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埋み火*




次にそいつを見たのは、数か月後だった。


山の紅葉が色づき切った、秋の朝。

小瀬十七、初陣の朝だった。


今回の戦は、南雲が守護方への軍役として兵を出したものだった。名目は加勢である。だが実のところは、南雲がいまだ主家に背かぬこと、国境の小勢ながら戦場で用に立つことを示すための戦でもあった。

南雲ほどの小勢力にとって、こういう場で働きを見せられぬことは、そのまま家の軽さにつながる。遅れを取るわけにはいかなかった。


もっとも、小瀬にとっては、そんな大義はどうでもいい。


異母兄が家を継いだばかりの家中は長く落ち着かず、その間、小瀬は雑務と訓練ばかりを回された。武家の生まれとしては、初陣は少し遅い。


今さら送り出されるのも、どうせ家の都合だ。


異母兄にとって、自分は目障りだったのだろう。家に置いておくには邪魔だが、あからさまに追い払えば外聞が悪い。ならば、戦場へ押し出せばいい。死ねば始末がつく。


(俺の人生、つくづくこんなんばっかだな)


母も、一応父も、優しかった。愛されていた自覚もある。友人にも恵まれていた。


特別悪くもなく、かといって、良くもない人生。

その締めくくりが、これなのか。


小瀬は具足の紐を締め直しながら、ぼんやりとそう思った。


投入されたのは、南雲勢のうち、家老・生田道重が預かる先手の小組だった。

物見、伝令、敵の崩れ目への切り込み、味方が退く時の殿。聞こえはいい。だが実のところは、不利な場へ真っ先に押し出され、足りぬところを埋めるための寄せ集めに近かった。


南雲の中で立ち位置を持たぬ者。

使い勝手はいいが、惜しくはない者。

そういう連中が、まとめて押し込まれた部隊だ。


最初から、生きて戻ることなど期待されていない。


(こんなことなら、さっさと出ていっちまえばよかったんだ)


いつか出て行ってやる。そう思ったことは少なくない。


だが結局、小瀬は南雲に残った。外へ出ていく術がなかったのは本当だ。けれど、それだけでもない気がする。家そのものに未練はなくとも、どこか切りきれぬものがあったのかもしれない。


そんなことを考えていた時だった。


同じ小組の中に、見覚えのある奴がいた。


少し離れた場所。

輪の中へ入ろうともせず、ただ腰の刀に手を添えて立っている。


見覚えはある……気がする。

だが、見慣れない顔だ。


訓練場でも、城下の集まりでも、こんな男を見た覚えはない。

はて、誰だったかと記憶を探って――小瀬はすぐに合点した。


(……あいつか)


あの時は、血と汚れで顔などほとんど見えなかった。

それでも、人を寄せつけぬあの空気だけは忘れようがない。


焼けた里で、血塗れのまま立っていた奴だ。


(つくづく、ついてねぇ)


得体が知れない。

関わってはいけない。


そう思った相手と、初陣で同じ組になるとは。


だが、これから共に動く以上、最低限、話が通じるかどうかくらいは確かめておかねばならない。小瀬はそう割り切って、その男へ歩み寄った。


「よ。」


軽い調子で声をかける。


「俺は小瀬景久だ。これから死地に向かう同士、仲良くしようぜ」


「…………」


返事はない。


ただ男は、雑に結んだ髪の後れ毛の奥から、じろりとこちらを見ただけだった。


(えらく整った顔してんな)


朝の光の下で改めて見たその顔は、男の自分からしても綺麗だった。

だが、その美しさを、黒い双眸がすべて拒んでいる。太陽の下に立っているのに、そいつだけが影を背負っているようだった。


小瀬がついまじまじと見ていると、男はそのまま踵を返した。


「おい、ちょっと待てよ」


さすがにむっとして呼び止める。


「無視か。せめて名前くらい教えろよ」


男は足を止めた。

だが、振り返りはしない。


「……名は捨てた。好きに呼べ」


それだけを言い残して、また歩き出す。


小瀬は目を瞬いた。


(とりあえず、会話はできるんだな)


どうやら、噂に聞いたような夜叉そのものではないらしい。


とはいえ、えらいのと組まされたのに変わりはない。


(……関わらねぇのが一番だ)


