三日月
───眠りの底からまいを引き上げたのは、寒さだった。
はっと目を開ける。
頭がまだ鈍く、一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
遅れて、黒々とした木々の影、湿った土の匂い、燃え尽きた枯葉の匂いがして、それらが少しずつ意識の中で結びつき、山中で野宿をしていたことを思い出す。
頬を撫でる夜気は水のように冷たく、指先の感覚まで薄くしていく。焚き火の熱はもうとうに衰え、残り火が灰の底でかすかに息をしているばかりだった。
――見張りをするつもりだったのに。
少しだけ目を閉じるつもりだった。
ほんの少し、身体を休めたら起きるつもりでいたのに。
また、眠ってしまったのだ。
叱られる、とは思わなかったけれど、二人と顔を合わせるのが気まずい。
自分がふがいなくて、申し訳なさ過ぎて、胸が縮むようだった。
だが、慌てて起き上がろうとしたところで、羽織の隙間から差し込んだ刺すような冷気に、まいは動きを止めた。
(っ寒い……)
当然だ。暦では冬の真っ只中なのだから。
焚き火を挟んだ向こうで、小瀬は横になっていた。片膝を立て、肩を木に預けるようにして眠っている。長い手足を無造作に投げ出した姿は無防備にも見えるのに、どこか隙がない。火の赤が届かぬせいで、その輪郭はすでに夜の一部になりかけていた。
(生田さんは……)
当然のように、すぐに高成の姿を探す。
高成の事だ。起きて見張りをしているに決まっている。
こんなに寒いのに、きっと少し離れた場所で。一人で。
(いた)
高成は、案外すぐ近くにいた。
数歩離れた先の岩に、背を預けるようにして座っている。
やはり眠ってはいない。
だが、その横顔には、いつものように張り詰めた冷たさはなかった。
その目線は静かに空へ向けられていた。
その目線の先を、まいも仰ぎ見る。
流れの速い雲の合間を切り裂くように、鋭く白い光を放つ三日月。
高成はその月を見ているようだ。
まいは視線を戻し、再び高成を見た。
月光に照らされた、その横顔の頬の線も、鼻筋も、伏せた睫毛の影も、夜の冷たさの中でひどく研ぎ澄まされて見える。
(初めて会った日みたい……)
高成が、自分を村から攫ったあの日。
あの時、月明かりに照らされる姿を見て、まるで、刀のような人だと思ったのを覚えている。
美しいのに温度がなく、触れれば傷つくと一目でわかるもの。人の形をしていても、人の情とは遠いところにいるように見えるもの。
けれど、今は少し違う。
それは、自分が高成という人物を知ったからか。それとも、ただ、そう思い込んでいるだけか。
今、その目には、確かに感情が滲んでいる気がした。
悲しんでいるような、
むしろ、怒っているような。
それが何なのかは、言葉は見つからない。
(……生田さん)
心の中で、静かに名前を呼ぶ。
風が梢を微かに鳴らし、焚き火の灰を攫っていく。
見つめる横顔は綺麗だ。
このまま留めておきたい程に。
でも、
自分と同じ月を見ているはずなのに、その目は、もっと遠いところに向いている気がした。
(生田さん)
もう一度、呼ぶ。
その目を、どうしても、こちらに向けて欲しかった。
そして問いたかった。
───この月に、何を見ているのかと。
どれほどそうしていたのかわからない。
ふいに、高成の視線が動いた。
「……起きたのか」
低い声が、夜の冷たさをわずかに震わせる。
まいはびくりと肩を揺らした。
気づかれていなかったわけではないらしい。
「ッ、はい」
返事をしながら身を起こす。乱れた髪を慌てて押さえ、衿元を引き直す。だが、それで整えられるのは見た目だけで、胸の内の気まずさまではどうにもならない。
「あの、見張りをしようと思ったんですが……すみません」
羽織を畳もうとしたところで、高成は短く言った。
「気にするな。休める時に休んでおけ」
責める響きはなかった。
その気遣いがかえって申し訳ない。
まいは羽織を抱えたまま横にはなれなかった。
高成が、ふいにこちらを見る。
「どうした」
「ちょっと、目が冴えてしまって……」
その返答に、高成はすぐには言葉を継がなかった。
わずかに目を伏せ、それから再び月を見上げる。白い光が睫毛の影を頬に落とした。
そして、その横顔のまま、吐き出す息に紛れるように低く言った。
「なら、少し話に付き合え」
まいは思わず肩を強張らせた。
高成の方から、こんなふうに自分へ言葉を向けてくることは、これまでほとんどなかったからだ。
何を話されるのかと、わずかに身構える。
高成はまいを見つめ、静かに問いかけた。
「……お前には、俺がどう見える」
その問いに、まいは目を瞬いた。
「え……?」
何を聞かれているのかわからず、まいは混乱した。
(………私から見た、生田さん……?)
