがめり込んだ感触が、柊夜の頭蓋骨を叩き割った感触が今更になって蘇ってきて、うえっと俺はえずいた。

 食道を酸っぱいものが込み上げてくる。胃から何かが迫り上がってくるのを感じる。

「うあっ……ぐえっ……」

 俺は床に胃の中のものを吐き出した。胃液に塗れた吐瀉物の中に混ざっているのは、談合坂での休憩のときに柊夜と一緒に食べたほうとうだった。

 喉が、胸が、苦しい。視界が涙で滲んだ。堪えきれずにこぼれ落ちた雫が、汚れた床をぽつぽつと濡らした。

「柊夜……しゅう、や……」

 俺は二度目の死を迎え、動かなくなってしまった親友の名を呼んだ。

 ごめん。こんなつもりじゃなかった。お前がゾンビになってるなんて思ってなかったんだ。

 どんな言葉も自分のしてしまったことの言い訳にも贖罪にもならないことなどわかっていた。自分には泣く資格すらないというのに、流れる涙を止めることができなかった。俺は唇を噛んだ。口の中に血の味が広がる。

「成瀬くん……」

 結愛は俺のそばに来ると、躊躇いがちに俺の肩に触れた。温かく血の通った華奢な手は、小刻みに震えている。

「成瀬くん、ごめんなさい……。わたしが、ゾンビに気づかなかったから……。そのせいで、ゾンビとはいえ、成瀬くんに和泉くんを――大事な友達を殺させてしまって……。本当に、本当にっ、ごめんなさいっ……!」

 苦しげな結愛の言葉に俺は、違うとかぶりを振った。

「結愛ちゃんのせいじゃない……結愛ちゃんのせいじゃないよ……」

 俺はただ、彼女のことを守りたかった。そして、自分の身を守りたかった。ああしていなければ、今ごろ俺も彼女もきっとゾンビになっていた。

 それでも柊夜のことを手にかけたくなんてなかった。この手で殺したくなんてなかった。

 仕方なかったという思いと自分を責める感情が綯い交ぜになって、俺の精神を追い詰めていく。

 どうすればよかったんだ。俺は最低だ。長年一緒にいた親友をこの手で殺してしまった。

 嫌だ。嫌だ。何が正解だったのかわからない。

「うわあっ……うわあああああああああああ!!」

 精神が限界に達した俺は絶叫した。号泣する俺の後悔と哀しみに寄り添うように、結愛は黙って俺の背を撫でる。彼女の細い指先からは自責の念が体温と一緒に流れ込んでくる。

 溢れ出した俺の感情が慟哭となり、フロア中を響き渡り続けていた。

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