一線
生田家の人間ではない。
その一言が、まいの胸の奥で静かに波紋を広げていた。
なら、この人はいったい──。
(聞いて、いいのかな……)
今の問いだけでも、十分に踏み込みすぎた気がする。
だが高成は、昨日から少しずつ、こちらが踏み込むことを許してくれている。
きっと、この沈黙も拒絶ではない。
それに。
高成の過去と自分は、もしかしたらどこかで繋がっているのかもしれない。
まいはそっと息を吸った。
「……聞いても、いいですか」
風が梢を揺らし、林の向こうで鳥が一声だけ鳴いた。
自分の呼吸が浅くなりそうになるのを、意識して抑える。
「その、無理にとは言いません」
たとえここで拒まれても、それは高成が“今ではない”と判断しただけだ。
そう受け入れなければならない。
けれど、知りたかった。
言葉は遠慮がちでも、視線だけは正直だった。
「…………」
高成は黙っていた。
やがて、まいのいる方へ数歩だけ歩み寄ると、近くの低い段差へ、ゆっくりと腰を下ろした。
まいは小さく息を呑む。
まさか、高成の方から近づいてくれるとは思わなかったのだ。
決して触れ合うほどの距離ではない。
それなのに、肩と肩が触れているような錯覚さえしてしまうほど、心臓がうるさい。
高成は、まいの顔を見ないまま言う。
「……話せることは多くない」
まいは無意識に唾を飲み込んだ。
聞いていいと、許された。
「それでもいいなら」
話してくれる。
ただそれだけのことが、胸の奥を小さく熱くした。
城にいた頃には想像もできなかった。
こんなふうに、近くで声を交わし、過去に触れさせてもらえる日が来るなど。
嬉しいのに、その熱の分だけ、さっきよりも緊張してしまう。
まいは膝の上で手を握り、小さく頷いた。
「はい。それでかまいません」
顔を上げる。
恐る恐る、それでも逸らさずに高成を見る。
そこに、もう疑いはなかった。
高成は、しばらく地面を見ていた。
それから、ぽつりと話し始める。
「俺は、家老家はおろか、武士の生まれでもない」
まいは目を瞬いた。
さらに驚かされるとは思わなかった。
この人の武士らしいすべては、最初からその身に備わっていたものだと思っていた。
迷いなく武士として育ち、武士として生きてきた人なのだと。
武士の身分でなくとも、取り立てられる者がいないわけではない。
だが、それはごく稀なことだ。
「十七の頃、南雲と乾の戦に巻き込まれた。そこで景綱様に拾われ、後に生田家預かりになった」
なのに続く高成の声は、驚くほど平坦に、ただ事実だけを並べていく。
まいは、その横顔を見つめた。
「最初はただの雑兵と変わらん。礼も作法も、武家の習わしも、その後に叩き込まれたものだ」
そこで一度、高成は浅く息を吐く。
視線は相変わらず前を向いたままだった。
「戦が続いた。兵は足りず、使える者から上へ上げられる。俺も、その一人だった」
語る言葉は短い。その中にどれほどのものが省かれているのか、まいには分からない。
この人はどのような修羅場を潜ってきたのだろうか。
誇りもせず、苦みを滲ませるでもなく、だが、それがかえって想像を掻き立てた。
「小瀬は、もともと生田家の家臣だ。」
高成が続ける。
「だから、あいつにとって俺は“主筋の人間”じゃない」
そこで、少しだけ口元が歪んだ。
自嘲とも諦めともつかない、ごくわずかな歪みだった。
「ただの拾われ者だ」
まいの胸が、きゅっと縮む。
城での景綱と高成のやり取りを見ていて、感じたことはあった。
外では忠臣と噂されていても、主君である景綱からの扱いは、決して穏やかなものには見えなかった。
高成の表情の意味は、まだ分からない。
だが、武士の出ではないというだけで、認められぬことも多かったのではないかと思う。
重鎮と呼ばれる位置にまで上り詰めるまで、この人が今は語らなかった苦しさや、呑み込んできたものが、きっといくつもあったのだろう。
「……でも」
考えるより先に、声が漏れていた。
高成がわずかにこちらへ目を向けるが、まいは顔を逸らし俯いた。
