信用と信頼
三人は、村の外れが見えるところまで馬を進めた。
人の気配が濃くなり始める手前で、林の陰へ入る。木々の間はまだ雪解けの湿りを残していたが、地面はぬかるみきってはおらず、馬を隠すには十分だった。高成と小瀬は手早く周囲を見回し、二頭を奥まった木立へ繋ぐ。
ここから先は、二手に分かれる。
小瀬が村へ入る。
高成とまいは、外れで待つ。
戻る刻限は、申の刻まで。
それを過ぎても戻らなければ、こちらはさらに東へ外す。
確認は短かった。
「……頼んだ」
高成が低く言う。
小瀬は手綱を手繰りながら、肩越しに片手を振った。
「ま、気楽に待ってろよ」
いつもの軽さだった。
けれど、そのまま村へ向かう背に、昨夜までの曖昧さだけではないものが少しずつ混じり始めているのを、まいは何となく感じていた。
やがて、その姿は木々の向こうへ消える。
残された二人は、さらに林の中へ入った。
身を潜める場所に選んだのは、ひっそりと打ち捨てられたような小さな祠の裏手だった。祠といっても、村で大切に守られている社ではない。苔のついた石が低く積まれ、小さな屋根が辛うじて形を留めているだけの、山の神か道祖神を祀ったものらしい。
その脇を通る道は、真っ直ぐ村へ伸びている。
だが一方通行ではなく、少し先で東へ抜ける細道が枝分かれしていた。逃げるなら、すぐそちらへ入れる。
木は高く、幹の通った杉や松が並んでいる。低木は少ない。遮るものが少ないぶん、人が来れば気配は拾いやすい。頭上から差し込む陽の光も、まばらに地へ落ちるだけで、林の中は薄暗いままだった。
高成は祠の裏手から道の見える位置を確かめ、そこでようやく足を止めた。
まいも、それに続く。
小瀬がいなくなると、また急に静かになった。
風が梢を揺らす音。
遠くで鳥が一声鳴く音。
それだけしか聞こえない。
何か話した方がいいのだろうか、とまいは思う。だが、何を話せばいいのか分からない。
小瀬が本当に戻るのか。
高成の具合は、本当にもう大丈夫なのか。
聞きたいことはある。けれど、いざ口にしようとすると、どれも違う気がした。
高成も何も言わない。
ただ、祠の影に半身を置いたまま、村へ続く道を見ている。立っているだけで絵になる人だと、こんな時でも思ってしまう自分が少し嫌になる。
まいは迷った末、少し離れたところへ腰を下ろした。
祠の脇の地面はまだ冷たい。湿りを帯びた土の匂いが、近い。
待つしかできない。
それが、ひどくもどかしかった。
袖の端を指先で握る。
何もしないでいると、余計なことばかり考えてしまう。
高成は道を見たままだった。
その横顔には、いつもの静けさが戻っている。
けれど、今では、その静けさがそのまま余裕の証には見えなかった。
林の中には、じりじりと時間だけが積もっていく。
宿場町の宿にいた時だって、こうして二人きりで言葉を交わさないことは珍しくなかった。
なのに、今はその沈黙が妙に落ち着かない。
まいは膝の上で指を組み直した。
「あの……」
恐る恐る声を出す。
高成は道から視線を外さぬまま、短く応じた。
「何だ」
「小瀬様……大丈夫でしょうか」
問いながら、自分でも曖昧だと思う。
大丈夫、とは何を指すのか。村へ入り、食べ物や水を手に入れることか。南雲の目も引かず、何事もなく帰ってくることなのか。そのどれも、今の自分たちには都合が良すぎる。
けれど、高成は少しも考え込む様子を見せなかった。
「心配はいらないだろう」
あまりにも何でもない調子で返されて、まいは思わず顔を上げた。
「……そう、ですか……」
続く言葉を、言いかけて、躊躇う。
「………」
高成がようやく、わずかにこちらを見る。
まいはそこで言葉を継げずにいた。
小瀬が失敗するとは思っていない。こちらを切るような人間だとも感じていない。なのに、胸の奥にはまだ、うまく形にならない違和感だけが残っていた。
黙ったままのまいを見て、高成が低く言う。
「言いたいことがあるなら言え」
まいは肩をびくりと震わせ、高成を見た。
問い詰められているわけではない。ただ、曖昧なまま飲み込むことだけは許さない目だった。
まいは指先をきゅっと握りしめ、おずおずと口を開く。
