繊月
「……ここにいろ」
引き止めたのは、守るためだ。
そうでなければ、いけない。
外へ出ようとしたまいの手首を、高成は岩肌に身を横たえたまま、ほとんど力の入らない手で掴んだ。
まいは逆らわず、すぐ傍へ座り直す。
それを拒む理由は、なかった。
高成はそのまま目を閉じる。
──最悪だ。
胸の奥に残る熱と痺れが、まだ消えない。
傷ではない。だが、刃より不快だった。
(……慢心した)
僧侶の思想がどうであれ、
少なくとも自分を“使える駒”と見せることはできているつもりだった。
警戒はしていた。だが、あの場で斬られるとは思わなかった。
その甘さが、一撃を許した。
しかも。
法力は、確かに効いた。
“自分がやっていることは全て無駄”なのだと、
突きつけられた気分だった。
考えるべきことは、他にもある。
追っ手はまだ完全には切れていない。
外にいる小瀬の真意もわからない。
起きなければならない。
止まるわけにはいかない。
そう思うのに、身体が重い。
法力だけではない。ここまでの疲労も、思った以上に深く溜まっていた。
……疲れた。
その言葉が浮かんで、わずかに眉を寄せる。
自分が始めたことの責任は負うつもりなのは変わらない。それでも。
今は、少しだけ。
何も考えたくない。
すぐ傍にあるまいの気配を最後に確かめて、
高成はそのまま意識を沈めた。
*
次に意識を取り戻したとき、隣にあった気配は既になかった。
ただ、まいがすぐ傍にいて、自分が眠る時まで離れなかったことだけは、妙にはっきりと残っていた。
どこまでが現だったのか、夢だったのか。
確かめるように指をわずかに動かすと、掌の奥に、ぬくもりの名残だけがまだあった。
顔に、冷たいものが触れる。
「……!」
その感触に、高成は咄嗟に肩を震わせ、反射的にその手首を掴んでいた。
「す、すみません」
細い声。
まいだった。
薄く開いた視界の向こう、濡れた手ぬぐいを持ったまま、驚いたようにこちらを見ている。
「あの……血がついていて、拭こうとして、それで……」
おろおろと弁明する声が、まだ夢の底に残っていた意識を少しずつ引き上げた。
高成は手の力を緩める。
掴んでいた手首は、すぐに逃げなかった。
振りほどこうともしない。ただ、困ったように身を固くしている。
「……すまない」
「いえ……」
手を離す。
そこで、短い沈黙が落ちた。
岩屋の中は、もう朝を越えていた。入口から差し込む光は白く明るくなり、湿った岩肌の輪郭を浮かび上がらせている。眠りに落ちた昨夜の暗さは、もうない。
まいは一度俯いた。
それから、何かを決めたようにそっと顔を上げる。
「良かったです、目が覚めて」
高成は、すぐには言葉を返せなかった。
ただ、その顔を見る。
まいは泣いてはいない。安心しきった顔でもない。ただ、何かを堪えるように唇をきつく結び、まっすぐこちらを見ていた。
──まったく、どこまで人がいいのだ。
わけも分からぬまま城へ攫われ、連れ出され、ここまで危険に晒されている。昨日もまた、眼の前で刃が交わり、自分は落ち、血を浴びた。そのすべての只中にいた女が、真っ先に口にするのがそれなのか。
まいがそういう人間だとは、もう知っている。
それでも、呆れるほど人がいい。
高成の胸の奥で、昨夜押し込めたはずのものがわずかに軋む。
自分は、その善性を、ただ利用しているに過ぎない。
お人好し。
その一言で済ませるには、まいの眼差しはあまりに真っ直ぐだった。
黙ったまま見つめられ、まいの方が先に戸惑ったように視線を揺らす。
「……あの」
その声で、高成ははっと我に返り、目を逸らした。
「……」
返す言葉を探すより先に、岩屋の入口の方で足音がする。
「目ぇ覚めたか」
小瀬だった。
昼前の光を背負って、中へ入ってくる。表情はいつも通り軽く見えるのに、その実、どこまでが本音か分からない顔だ。だが少なくとも、剥き出しの敵意はない。
まいが持っていた手ぬぐいと、脇に置かれた水を一瞥してから、小瀬は高成を見る。
「動けそうか」
「……ああ」
短く答える。
手足の痺れはまだ残っている。胸の奥にも、法力を打ち込まれた不快な熱がしつこく燻っていた。だが、完全に動けないほどではない。起きている以上、ここに留まる理由はない。
こいつの真意を探るのは、後でいい。
今はそれより先に進むべきだ。
高成は岩肌に手をついて身を起こし、息を整えてから低く言った。
「今すぐ、ここを離れる」
追っ手がどこまで立て直しているか分からない。
忠興が昨夜の遅れをどう読んでいるかも分からない。
ならば、まずはこの岩屋を離れる。
小瀬はその言葉に、わずかに口角を上げた。
「了解」
軽い返答だった。
だが、その軽さの奥で、すでに共に行くつもりでいるのが分かる。
高成は一度だけ、まいの方を見た。
水を持ったまま、こちらを見上げている。
不安は消えていない。それでも、昨日のような怯えだけではない顔だった。
岩屋の外では、日が高くなりはじめていた。




