小さな火
そこから先の道のりに、大きな変化はなかった。
三人は人目を避けるように街道を外し、南東へと進んだ。
雪解けのぬかるみは深く、馬の歩みはどうしても鈍る。
高成は必要なこと以外ほとんど口を開かず、小瀬がときおり先へ出て、道の様子を確かめた。
東南の寒村地帯までは、本来なら馬で半日の距離だった。
だが、街道を避け、雪解けの悪路を選んで進んだため、その日のうちに村の外れへ届くことは叶わなかった。
陽が傾く頃には、まいの身体もすっかり冷えと疲れで強張っていた。
背後の高成もまた、朝よりはいくらか落ち着いているものの、決して楽ではないのが伝わってくる。
その時、先行して様子を見ていた小瀬が戻ってきた。
「少し休めそうな場所がある。今夜はそこで夜を明かそう」
高成も短く頷く。
小瀬が案内したのは、斜面の中腹、雑木の影に隠れるように窪んだ場所だった。
背後には苔むした岩があり、正面だけがわずかに開けている。
谷から外れているぶん地面の湿りもまだましで、落ち葉の下の土も深くは沈まない。
「ここなら風も避けれるし、火も、小さくなら使えそうだな」
そう言って小瀬は、足元の湿りを確かめるように、土を軽く蹴った。
湿りはあるが、夜を凌ぐには十分だった。
三人はそこで、それぞれ馬を下りた。
まいは足元のぬかるみを確かめながら、慎重に鞍から身を滑らせる。長く馬に揺られていたせいで、地に足がついた瞬間、膝がわずかに心もとなくなった。転ばぬよう息を詰め、漆駒の鞍へ手を添えたまま体勢を整える。
それから、先に下りていた高成を振り返った。
今朝、岩屋の中で見た時には、あれほど青白かった顔が、夕の光の中ではいくらか血の気を取り戻して見える。西日のせいもあるのだろう。けれど、それだけではない。足取りも、昼に岩屋を出た時よりは幾分ましだ。まだ本調子ではないにせよ、少なくとも、あの場で倒れ込んでいた人とは別人のように、静かな張りが戻っていた。
(……よかった)
胸の奥で、そっと息をつく。
その視線に気づいたのか、高成がふいにこちらを見た。
目が合う。
まいは思わず、はっとして顔を逸らした。
何を見ていたのか、聞かれるわけでもないのに、見つかったことが妙に気恥ずかしい。自分でもよく分からないまま、漆駒の首筋へ手を伸ばして誤魔化すように撫でる。
高成は何も言わなかった。
ただ、そのまま静かに馬具へ手を掛け、周囲の様子をひと渡り確かめる。
少し離れたところでは、小瀬がもう動き始めていた。
「その辺の乾いたの、拾っといてくれりゃ助かる」
そう軽く言い置いて、雑木の根元や岩陰から、折れた細枝や枯れ葉を手際よく集めていく。湿りの強いものは避け、指先で確かめるようにして、使えそうなものだけを選っている。さっきまで馬を走らせていた人間とは思えぬほど、動きに無駄がない。
まいも慌てて周囲を見回し、足元の枯れ葉を拾い集めた。
高成はそれを制することもなく、馬を窪地の奥寄りへ引いていく。漆駒も、小瀬の馬も、長い移動に疲れているはずなのに大人しかった。主たちの空気を読むように、余計な音を立てない。
やがて、小瀬が集めた細枝を低く組み、その下へ乾いた枯れ葉を差し込む。懐から火打ちを出し、石を打つと、薄暗くなり始めた窪地の中に、短い火花が散った。
一度ではつかない。
二度、三度と打ち、ようやく枯れ葉の端が赤く燻る。
小瀬は腰を落としたまま、それをふっと静かに吹いた。
小さな火が、枝の隙間で息を吹き返す。
ぱち、と細い音がした。
それだけで、場の空気が少し変わる。
夜を凌ぐための火だ。
大きくはしない。煙も極力抑える。それでも、明かりと熱がそこにあるだけで、心まで冷え切らずに済むような気がした。
まいは、燃え始めた小さな火を見つめる。
その向こうで、高成が火から少し距離を取る位置へ腰を下ろした。いつものように、周囲へ気を配れる場所を選んでいる。
顔色は戻って見える。
けれど、完全ではないことも、まいにはもう分かる。
火の明かりはまだ弱い。
夕暮れは、もうすぐそこまで来ていた。
***
火がようやく落ち着くと、小瀬は腰を下ろしたまま、何とはなしに皮袋の中を探った。
だが、すぐに手が止まる。
「……ねぇな」
軽く言っただけだった。
まいは火の向こうから、その手元を見た。
袋の口は開いている。けれど、中身はもうほとんど空らしい。小瀬は底を指先で探るようにしてから、諦めたようにそれを脇へ置いた。
「干し柿も、もう終わりか」
小瀬が肩を竦める。
高成は火から少し離れた位置に腰を下ろしたまま、短く視線だけを向けた。
「返せるものは何も無い」