「その……生田さんが、人に任せるのは、少し意外に思って」
……言った。
言ってしまった。うまく言葉にできない。けれど、気になったのだ。
「小瀬様を、信じてるんだな……と、そう思っただけです」
高成が、人に役目を任せる。
それが意外だった。
宿場町でも、逃亡の道中でも、何かを決めるのはいつも高成だった。
守るのも、見るのも、疑うのも、この人一人でやってきた。そんな人が、今は小瀬を先に村へ入らせている。
それを不思議に思うと同時に、胸の奥では別の声もしていた。
――自分が、あまりに頼りないからではないか。
口にしなかったその考えを飲み込むように、まいは唇を結ぶ。
高成は短く息を吐いた。
そして、まるでそこに触れてはならぬ境を引くように、はっきりと言った。
「信用と、信頼は別だ」
その声音は低く静かだった。
けれど、静かなぶんだけ、その言葉の内にある線の硬さがよく分かる。
「……どういうことですか」
まいには、ほとんど同じことを指す言葉のように思えた。けれど、高成の中でははっきり線が引かれているらしい。
高成は道へ視線を戻し、淡々と続ける。
「小瀬は軟派な風を装っているが、腕も勘も確かだ。ああいう役は向いていて、信用できる」
「?……信頼はしていないんですか?」
それがつまり、信じて頼るということではないのだろうか。
「していない」
高成は間を置かずに答えた。
その即答が、かえってまいには不思議だった。
信用している。だが、信頼はしていない。
頼るのに、預けてはいない。
任せるのに、委ねてはいない。
その関係のかたちが、まいにはうまく掴めない。
まいは少し考えてから、ぽつりと言った。
「でも、小瀬様は助けてくれましたし……その、生田さんのことを、まるで友だちみたいに思ってるように見えます」
以前、まいが二人の関係を尋ねた時、高成は「ただの一家臣だ」と言った。
けれど、それだけではないように見える。
高成は少しだけ黙った。
「あいつの口調が気安いから、そう見えるんだろう」
「それは、そうですけど……」
それだけではない気がした。
武士のことを詳しく知っているわけではない。それでも、主従の間に礼というものがあることくらいは、まいにも分かる。
それに、自分など、本来なら高成や小瀬とまともに目を合わせることすら許されぬ身分だから、余計に思う。武士とは、もっと身分と秩序を重んじるものではないのか、と。
それなのに、高成は小瀬の口調も、あの踏み込み方も、完全には拒んでいない。
まいには小瀬の態度が、家臣というよりも、むしろ友人のように見えた。
高成は、まいの言わんとしていることを察したのだろう。
視線を落とし、少し迷うような素振りを見せた。
――踏み込みすぎただろうか。
「すみません、失礼なことを」
まいは思わずそう言って、祠の脇に置いていた手を引き、ほんの少しだけ距離を取るように腰をずらした。
「……いや」
返った声は冷たくなかった。
咎めるでも、打ち切るでもなく、その詫びを静かに退けるような響きだった。
それから、ごく低い声で言う。
「……俺はもともと、生田の人間ではないからな」
まいは目を見開いた。
「え……?」
さらりと放たれたその一言に、まいは息を呑んだ。
問い返すことさえ、すぐにはできなかった。
────家老家の人間では、ない?
青天の霹靂だった。
立ち居振る舞いも、剣も、馬の扱いも、何もかも、幼い頃からそういう世界で育ってきた者にしか見えない。
なのに今、その前提が、あまりにあっさり覆された。
高成はそれ以上すぐには続けなかった。
ただ、林の向こう、村へ通じる道を見ている。
まいは、自分の中で今聞いた言葉を何度も反芻した。
生田家の人間ではない。
では、この人は、どこから来たのか。
聞かなければいけないことが、また一つ増えた気がした。
次回更新より、投稿曜日と投稿時間を少し変更します。
これまで火・木・日の夜更新でしたが、来週からは
火曜・木曜 朝7:15前後
土曜 朝8:35前後
の更新予定となります。
仕事と被ってしまった場合ズレるかもしれませんが、その日のうちに更新します。
朝の時間に、少しでもお付き合いいただけましたら嬉しいです。




