譲らぬ手
二人が岩屋の外へ出ると、もう日は高く上っていた。
山裾の空は雲ひとつなく晴れている。昨夜の湿りを残していた地面も、今は少し濡れている程度で、草の先に残った露だけが白く光っていた。
その明るさが、まいの目にはひどく眩しい。
一晩ほとんど眠れていないせいか、光が刺さるように痛い。岩屋の薄暗さに慣れていた目には、昼の色があまりに強すぎた。
思わず細めた視界の先で、高成が外へ出てくる。
歩けてはいる。
けれど、足元はまだわずかにおぼつかない。昨夜よりましになったとはいえ、完全に戻ったわけではないのが、まいにも分かった。
日の下で見るその顔は、岩屋の中にいた時よりさらに青白い。
小瀬が馬を引いてきながら、一瞬だけ足を止める。
「ひでぇ顔だな」
独り言のような声音だった。
高成はそれを横目に見ただけで、何も返さない。
その先から、漆駒がゆっくりと歩いてくる。
草を食みながらだったせいか、口元をわずかに動かしている。昨夜の騒ぎなどなかったかのように、毛艶もよく、脚取りもしっかりしていた。
その姿に、まいは胸の奥が少しだけ緩む。
漆駒は高成の前まで来ると、鼻面をすっとその肩へ寄せた。
押しつけるほどではない。
ただ、確かめるように。
高成は短く息を吐き、首筋を軽く撫でた。
「……平気だ」
安心させるような声音だった。
漆駒はもう一度だけ鼻を鳴らし、それからようやく満足したように耳を動かす。
まいは少し離れたところで、その様子を見ていた。
高成の手が止まる。
そして、こちらを見た。
「まい」
低く呼ばれて、まいははっと顔を上げた。
その一声だけで、次に何を言われるのか、半ば分かってしまう。
けれど、昨日の夜に見た高成の顔色と、今の足元の危うさが、胸の内でまだ消えてはいない。
まいは、呼ばれたままその場に立ち尽くした。すぐには返事ができなかった。
「……えっと」
言い淀んだまま、ほとんど無意識に、視線をさ迷わせる。
自分を前に乗せて庇うような形になれば、また高成に負担がかかる。
昨夜のふらつきも、今の青白い顔色も、まだ目に焼きついていた。
(それなら……小瀬様に頼んだ方が)
そう思って、視線を小瀬へ移す。
その意図を察したのだろう。
小瀬が肩を竦めて、気楽な調子で言った。
「無理すんなよ。俺が運ぶ」
だが、高成は答えない。
ただ、まいを見ている。
何も言わないのに、譲る気がないことだけは、はっきりと分かった。
その沈黙の重さに、まいの喉が小さく詰まる。
高成がまだ小瀬を完全には信用していないことは分かっている。
昨夜、あの場で助けられた。
今も敵意はない。
それでも、高成にとってはまだ「預けていい相手」ではないのだ。
そして、たぶん。
(私も、まだ疑ってる…)
自分もまた、そうなのだろう。
小瀬が敵ではないと分かっても、安心しきれない。
結局、最後に目が向くのは高成の方だ。
まいは小さく息を吸い、視線に押されるように、一歩高成の方へ足を進めた。
高成は何も言わない。
ただ、漆駒の脇に立ったまま、当たり前のように手を差し出してくる。
乗るのを補助するための手だ。
まいはその手を見た。
そして、いつもより少し控えめに、自分の手を差し出す。
指先が触れかけた、その瞬間だった。
高成の手が、先にまいの手首を捕らえた。
「……っ」
ぐいと引かれる。
驚くほど乱暴ではない。
けれど、ためらいを挟ませない強さだった。
そのまま高成は、もう片方の手をまいの腰に回す。
普段より半歩ぶんほど強引に、問い返す隙も与えず、漆駒の背へ押し上げた。
ふわりと視界が持ち上がる。
足場を確かめる間もないまま、次の瞬間にはもう鞍の上だった。
漆駒が小さく耳を動かす。
高成はすぐあとに自分も騎乗し、まいの後ろへ収まる。
動きに無駄はない。だが、その着地のわずかな重さに、まだ万全ではないことが滲んだ。
まいは息を詰めたまま、前を向く。
背後から、高成の気配が近い。
昨夜とは違う。
今は意識のある重みとして、はっきりそこにいる。
小瀬が、呆れたように鼻を鳴らした。
「……頑固だねぇ」
高成は答えない。
ただ、まいの脇を挟むようにして手綱を取り、漆駒の首筋を軽く叩いた。
まいは、言いかけた言葉を飲み込む。
すみません。
そう言いたかった。
けれど、もう乗せられてしまった以上、それを口にするのは、自分が安心したいだけの我儘にも思えた。
漆駒の背の上で、まいはそっと肩を縮める。
後ろの高成の呼吸は、まだ完全には整っていない。
それでも、少なくとも今この人は、自分を手元に置く方を選んだのだ。
それが嬉しいのか、苦しいのか、自分でも分からないまま。
まいはただ、落ちないように前の鞍へ手を添えていた。
読んで頂きありがとうございます。
プロローグを昨日投稿しています。
お時間があればそちらも読んでいただけると嬉しいです。
やっと作品の顔ができたなって感じです。




