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腹の虫





「――ま、その前に」


高成が岩壁に手をつき、立ち上がろうとした、その時だった。


小瀬が、場にそぐわぬほど軽い調子で口を挟んだ。


「まずは腹拵えしましょうや」


言うなり、どかりと岩屋の中へ腰を下ろす。

手に持った革袋の中から竹の皮に包まれた握り飯を二つ、さらに干し柿をいくつか取り出して、三人の間の岩の上へ放るように置いた。


高成の眉が、わずかに寄る。


「……そんな暇はない」


低く言って、そのまま身支度を整えようとする。立ち上がったばかりの足元はまだ万全には見えなかったが、それでも止まる気はないらしい。


まいは二人の間で視線を揺らした。


確かに、ここに長く留まれないことは分かる。けれど、握り飯の白さを見た途端、自分でも意識していなかった感覚が急に輪郭を持った。


(お腹すいたな…)


そう思った途端、ぐうぅ……と、思いのほかはっきりした音が、静かな岩屋に響いた。


「――っ!」


まいは反射的に腹を押さえた。


遅れて、それが自分の腹の音だと気づく。


顔が、一気に熱くなった。


「す、すみません……」


我ながら、空気が読めないにも程があるだろう。


思わず顔を覆うようにして謝った。


岩屋の中に、妙な沈黙が落ちる。


高成も、小瀬も、何も言わない。


(恥ずかしい……)


消えてしまいたいような気持ちになって俯いた、その次の瞬間だった。


「ははっ」


小瀬が、堪えきれなかったように笑い出した。


「ははは、そりゃそうだろ。高成、姫さんも腹減ってることだし、少しくらい大丈夫だって」


からからとした笑い声だった。

意地の悪い響きではない。だが、恥ずかしいものは恥ずかしい。


まいは顔を隠したまま、そろそろと高成を見上げた。


高成は一度、握り飯へ視線を落とし、それから小瀬の顔を見た。法力の痺れがまだ残っているのだろう。無理にでも動こうとしていた気配は、今も消えていない。けれど、ほんの短い思案のあと、静かに息を吐いた。


「……そうだな」


低く落ちたその一言で、空気が少し緩む。


高成は小瀬から少し距離を取った場所へ腰を下ろした。完全に気を許したわけではない。その座り方だけで分かる。


まいは今度は自分がどこへ座ればいいのか分からず、一瞬立ち尽くした。


高成の隣か。

それとも、小瀬の近くか。


迷った末、どちらにも寄りすぎない、その中ほどにそっと腰を下ろす。


「昨日の残りだ。文句言うなよ」


小瀬はそう言って、握り飯の片方を高成へ軽く放った。


高成は片手でそれを受け取る。


もう一つは、まいの方へ投げずに、そのまま手渡してきた。


思いがけず丁寧な渡し方に、まいは少しだけ目を瞬く。


「ありがとうございます、小瀬様」


「どういたしまして」


軽い返事。


まいは小さく頭を下げ、両手で握り飯を受け取った。冷えてはいるが、米の感触がまだ残っている。竹の皮の匂いと混じって、ひどく懐かしい食べ物の匂いがした。


小瀬は自分の分らしい干し柿をひとつ摘み、まるでただの休憩でもしているかのような顔で噛みちぎる。


高成は手の中の握り飯を見下ろしていたが、やがて何も言わず口へ運んだ。


それを見て、まいもようやく一口食べる。


冷たい。

少し硬い。

それでも、胃へ落ちていく感覚だけで、身体の奥にじわりと力が戻るようだった。


しばらくの間、三人は黙っていた。


咀嚼する音だけが、湿った岩屋の中に小さく響く。外では風が木の枝を揺らし、馬が一度だけ鼻を鳴らした。


その静けさを破ったのは、小瀬だった。


「で、高成」


干し柿を噛んだまま、何でもないように問いを投げる。


「この先はどうするつもりなんだ?」


高成はすぐには答えなかった。


小瀬は軽い声色のまま、その目だけが静かに高成を見ている。


「お前しか、知らねぇんだぜ」


その一言に、岩屋の空気がわずかに変わる。

目的地は、この逃亡の果ては、どこへ向かっているのか。


少しの沈黙のあと、高成は静かに言った。


「……西は捨てる」


まいは思わず顔を上げた。


西。


その方角に何があるのか、自分は知らない。ただ、高成が以前、守護大名の領地は西だと言っていたことだけは覚えていた。南雲と無関係ではないはずの土地へ、向かうつもりだったのか。問いは浮かぶのに、口にはできない。


