白む頃
───明け方。
岩屋の外から差し込む光が、夜の黒をわずかに薄めはじめている。
まだ白みきらない空の色が、岩の隙間から淡く落ちていた。
まいは、高成の重みを感じる肩を、動かさずにいた。
ゆっくりと目を開く。
しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
冷えた空気と、湿った石の匂い。夜のあいだ耳についていた雫の音は、いつの間にか止んでいる。岩屋の中はしんと静まり返っていて、ただ隣にある重みだけが、昨夜の続きであることを教えていた。
高成が、自分にもたれたまま眠っている。
まいは息を詰めた。
高成の手にそっと触れる。
昨日の夜、あれほど冷えていた指先には、わずかに温もりが戻っていた。
そのことに、胸の奥がじわりと緩む。
目は閉じられたままだが、呼吸はある。浅くはない。静かに、ちゃんと息をしている。
まいは小さく息を吐いた。
そして、ようやく自分の身体のことに気づく。
首が強張っている。
肩も、腕も、じんと痺れていた。
そっと伸びをしたいと思ったが、少しでも動けば高成を起こしてしまいそうで、やめた。
代わりに、触れたままだった高成の手を、今度は両手で包むように握り直す。
それから、じっと地面を見た。
昨夜のことを思い返す。
高成は、あの場で南雲の侍たちを圧倒していた。
何かを受ける前までは、確かに。
どこにも傷は負っていないように見えた。血は浴びていても、自分のものではなかったはずだ。
なのに、あの衝撃音のあと、高成は落ちた。
鉄砲ではない。
投擲でもない。
何が起きたのか分からない。
けれど、あれが高成を傷つけたのだとは分かる。
そして、高成の本来の計画を狂わせた。
(……本当は、どこへ向かうつもりだったんだろう)
逃亡の目的は何なのか。
行き先はどこだったのか。
高成が時折口にしていた“目的”とは、何を指していたのか。
知らないことが、再び不安と疑念を、かすかに呼び覚まそうとする。
でも。
そこで、ふと気づく。
高成より先に目を覚ますのは、初めてだった。
城を出てからずっと、毎朝先に起きるのは高成の方だった。
自分が目を覚ます頃には、宿での火の始末も水も、馬のことも、出立の支度も、すでに整えられていた。
いつも周囲を見て、気を張って、自分より先に危険の気配を拾っていた。
城から逃げてから、ずっと。
自分を守るために。
そんな人が、自分を利用するだろうか。
もし仮に、そう見える何かがあるのだとしても。
それにはきっと、高成なりの理由があるのではないか。
まいは、包んだ手に少しだけ力を込めた。
(……今は)
自分がこの目で見てきた高成を、信じよう。
まだ知らないことは多い。
聞かなければいけないこともある。
けれど、それは疑うためではない。
この先もついていくために、知るべきことなのだ。
しばらくして、岩屋の中へ朝の光が少しずつ入り始めた。
青かった光が、やがて薄い白へと変わる。
その明るさの中で、まいはようやく高成の手に、乾いた返り血が残っているのに気づいた。
細い筋になって、こびりついている。
そっと袖を伸ばし、その血を拭おうとした。
だが、乾ききったそれは布の表面をざらつかせるだけで、うまく落ちない。
袖が擦れるほどに身じろぎしても、高成が目を覚ます気配はなかった。
(起きたら、濡らした手ぬぐいで拭いて、水も飲ませよう)
そう思って、まいは高成を起こさないよう、慎重に体を離した。
肩の重みが抜けても、高成は眠ったまま、岩肌に背を預けている。
まいは自身の羽織の埃を軽く払い、高成の肩へ掛けた。
それから静かに立ち上がる。
岩屋の外は、朝の冷気でまだ白く煙っていた。
まいは一度だけ振り返り、眠る高成を見つめてから、足音を忍ばせて外へ出た。
***
岩屋の外へ出ると、朝の冷気が頬を刺した。
夜のあいだに落ちた露が、草の先で白く光っている。山裾の空気は湿っていたが、夜よりは幾分やわらいでいた。東の空は淡く明るみはじめ、木々の輪郭が少しずつはっきりしていく。
その少し先。
小瀬は、痩せた木に片肩を預けたまま、変わらず見張りを続けていた。