やはりこいつと親しくなるのは無理だろうと、小瀬は思った。




 *





時刻は昼頃だった。


鉛のように重く垂れ込めた雲の向こうに太陽がある。空は一面、鈍く光を返していた。まるで抜き身の刃を寝かせたような、冷えた銀色の空だった。


戦場は、山ではなかった。


川沿いにひらけた原で、ところどころに刈り残された田と、踏み荒らされた畦が走っている。遠くには林があり、その向こうで敵の旗が揺れていた。

南雲勢は本軍の端に置かれていた。中央を担うほどの兵はない。だが、端で崩れれば、そこから敵は入り込む。小勢の南雲に与えられた役目は、軽いようで軽くなかった。


その下で、号令はかけられた。


敵の中備へ向かって、前へ出る。


それだけだ。


本来、敵陣を裂くなら、左右から牽制を入れ、足を止め、崩れたところへ先手を差し込むものだ。

だが、守護方から遣わされた将は、兵の数と勢いだけを頼みにしていた。弓鉄砲を散らし、槍を並べ、押せと命じる。崩れれば立て直すでもなく、別の小勢を前へ出す。馬鹿の一つ覚えのように、ただ前へ、前へと兵を投げた。


この場合、戦場で生死を分けるのは、剣の技量ではない。


隊列が保たれている間は、槍を突き出していればいい。

だが、列が崩れれば、あとは無我夢中だ。押され、払われ、味方とぶつかり、敵の顔が息のかかる距離まで迫る。槍が使い物にならなくなれば、腰の刀を抜くしかない。


斬って、払って、押し返す。

生きるも死ぬも、運次第。


(最悪だ)


無我夢中。

我武者羅。


小瀬が最も苦手とする言葉だった。


(命がいくらあっても足りねぇな)


だが、家族の思惑通り死ぬのは癪だった。


小瀬は、嫌いな言葉そのままに、土煙と怒号の中で槍を突き出していた。


生き残る。


ただ、それだけを胸に。


血と汗が舞う。


初めて人を殺す感覚は、不快だった。

肉を突いた重さが、柄を通して腕に残る。絶命の瞬間、苦痛と恐怖に歪む顔が脳裏に焼き付く。


こんなもののどこに、大義や忠義などという綺麗な言葉を見出せばいいのかわからない。


それでも、死ぬのはこちらも同じだ。

躊躇ってなどいられない。


再び、前進の命が下る。


視界は土煙で白く霞み、息は次第に切れ切れになっていく。周りを見れば、共に突撃した者たちの屍がすでに転がっていた。


案の定、劣勢だ。


なのに、一向に退けの命は下らない。


残った兵たちは疲弊し、士気も落ち、連携などとうに崩れ大軍の波に飲まれていく。


その中で。


一点だけ、人並みに飲まれぬ者がいた。


名を捨てたと言った、あの男だった。


自分たちと同じように息は上がっているし、具足の隙間からは血も流れている。


振るう刀はひどい有様だった。

まともに刀を習った者の振り方ではない。


だが、不思議と無駄は少なかった。


敵が振りかぶるより先に間を詰める。

槍の穂先が向く前に、柄の内側へ潜る。

刃が通らなければ、肘で押し、膝で崩し、倒れた者の脇を踏み越えていく。


上手いのではない。


ただ、死なない。


目の前の者を斬った後、勝ち誇ることも、怯むこともなく、すぐに次の隙間へ身体を滑り込ませる。


敵を討ち取る名誉も、大将首を狙う欲もない。


そのすべてを横目に置いたまま、ただ一つ、自分が死なずにいるための道だけを探しているようだった。


(……なんだ、あれ)


初対面の印象とは、少し違った。


この戦にどんな名目があろうと、誰がどんな理屈を押しつけようと、あの男だけはその外側にいる。


勝手に戦場へ放り込まれたのなら、その中で勝手に生き延びる。


そう言わんばかりの背だった。


(……化け物ってのは、案外、吠えねぇんだな)


だが、一人だけ強くても、戦そのものがひっくり返るわけではない。


仲間の大半が死んだ頃、ようやく撤退の命が下った。

命令に従い、自軍の方へ踵を返して走る。


(ようやくかよ。阿呆めがっ)


その一瞬────気が緩んだ。


駆け出す背後へ、敵が斬りかかる。


「……!」


体勢を崩しながら避け、その者を斬り捨てる。だが、別のもう一人の槍が脇から伸びていた。


(やば――)


小瀬は、最後を覚悟した。


その刹那。


横合いから、影が滑り込む。


鈍い音がして、槍の穂先が男の腕を掠める。

男はそれを避けきらなかった。避けるより早く、踏み込む方を選んだのだ。


欠けた刀が、敵兵の首元へ叩き込まれる。


斬った、というより、押し潰したような一撃だった。敵兵は声もなく崩れ、男はその身体を足でどけた。


小瀬が関わらないと決めた、不気味な男。


「っお前、なんで――」


問いかけても、男は一瞥すらしない。


「走れ」


それだけを言って、また前へ出る。


(なんで俺を助けた?)