目の前にいる高成は、三日月の光に半身だけを照らされ、もう半分は影の中に沈んでいた。
ただ主観として問われているのなら、今、自分の目に映る姿そのままだと答える。
強くて、美しい。なのに、全てを見せてくれない、未だによくわからない人。
けれど、聞かれているのはそういうことではないのだろう。
高成はわずかに目を逸らし、言いにくそうに口を開いた。
「あの時、俺に効いたのは法力だ」
まいは息を呑む。
高成を傷つけたものが何なのか、気にならなかったわけではない。
疑ったこともあった。人離れした跳躍も、常人とは思えぬ強さも、見てきた。
(法力は異形にしか効果がないって、聞いたことがある)
つまり高成は、自分が人に見えるのかどうかと、そう聞いているのだろう。
(わからない。でも、それははっきりさせなきゃいけないことなの?)
城から連れ出されたばかりの頃とは違い、それはまいの中で、いつの間にか重要ではなくなっていた。
高成と過ごす中で、ずっと気になっていたのは別のこと。
この人が何を考えているのか、なぜここまでして自分を守るのか、それだけ。
こうして問われると、求められている答えがない。
だが、高成は今こちらを向いている。
だから、どんな形であれ答えたいと思った。
まいは言葉を探すように、ゆっくり息を吸う。
そして、辿々しく、だが、静かな声で告げた。
「法力が、どうして生田さんに効いたのかは……私にはわかりません」
「……」
「それに」
高成の眉が寄る。
「生田さんは、少し近寄りがたくて……何を考えているのか、わからないことも多いです。でも」
そこで言葉を切って、まいは静かに高成を見た。もしかしたら気を悪くしたかもしれないし、的外れな答えに呆れているかもしれない。
でも、まいが本当に伝えたいのは、
「優しい人です」
それだけだ。
高成が、意外そうに眉を動かした。
「優しい人?」
「はい」
「お前に、優しくした覚えはないが」
その返しに、今度はまいの方が驚く。
自分を檻から連れ出し、追っ手から守ってくれてる人が、そんなことを言うのか。
高成の言うように、言葉はぶっきらぼうで慰めも言わないし、最初は冷たい人だと思った。
だけど、その手がまいを痛めつけたことは一度もない。
怖がれば待ち、食べろ、眠れと短く言う。まいの体はいつも、そこに生かされている。
それを優しさと呼ばないのなら、何と呼べばいいのか、まいには分からない。
だけど、どんなに言葉を尽くしたところで、高成は首を振るのだろう。「目的のためだ」と。
だから、まいはただ繰り返した。
「それでも、私にとって生田さんは……そういう人です」
しばらく沈黙が落ちる。
だけどこの沈黙は、さっきのように気まずくはなかった。
焚き火の底で、枝が小さく音を立てて崩れる。
やがて高成がごく小さく、独り言のように呟いた。
「……俺は、俺か」
まいに届いたかどうかもわからぬほどの声だった。
そのあと、呆れたように言う。
「やはりお前は、人がよすぎる」
予想通りの答えだった。
だけど、想像とちがったのは、その顔がいつもより柔らかかったこと。
(なんで、そんな顔……)
まいの胸が、どくりと大きく鳴る。
張り詰めたものが緩んだような、見慣れぬ表情。息をするのも忘れたように、ただ見つめることしかできなかった。
しかし、その顔は直ぐに隠されてしまう。
「話は終わりだ。明日は早い。さっさと寝ろ」
声音は、いつもの高成に戻っていた。
さっきの揺らぎなど最初からなかったかのように、短く、素っ気ない。
「私はもう大丈夫です。むしろ生田さんの方が……」
「いい。寝ろ」
はっきり強い声だった。
まいは言葉を呑み込む。
「…………」
「明け方には起こす」
今度は少しだけ和らいだ声。
だけどこういう時、高成は譲らないのだ。
「……分かりました。ありがとうございます」
だからその声に従って、羽織を引き寄せ、包まるようにして横になる。
目を閉じても、まぶたの裏にはあの横顔が残っていた。
枝葉の隙間に懸かる三日月は、眩しさのせいで細かな陰影までは見えない。
けれど、見えないからこそ、知りたかった。
光の当たる輪郭だけではなく、その裏に沈んだ影さえも。
───この人は何を抱えているのだろう。
疲れた身体は、それ以上考えることを許さなかった。
冷えた空気の中で、意識はふたたびゆっくりと沈み、月の白さも、焚き火の赤も、やがて遠のいていく。
そして、
次に目を覚ました時、肩を軽く叩かれていた。
薄く目を開ける。
空は白み始め、木々の梢の向こうに夜の色が少しずつほどけている。燃え尽きた焚き火の灰からは、もう熱の気配もほとんど消えていた。
「起きろ」
低い声に促され、ぼやける視界のまま、慌てて身を起こす。
「……おはようございます」
