願い
岩屋の中はひどく静かだった。
外から入り込む夕の明かりは、もう薄い。入口近くの輪郭だけをかろうじて浮かせ、奥は青黒く沈んでいる。
どこかで、ぽたり、と音がした。
岩肌を伝った水が、溜まりに落ちる音。
それだけが、一定の間を置いて繰り返される。
まいは、入口から少し入ったところに立ったまま、動けずにいた。
高成は岩に背を預けて座っている。
さっきから一言も発しない。
呼吸は聞こえる。浅いが途切れてはいない。
けれど、それだけだった。
声を掛けたい。
大丈夫ですか。
苦しくないですか。
何かできることはありますか、と。
けれど、そのどれもが違う気がした。
今の高成に向かって口にするには、どれも軽すぎる。
自分の不安をそのまま投げるだけの言葉に思えて、喉の奥で止まる。
何かしたいのに、できない。
守られるだけでいたくないと、あれほど思ったのに。
結局、こうして、自分は立ち尽くすことしかできない。
(役立たず……)
胸の奥に、鈍い悔しさが沈んだ。
その時。
「……怪我は……ないか」
低い声が、静けさを割った。
まいは、はっと顔を上げた。
次の瞬間には、ほとんど駆け寄るように高成の傍へ行っていた。
「私は、大丈夫です」
答えながら、膝をつく。
「生田さんは──」
そこまで言って、言葉が止まる。
薄闇の中で目が合った。
けれど、返事を聞くまでもなかった。
薄闇の中でも、高成の顔色が悪いのは分かった。
青白い。
唇からも血の気が引いている。
こんな状態で。
こんな状態でも、まずこちらを気にするのか。
胸が、きゅっと痛んだ。
泣きそうになる。
けれど、高成は慰めるようなことは言わない。
「……なら、いい」
ただそれだけを言って、静かに目を閉じる。
短い言葉だった。
けれど、そこでようやく、少し力が抜けたようにも見えた。
「…………」
まいはその顔を見つめたまま、唇を結ぶ。
役立たずでも、何かしなければと思った。
そうしないと、自分がここにいる意味がないような気がした。
「……少し待ってて下さい。水を、汲んできます」
そう言って立ち上がりかけた、その時だった。
───手首を、掴まれた。
「……っ」
びくりと肩が揺れる。
見下ろすと、高成の手が自分の手首を囲っていた。
強くではない。
引き止めるにはあまりに弱い、それでも確かな力。
目は閉じたまま、声だけが落ちる。
「ここにいろ」
まいは息を呑む。
「すぐ戻りますから」
反射のように、そう返した。
だが高成は何も言わない。
掴んだ手は、強めない。
ただ、放しもしない。
その沈黙の中で、まいはようやく気づいた。
冷たい。
手が、ひどく冷えている。
驚くほどに。
先ほど腹に腕を回された時も冷たいと思った。けれど今は、それよりもっとはっきりと分かる。指先から熱が抜けきっているような冷たさだった。
言葉を失う。
水を汲みに行くべきか。
火を起こせるか。
外にいる小瀬を呼ぶべきか。
考えは浮かぶのに、どれも今、この手を振りほどいてまで、選ぶことができない。
しばらくして、まいは小さく頷いた。
「……わかりました」
そのまま、高成が背を預ける岩のすぐ脇、ひとつ低い段差にそっと腰を下ろす。
掴まれた手首は、そこでようやく解かれた。
だが、離れろという意味ではないことは分かる。
高成は目を閉じたまま、わずかに息を吐いた。
「それでいい」
掠れた声だった。
まいは返事をしなかった。
返事をしたら、声が震えそうだった。
ただ、隣に座ったまま、動かずにいる。
外では、小瀬の気配が時折かすかに動き、馬の鼻息と枝の擦れる音がした。
遠くで、夜の鳥が一度だけ鳴く。
岩屋の中は冷えている。
けれど、高成の肩がわずかに揺れるたび、その不規則な呼吸の白さが妙に近く感じられた。
どれくらい、そうしていたのか分からない。
高成は一度も目を開かなかった。
それでも、完全に意識を手放してはいない。
呼吸が浅く変わるたびに、まだ堪えているのが伝わってきた。
少しも休めていないのではないか。
せめて「もたれていい」と、声をかけようとした時だった。
それよりも先に。
高成の重心が静かに傾く。
まいの肩へ、ゆっくりと何かが預けられる。
(え…?)
自分の体感が、一瞬信じられなかった。
さっき小瀬が支えようとした時には拒んだのに。
いま自分の肩にかかる重みが何なのか。
高成の、頭だった。
はっとしてまいは身を強ばらせる。
けれど、払いのけるようなことはできなかった。
(預けて、くれるの……?)
髪が頬に触れる。
額が肩口に当たる。
重い。
けれど、その重さが、かえって今この人が生きてここにいることを教えてくる。
まいは何も言わなかった。
ただ息を詰めたまま、そのまま肩で受け止める。高成を支えやすいよう、すぐ隣へ寄せるように座り直した。
少しでも姿勢を崩せば高成の身体はもっと下へ落ちてしまいそうで、肩に力を入れて支える。
頬や指先に触れるところは冷たいのに、肩越しに伝わる芯の熱は、薄く、けれど確かだった。
(温かい……)
その体温を感じて、胸の内で、声にもならない願いが滲む。
(お願い。神様が本当にいるのなら)
いるのかも分からないものに、縋ることしかできない。
(───どうか、この人を助けて)
自分にできることは、これくらいしかない。
それでも。
それでも今は、それでいいのだと思った。
ぽたり、とまた雫が落ちる。
夜はゆっくりと、岩屋の中まで満ちていく。
まいはじっと前を見たまま、肩にかかる重みを支え続けた。
冷えた石の匂い。
湿った土の気配。
外で見張る者の、遠い足音。
そのすべてに挟まれながら、二人は言葉もなく、夜の底へ沈んでいったのだった。