「でも、小瀬様は、そんなふうには見ていない気がします」
ただの拾われ者を、ただの元上役を、あんなふうに案じたりはしない。
立場を捨ててまで助けたりもしない。
あんな軽口を、あんな距離で叩けたりはしないはずだ。
高成の言葉を聞いても、まいの感じていたことは変わらなかった。
いや、そうであってほしいと願ったのかもしれない。
高成が少しだけ目を細める。
「そうだな。初めて会った時から、あの態度は変わらない」
「……」
その声音に、強い感情はなかった。
けれど言葉どおりなら、まいが感じたように、小瀬は家にも立場にも、あまり縛られない人なのだろう。
自分に対しても、最初こそ値踏みするような視線はあったが、農民だから、囚われていた娘だからと蔑むようなことはしなかった。
今朝だって、貴重な食べ物を当たり前のように分けてくれた。
自分にそう接してくれたように、小瀬が身分の垣根を越えて、高成に気安く話しかけていたのだと想像するのは容易かった。
(良かった……)
この人のこれまでの人生が、孤独ばかりでなかっただろうことに、少しだけ胸が暖かくなる。
だが、続けられた高成の声は、そのぬくもりへ水を差すように冷えていた。
「だから、今も信用はしている」
──また、その言葉だ。
しているのは、“信用”だけ。
「…………」
まいは小さく眉を寄せる。
「違うもの、なんですか」
「違う」
高成は即答した。
「信用は、これまでの行動や、腕や勘に対して置くものだ。信頼は……」
そこで、高成は言葉を切る。
信頼は、何に対して置くものなのか。
まいは黙ってその先を待った。
高成はすぐには続けず、視線を林の向こうへ投げる。断言する声だった。
「……裏切らないと、確信できる相手に置く。そう、決めている」
まいは、その横顔を見た。
ふいに、高成と目が合う。
心臓が、嫌な音を立てた。
その目はまるで、
──お前だって、そうだろう。
そう言っているような気がした。
(なんで……)
優しい人だと、そう思うのに。
見透かすような眼差しだけは、どうしても怖い。
まいはその視線を、長く受け止めていられなかった。
言葉は浮かばなかった。
高成のその言葉を、ただの人間不信だと言い切ることができない。
なぜなら。
──その視線の意味は、当たっていたから。
この人は自分を守ってくれる。
そう“信じて”はいる。
けれど、
“裏切らない”
そう信じきれるほど、そのすべてを知っているわけではない。
怖い。
あの日、差し伸べられた手が、いつか冷たく振り払われるかもしれないことが。
信じきってしまえたら、どれだけ楽だろう。
だからこそ今も、こうして聞くことをやめられない。
それがつまり、この人の言う「信用しているが、信頼はしていない」ということなのかもしれなかった。
その気づきは、思ったよりずっと冷たく胸へ落ちた。
(どうして……)
近づいたと思ったのに、また遠くなる。
きっと今、話してくれたことも、自分が聞きたそうにしていたから触れさせてくれた、本心のほんの一部にすぎないのだろう。
いくらこうして物理的な距離が近くても、
自分が知っているのは、高成のほんの一部だけだ。
その事実を、改めて本人から突きつけられたような気がした。
まいは言葉を失う。
高成は、もうこちらを見ていなかった。
視線は村の方へ向いている。
──小瀬が消えた道の方へと。
さっきまで静かだった横顔から、さらに熱が引いていく。
まいの背筋に、冷たいものが走った。
「生田さん……?」
高成は答えない。
ただ、ほんのわずかに顎を引き、耳を澄ませている。
まいも息を止め、周囲の気配を探った。
風の音。梢の擦れる音。
遠くの鳥の声。
それだけしか聞こえない。
なのに、高成は動かない。
動かずに待っている。
何かを確かめるように。
さっきまでの会話も、かすかな温かさも、胸の寂しさも、すべてが遠のいていく。
まいは慌てて息を呑み、高成のそばへ身を寄せた。
見上げたその横顔は、もう先ほどまで過去を語っていた人のものではなかった。