こちらに背を向けているわけではない。
けれど、近づいていくには、妙な緊張があった。
まいは一度だけ息を整え、足音を忍ばせるようにして小瀬の方へ歩いた。
気配で気づいたのだろう。
小瀬は振り向かないまま、先に口を開く。
「高成は?」
まいは足を止めた。
「今は……ただ、眠っているようです」
「そ」
それだけだった。
小瀬は興味がなさそうに短く返し、視線をまた前へ戻す。
まいはその横顔を見た。
何を考えているのか分からない。
敵ではないのだろう。少なくとも、昨夜は確かに助けられた。けれど、味方だと言い切ってしまうには、まだ怖い。
それでも。
言わなければならないことがあった。
まいは袖の下で指を握り、勇気を集めるように小さく息を吸った。
「あの……昨日は、助けていただき、ありがとうございました」
小瀬の眉が、ほんのわずかに上がった。
予想していなかったのだろう。
一瞬だけ目を瞬かせたあと、すぐにいつもの薄い笑みに戻る。
「まだ俺が何なのかも分かんねぇのに、礼なんか言っていいのか?」
どこか嘲るような言い方だった。
まいは一瞬、言葉に詰まった。
胸の奥が、ひやりと縮む。
けれど、その声音に触れた途端、ふいに別の記憶が蘇る。
――前にも、似たようなことを言われた。
比良野の噂を聞いて足を止めてしまった自分に、高成は言った。
まだ敵か味方かも分からないのに、謝る必要はないと。
それでも謝るのなら、お前は人が良すぎるのだと。
あの時、高成は呆れたように言ったけれど、
まいを否定はしなかった。
まいは顔を上げたまま、はっきりと言った。
「でも、助かったのは事実です」
それから、今度は迷わず頭を下げる。
「だから、ありがとうございました」
朝の冷えた空気の中に、短い沈黙が落ちた。
小瀬は何も言わず、頭を下げたままのまいを見ていた。
「…………」
その視線に、試されているような居心地の悪さはまだある。
けれど、先ほどまでとは少しだけ違った。
「……ふうん」
小さく息を漏らすように言って、小瀬がわずかに目を細める。
それは笑ったのとも違う。
値踏みが少しだけ解けたような、そんな目だった。
「ま、頭あげなよ。そういう堅苦しいの、苦手なんだよ」
まいはそっと顔を上げた。
小瀬はもう、こちらをからかうような顔はしていなかった。
「まぁ、今のところお前たちをどうこうする気なんかないし。安心してよ」
「……はい」
その言葉を、まいはそのまま受け取った。
完全に信じ切ったわけではない。
けれど今は、それでいいと思えた。
小瀬が昨夜、あの場で刃を返したことだけは事実だ。
その事実を、いまは信じるしかない。
まいはためらいながら、続けて口を開く。
「あの……生田さんに、水を飲ませたいんですが」
小瀬が、今度はきちんとこちらを見た。
「どこか、この近くに水場はあるでしょうか」
小瀬は少しのあいだ黙っていたが、やがて顎で山の斜面の奥を示した。
「少し下ったとこに細い流れがある。雪解け水だが、澄んでる」
言ってから、小さく肩を竦める。
「ただ、一人じゃ行くな。足場が悪い」
まいは思わず目を瞬かせた。
小瀬が、そんなふうに自分のことまで気にかけるとは思っていなかった。
突き放したような顔ばかりするくせに、そういうところだけ妙に現実的なのだと、少しだけ意外に思う。
「……でも」
「待ってろ。あとで俺が行く」
ぶっきらぼうな言い方だった。
だが、その響きにはもう、さっきまでの突き放すような冷たさは少し薄れている。
まいは胸の前で手を重ね、小さく頭を下げた。
「分かりました。お願いします」
小瀬は返事の代わりに、ただ手をひらひらと振った。
その仕草は軽いのに、背を向けたまま立つ姿には、まだどこか油断のない気配が残っている。
まいはその横顔をもう一度だけ見てから、静かに踵を返した。
岩屋の中には、まだ高成が眠っている。
朝の光は少しずつ強くなりはじめていた。
1章、2章の書き直しをしています。
特に1話は、まいへの印象が少し変わるかもしれません。
お時間がある時にでも目を通していただけたら嬉しいです。