小瀬とは距離があったはずだ。

見捨てても、誰も責めなかった。むしろ、その方が自然だった。


なのに、あの男は迷わなかった。


人を殺すことには躊躇しない。

だが、味方を見捨てることにもまた、躊躇がないわけではないらしい。


その矛盾が、小瀬の胸に引っかかった。


男が不気味であることに変わりはない。


だが少なくとも、今この場で離れるのだけは悪手だと嫌というほど分かってしまったから、小瀬はその背に続いた。





 *





小瀬たちの属する小組は、ほぼ全滅に近かった。


だが、撤退命令の後に死んだ者はほとんどいない。


あの男が、殿を務めたからだ。


男は強さを誇ることも、恩着せがましくすることもなかった。ただ淡々としていた。まるで、戦の喧騒など、なかったかのように。


野営の折、小瀬は男に訊いた。


なぜ、あの時、庇ったのかと。


男はまたしても、じろりとこちらを見た。どうせまた答えないのだろうと思ったが、今度は静かに答えを返してきた。


「あれ以上死なれると、退くことすら危うかった」


低い声で、それだけ。


小瀬は眉を寄せた。


その言葉と、傷を受けてまで自分を助けたあの姿が一致しない。


だが、せっかく答えてくれたので、今はその言葉をそのまま受け取ることにした。そして、再び聞いた。


そこまでして、生き残りたかったのかと。


南雲に属して間もない挙句、まるで使い捨ての駒のように扱われたというのに。


家を追われた自分と同じように、戻るべき場所もないようなのに。


あの場で生き残りたいなどと思うほど、状況は優しくない。

どうせ生き残っても、再びこの凄惨な戦場へと送り出されるだけだ。


小瀬の問いに、男は返す。


「まだ、死ぬわけにはいかない」


男は、それ以上話しかけるなというように目を閉じた。


小瀬はその場に立ち尽くし、言葉を紡ぐことができなかった。


生きたい、と言ったのではなかった。

死にたくない、と縋ったのでもない。


ただ、死ぬことだけは許されないのだと。

そう聞こえた。


なぜ、そこまで死を拒むのか。

この男は何を隠しているのか。


それが、妙に気にかかった。


初めて見た時の、亡霊のようなあの姿が過ぎる。


小瀬がまだ家や己の行く末に燻っている間に、あの男だけは、何かを一度焼き尽くしてきたのかもしれない。


だが、その中に、微かに残った火の揺らめきを見た気がした。


それ故、この初陣以降、小瀬はことあるごとに、その男へ絡むようになった。






***










そして男は、初陣での働きをきっかけに、正式に南雲の士分へ取り立てられた。


戦を重ねるごとに武功を積み、やがて景綱の馬廻りに加えられる。


主君から「高成」の名を与えられた時には、もはや誰も、あれがかつて血塗れで拾われた得体の知れぬ若者だったとは軽々しく言えなくなっていた。


異例の大出世だった。


そして小瀬と高成が二十五、六の頃。


高成は、嫡男に恵まれなかった家老筆頭・生田道重の一人娘、露との婚姻を前提に、生田の名を継ぐことを許された。


初陣の頃にあったあの剥き出しの危うさも、いつしか表には出なくなっていた。

道重に矯められたのか、歳月がそうさせたのかは分からない。


出自ゆえに古参の家臣には煙たがられていたが、高成が武功と実務で積み上げたものは大きい。


的確に敵の薄いところを突き、深入りせず、引き時を誤らない。

無駄に兵を死なせず、それでいて必要な武功は必ず持ち帰る。

そういう指揮を積み重ねてきた男だった。


裏切りが露呈した今でさえ、下の者たちの中には、高成を憎みきれない者がいる。


それだけの男が、たった一人の女と引き換えに、実績も、信頼も、国さえ捨てた。



――お前は、何を選んだんだ。



それが、命までかけてやる必要のあることなのか。

小瀬は、問わずにはいられなかった。






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