まだ眠気の残る目を擦ると、目の前には高成がいた。
夜中に月を見ていた時の揺らぎは、今はどこにも見えない。朝の冷えた光の中、その顔はただ静かで、いつものように隙がなかった。
「お身体は大丈夫ですか」
掠れる声で、ほぼ無意識のようにして聞いていた。
高成はしばし黙って、そして、
その目に、ほんの僅かに苦い色が宿る。
「問題ない。もう心配するな」
そう言って立ち上がる。
動作は滑らかだった。
昨夜のようなふらつきも、日中の重さも、いまはほとんど見えない。足取りもしっかりしている。少なくとも、見た目には本当に平気そうだった。
それがかえって、まいの胸に小さく引っかかった。この人は、すぐ弱みを隠そうとする。
「……心配、しますよ」
聞こえるか聞こえないかの声で、思わずぼやく。
人のことはすぐに気にするくせに、自分のこととなると、この人はまるで何でもないような顔をする。それが、ひどくもどかしい。
高成は、その言葉を聞かなかったふりをしたようだった。
まいの脇を通り過ぎ、焚き火の跡の向こうへ向かう。
小瀬はまだ木にもたれたまま、目を閉じていた。
高成はその前に立つと、躊躇なく足先で軽く小突いた。
「起きろ」
容赦のない声だった。
小瀬の肩がぴくりと揺れる。
次の瞬間、片目だけを開けて、高成を見上げた。
「……朝から扱いひでぇな」
眠そうな声だったが、口元にはいつもの薄い笑みが浮かんでいる。
どうやら、完全に眠り込んでいたわけでもないらしい。
高成は相手にせず、短く言った。
「行くぞ」
小瀬は大きく欠伸をひとつし、ようやく身体を起こした。
朝の光が、木々の隙間から三人の間へ静かに落ちていた。
***
三人はそれぞれに目を覚ましたあと、簡単な身支度を整えた。
整えるといっても、大したものはない。着物の乱れを直し、夜露を吸った羽織を軽く払う程度だ。
続けて、まいも見よう見まねで、二人のしていることを手伝おうと手を動かした。
昨夜の小さな火は、もう跡しか残っていない。黒くなった枝の端を土へ押し込みながら、こうして一つずつ痕跡を消していくのだと、今さらのように知る。少し離れたところでは、小瀬が自分の馬の腹帯を締め直し、高成は漆駒の鼻先に触れて、具合を確かめるように首筋を撫でていた。
朝の光の下では平静に見えるその動きも、よく見ればわずかに鈍い。馬具に手を掛けたあと、ほんの短く息を吐くたび、まだ身体の奥に疲労が残っているのがわかった。見た目には隙を見せないのに、そうしたごく小さな綻びだけが、万全ではないことを黙って物語っていた。
朝の光は、もうすっかり高くなっていた。冷えはまだ残っているのに、日差しだけは容赦なく明るい。村へ入るなら、もうぐずぐずしている暇はないのだろう。
まいは手を止め、二人の方を見た。
「あの……今日は、どうするんですか」
問いかけると、高成がこちらを振り向き、短く言った。
「まずは、こいつが先の村を見る」
こいつ、という言い方に、小瀬がすかさず片眉を上げる。
「まったく、助けた礼がこれだぜ」
わざとらしく肩を落とし、それからまいの方へ顔を向ける。
「あんまりだと思わねぇ?」
急に振られて、まいは目を瞬いた。
「えっと……」
何と返せばいいのか分からない。たしかに、危ないところを助けてもらったばかりなのに、そのままさらに働かせているようにも見える。
返答に窮していると、高成が低く言った。
「……うるさい」
鋭い視線が、小瀬へ向く。
小瀬はまるで堪えた様子もなく、むしろ面白そうに口元を歪めた。
「冗談だって。ったく、朝から愛想のねぇことで」
そのやり取りを見て、笑うつもりはなかったのに口元が少しだけ緩む。
高成の視線が、ふいにこちらへ戻る。
まいは、笑っていたことを見つかった気がして、慌てて顔を引き締めた。
高成は一瞬だけその表情を見たが、すぐ何事もなかったように目を逸らす。
「お前は俺と待機だ」
声はいつも通り低く、簡潔だった。
その一言で、まいも少しだけ気持ちを引き戻される。
「はい」
小さく頷く。
笑っていられるような状況ではないのだ。これから小瀬が先に村へ入り、そこで何を見て、何を持ち帰るのかで、今日の動きは決まる。南雲の目があるかもしれない。村人に怪しまれるかもしれない。何もかも、まだ不確かだった。
高成はそれ以上説明を重ねず、視線を小瀬へ向けた。
「長居はするな。見たら、すぐ戻れ」
「分かってるよ」
小瀬は手綱を取りながら、軽く手を振る。
「飯と水、寝床。それと、面倒そうな奴がいるかどうか見てくりゃいいんだろ」
高成は黙って頷いた。
まいはそのやり取りを見守りながら、自分の袖をそっと握る。
昨夜よりは落ち着いている。
けれど、何も終わっていないことも、ちゃんと分かっていた。
朝の光の下で、三人はようやく次の動きの形を定めつつあった。