「分かってるよ。言ってみただけだ」
小瀬はそう返し、火に細枝を一本くべた。
ぱちぱち、と小さな音がする。
まいは自分の膝の上に置いた手を見た。
昼に食べた握り飯が最後だったのだと、今さらのように実感する。腹の底はもう軽い。空腹はある。けれど、疲れがそれを上から押さえつけているようでもあった。
「今夜は、水だけだな」
小瀬の声は静かだった。
責めるでも、焦るでもなく、ただ事実を置くような言い方だった。
そして、火を見つめたまま鼻で笑う。
「まぁ、死にゃしねぇだろ。一晩くらい」
軽い口ぶり。
だが、その目は笑っていなかった。
「明日には村へ入る。そこで何か手当てする」
高成が続ける。
まいは小さく頷いた。
村へ入る。
明日の目的が、はっきりとした形を持った気がした。
隠れるためだけではない。食べるものも、水も、休める場所も、もう必要だった。
火の向こうで、小瀬が土へ肘をついたまま、ぼそりと言う。
「飯もねぇ、道も悪ぃ、追っ手はいつ来るか分からねぇ。いい旅だな」
高成は答えない。
代わりに、火の揺らぎの向こうで、その横顔だけがわずかに険しくなる。
まいは火に両手をかざした。
熱は弱い。
それでも、ないよりはずっとましだった。
今夜を越えれば、明日が来る。
そう思いながら、まいはじっと小さな炎を見つめた。
火が落ち着き、三人の間に小さな沈黙が落ちた。
再び、ぱち、と細枝が鳴る。
まいは揺れる火を見つめたまま、ぼんやりとその音を聞いていた。眠気が、じわじわと身体の重さに混じってくる。
その時。
「そういや」
小瀬が火の向こうで、何でもないように口を開いた。
「ちゃんと名乗ってなかったな、俺」
まいが顔を上げる。
小瀬は膝を立てたまま、火を見つめていた。
「小瀬景久。南雲じゃ、生田家に仕えた。
……ま、元、だけど」
さらりとした言い方だった。
けれど、その声音には今朝ほどの棘がない。
まいは少しだけ戸惑ってから、小さく頭を下げた。
「……まい、です」
言ってから、どこかくすぐったいような気持ちになる。
改めて名乗るのは、妙に不思議だった。
「へぇ」
小瀬はちらとこちらを見る。
「たま、じゃなくて?」
まいの肩が、ぴくりと揺れた。
その反応を見て、小瀬は小さく笑う。
「安心しろよ。南雲に売る気があんなら、昨日のうちに売ってる」
軽い。
けれど、冗談だけではない響きだった。
まいは返事の代わりに、ただ小さく頷いた。
火の向こうで、高成は何も言わない。
だが、その沈黙は、止めるものではなかった。
「……まい、ね」
小瀬はその名を一度だけ口の中で転がすように言ってから、肩を竦めた。
「じゃ、改めてよろしく。まいちゃんでいいよな。姫さんって柄でもなさそうだし」
まいは少しだけ目を丸くし、それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……はい」
返した声は小さかったが、さっきまでよりは少しだけ柔らかかった。
そのまままた、火を見つめる。
揺れる橙を追っているうちに、瞼がだんだん重くなっていく。
隣では高成が動かない。
向かいには小瀬がいる。
まだ何も分からないことばかりなのに、不思議と、さっきよりは火の向こうの影が遠く感じなかった。
(見張りくらいは、しないと)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
高成はまだ本調子ではないはずだ。
小瀬が加わったとはいえ、助けられてばかりでいるわけにもいかない。
せめて今夜くらい、自分も起きていなければ――そう思うのに、火のぬくもりは思った以上にやさしく、冷えていた手足の先から少しずつ力をほどいていった。
ぱち、と薪が爆ぜる。
その音に、まいはかすかに瞬きをした。
起きていようと、意識の端ではちゃんと思っている。目を閉じてはいけない、眠ってしまえばまた守られるだけになる、と。けれど、瞼は重くなるばかりで、火の輪郭も揺れながら滲み始める。
少しだけ、と思った。
ほんの少し、目を休めるだけでいい。声がしたらすぐに起きればいい。高成も小瀬もいるのだから、今すぐ何か起きるわけではない。そう自分に言い訳した時にはもう、身体の方が先に沈みかけていた。
肩から力が抜ける。
こくり、と一度、頭が落ちる。はっとして持ち直したものの、それも長くはもたなかった。
火の音が遠くなる。
夜気の冷たささえ、もうはっきりとは感じない。
次にまぶたが落ちた時、まいは抗えなかった。
そのまま小さく身体を丸めるようにして、焚き火のぬくもりのそばで、静かに眠りへ落ちていった。




