夜叉
──東に夜叉がいる。
小瀬がその噂を聞いたのは、十七の夏だった。
その頃の小瀬は、父の死をきっかけに家中での居場所を失ったばかりだった。異母兄が家督を継ぎ、自分は嫡流から外された。
もっとも、小瀬自身はさほど惜しいとも思っていない。
母は妾で、正妻と義兄たちとは昔から折り合いが悪かった。むしろ、あの家から離れられて清々していたくらいだ。
辛うじて小瀬の名を捨てずに済んだことだけが、父の情けらしい情けだった。
(さて、この先どう生きるか)
やりたいことも、なりたいものもない。
戦の世で、土地を離れるのは思うほど容易ではない。
伝手もなければ、別の土地で食っていくあてもない。
このまま南雲で、一兵のまま朽ちるのだろう。
そう思いながら、訓練の後、仲間たちと井戸で冷やした西瓜を囲んでいた時のことだった。
「乾との間で、また小競り合いがあったらしいぞ」
「ああ? またかよ」
「今回は、里がひとつやられたんだと」
里。
その言葉に、小瀬は西瓜を齧ったまま眉を寄せた。
「深い山と異形だらけの、あの辺りにか」
「俺もそう思ったが、あったんだとよ。なんでも、妙な信仰をしてる里だったらしい。南雲も、あまり深くは関わってなかったとか」
「ふぅん」
小瀬は聞き流した。
どうせ、また尾ひれのついた戦の噂だ。この手の話は珍しくない。
だが。
「焼けた里に、生き残りがひとりいたらしい」
その一言だけは、耳に引っかかった。
小瀬は西瓜を持ったまま、初めて顔を上げる。
「へぇ。それはまた、散々だな」
口にした言葉に、自分で少しだけ違和感があった。らしくもない同情だったのか。それとも、居場所を失った者に、勝手に何かを重ねたのか。そこまでは自分でも分からない。
「だろ? 可哀想にな。……けどよ、その様子が、ちと違ったんだと」
「狂いでもしてたのかい」
軽く言ってみせる。
だが、仲間はすぐには頷かなかった。
妙に言い淀む。
小瀬は最後の西瓜を食べ終え、種をひとつ吐き捨ててから、その先を待った。
「その生き残りってのは男だったらしいが――」
仲間は声を落とす。
「里の人間と、乾の兵の死骸の中でよ」
「……ああ」
「そいつ、全身に血を浴びたまま、一人刀を手に立ってたんだと」
泣いていたわけでも、喚いていたわけでもない。
最初にそれを見た者は、人かどうかすら疑ったという。
屍山血河の中、その存在だけが異様な存在感を放っていた。
異形ではない。その姿はまるで――夜叉。
そう例える以外、なかったのだと。
「で、乾はどうした。その者を残して退いたのか」
周りの仲間たちは、まるで怪談でも聞くような顔をしていたが、小瀬だけは世間話の続きでもするように問いを返した。
仲間は西瓜を食う手を止め、声を潜める。
「いや……南雲が辿り着いた時には、乾の兵も全滅してたらしい」
小瀬は、そこで初めて目を見張った。
「そいつ一人でやったってのか?」
「わからん。だが、そうとしか思えねぇ有様だったとよ」
仲間は唾を飲み込むようにして続けた。
「しかも、同行していた若殿が、その者を召し上げたんだと」
若殿――南雲景綱。
昨年、家督を継いだばかりの新しい当主だ。
厳格だが民を見捨てぬ、優れた男だと聞く。
それなら、小国ゆえに常に兵の足りぬ南雲で、そんな逸材をみすみす手放すはずがない。
小瀬にも、それはよくわかった。
小瀬は西瓜の皮を放り、興味深げに目を細める。
今日にも、景綱率いる部隊は戻るだろう。
人か、人ならざるものか。
その者がどんな姿をしているのか、妙に気になった。
(……いっちょ、その顔でも拝みに行ってみるか)
ただの興味。それだけだった。
***
夕方、小瀬は戻ってきた隊列を見に行った。
景綱は、すでに先に城へ入っているらしい。
戻ってきた兵たちの様子を見る限り、大きな戦闘はなかったのだろう。甲冑に土埃はあれど、目立った消耗はない。負傷者を支える姿もなく、列は乱れず、いつもの戦帰りと大差ないように見えた。
だが、その後方。
ただ一人、明らかに気配の違うものがいた。
(……あれか)
噂に聞いた、全身に血を浴び、骸の中に立っていた男。
一目で分かった。
西日に照らされたその血は、すでに乾いて煤と見分けがつかないほど黒く沈んでいる。衣も髪も、肌にこびりついたものも、赤みを失い、まるで人の形をした影のようだった。
乱れた髪と乾いた血のせいで、顔はまだよく見えない。
それでも、背格好だけは分かる。自分とそう変わらぬ年頃に見えた。
若い。
若いのに、その姿はまるで亡霊のようですらあった。
そいつは一言も発さない。
きょろつくことも、怯えることもない。
ただ、隊列に沿って静かに歩いている。
(あんなの、連れ込んで大丈夫なのかよ)
人に御せるようなものなのか。
若殿は、あれを本当に使うつもりなのか。
その時だった。
そいつが、ふいに顔を上げた。
乱れた髪の隙間、その奥。
夕の影よりなお深い双眸が、まっすぐこちらを射抜く。
(――っ)
ぞわりと全身が粟立った。
目を合わせれば死ぬ。
そんな、馬鹿げた連想が一瞬で脳裏を過ぎるほどの不気味さだった。
殺気、と呼ぶには静かすぎる。
けれど確かに、肌の上を刃先で撫でられたような感覚が走る。
気づけば、小瀬の脚は、知らず一歩、後ろへ退こうとしていた。
脊髄が逃げろと叫んでいる。
だが、退きかけた足を、小瀬は意地で踏みとどめた。ここで露骨に退けば負けた気がした。
(化け物かよ……)
そいつは、小瀬のことなど気にも留めなかった。
目が合った――そう思ったのも束の間、何事もなかったように視線を外し、そのまま隊列の流れに沿って場内へ消えていく。
小瀬は、ようやく詰めていた息を吐いた。
そして、一つ結論を出す。
(……ありゃ、関わっちゃいけねぇ奴だな)
周囲では見物に出ていた者たちの間に、じわじわとざわめきが広がり始めている。
「人じゃねぇ」
「鬼だ、鬼」
「異形かもしれんぞ……」
恐れと興奮が入り混じった声が、あちこちで囁きになって波打つ。
夏の熱気の中だというのに、小瀬の背も冷や汗で濡れていた。
若殿は、果たして何を拾ってきたのか。
その選択が南雲にとって、吉と出るか凶と出るか。
そんなことを思いながら、小瀬はそいつが消えた方角から、しばらく目を離せなかった。