向かいでは、小瀬だけがわずかに目を細めた。


その一瞬の表情に、何か意味を読んだ気配があった。

けれど、小瀬も、ここでは何も問わない。


「じゃあ、このまま南へ下るか。南雲の手が届かねぇところまで」


「いや」


高成は短く言った。


「南へ抜ければ、動きは読まれやすい。忠興がそのまま追うなら、今のこちらは機動で劣る」


淡々とした声だった。小瀬が返す。


「ま、他国へ入るにしても、女連れで境を越えれば目立つ。今の状態でやる道じゃないな」


まいは、手の中の握り飯へ視線を落とした。


“目立つ”


その中に、女だからという理由以外の物も感じる。何も言い返せず、久しく気にしていなかった自分の髪を、ほぼ無意識に掴んでいた。


小瀬の言葉の真意はわからない。ただ、足手まといになっているという事実だけが、冷たく胸に落ちる。


小瀬はそれ以上そこには触れず、軽く顎を引いた。


「……なら、残るは東南か」


高成は頷いた。


「領境が曖昧な寒村地帯がある。南雲も、表立って兵を入れ続ければ、南との火種になる」


「宿場みてぇに、人目もねぇ、と」


「寒村は口が重い。時も稼げる」


そこまで聞いて、小瀬はようやく肩の力を抜いた。


「じゃ、決まりだな」


そう言って、干し柿を飲み込むと、さっさと立ち上がる。


「馬の支度してくる」


高成も、それに続こうとするように腰を浮かせた。

だが小瀬は、ひらひらと片手を振ってそれを制した。


「いい、いい。そのくらいは俺のこと信用してくれ」


高成は露骨に眉をひそめた。

小瀬は気にした様子はない。


「何かしようとしても、漆駒に蹴られるのが目に見えてる。あいつ、俺にはちっとも懐きやしねぇ」


「…………」


高成がそこで初めて少しだけ言葉に詰まったのが分かった。

わずかな沈黙のあと、諦めたように息を吐き、もう一度腰を下ろす。


それを見て、小瀬はさらに、にやりと口角を上げた。


「それに、ちゃんとその子に礼を言っとけ」


まいは瞬きをした。


その子。


誰のことだろう、と一瞬本気で考える。

だがすぐに、小瀬のいたずらっぽい視線が自分へ向いているのを見て、自分のことだと気づいた。


高成は、嫌な予感でもしたように眉を寄せている。


小瀬はその顔を面白そうに眺めてから、さらに追い打ちをかけるようにまいと高成を見て言った。


「夜通しお前のこと温めてくれてたんだぜ。……人肌でな」



───何を言ってるんだ、この人は。



まいは一気に顔が熱くなった。


「ち、違……っ」


そんな言い方をすれば、まるで別の意味みたいだ。

違う。違うのだけれど、まったくの嘘でもないから余計に困る。


肩を貸していたのは事実だ。

高成の体が冷えていたのも本当だ。


反論しようとして口を開きかける。

けれど、言葉がうまく出てこなかった。


その横で、小瀬は肩を揺らして笑う。


「初々しいねぇ」


それだけ言い残して、くるりと背を向ける。


岩屋の外へ出ていく足取りは軽かった。


あとには、まいと高成だけが取り残される。


しん、とした沈黙が落ちた。


「ち、違います……!」


まいは慌てて顔を上げた。


「隣に座っていただけで、その、少し手は触りましたけど、本当に、何もしていません……っ」


弁明しながら、自分でも何を弁明しているのか分からなくなる。

余計なことまで言っている気がして、声がだんだん小さくなった。


さっきまで気にならなかった岩屋の静けさが、急に居心地の悪いものになる。


高成の視線を感じる。


けれど、まいは顔を上げきれなかった。


冷や汗をかいた手の中の握り飯に視線を落としたまま、ただ黙る。これ以上何か言えば、かえって不自然になる気がした。


(嘘は言ってないのに…!)


見られている気がする。

でも、自分からその目を見ることはできない。


やがて。


「わかっている。昨夜は……助かった」


低い声が、耳に届いた。


まいは、はっと息を呑む。


「い、いえ……」


本当に礼を言われるとは、思っていなかった。

慌てて首を振る。


「私は、何もしていません……」


そう答えながら、胸の奥が痛む。


本当に、何もできなかった。

ただ隣にいて、肩を貸して、祈ることしかできなかった。


守ったわけでもない。

助けたわけでもない。


それは全て小瀬がやったことだ。

だから、その言葉は、自分には大きすぎる気がした。


高成はそれ以上何も言わなかった。


まいも、もう言葉を探せなかった。


ただ、外から小瀬が戻ってくる前にと思い、慌てて残った握り飯を口へ運ぶ。


冷えた米は少し固く、けれど噛むたびに、さっきよりは確かに身体へ力が戻ってくるようだった。


岩屋の外では、馬の鼻息と、手綱の鳴る小さな音がしていた。











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