張りつめた糸
二騎は、日が傾ききるまで走った。
宿場町を離れてしばらくは、まだ人の気配があった。街道脇の畑、枯れた草の向こうに見える小さな家、煙の薄く上る夕餉の支度。だが、南へ下るにつれ、それも次第に途切れていく。
道は細くなり、踏み固められた雪はほとんど消えた。
代わりに残ったのは、ぬかるみと、解け水に湿った土の匂いだけだった。
空は、ゆっくりと色を変えていく。
西の端から、淡い橙が落ち、山の影が濃くなる。
風は冷たいままだが、雪の底から滲み出た水気のせいで、空気は乾ききらない。袖口から忍び込む寒さとは別に、どこか生ぬるい湿りが肌にまとわりついた。
高成は、もうほとんど喋らなかった。
小瀬が一度だけ、
「まだ行けるか」
と後ろから声を投げても、
「……ああ」
返るのは、それだけだった。
短い。
いつも通りだ。
けれど、いつもと違う。
返事のあとに続く呼吸が、わずかに遅れる。
腹に回された腕の重みも、時折ふっと増す。
高成が、体を起こしているだけで力を使っているのが、まいには分かった。
それでも、止まるとは言わない。
漆駒もまた、何も訴えず、ただ黙って前へ進み続けた。
時折耳を後ろへ動かし、主の呼吸を確かめるように首を揺らす。
そのたびに、まいの胸は小さく縮んだ。
やがて街道を外れ、山裾に沿う獣道のような細い道へ入る。
小瀬が先に馬を進め、低い声で言った。
「この先、岩が張り出してる。深くはねぇが、雨風は避けられるだろ」
高成は答えない。
ただ、漆駒の向きをわずかに変えた。
山肌は黒く湿っていた。
解けた雪が細い筋になって流れ、ところどころ岩を濡らしている。
だが、その少し上、地面がわずかにせり上がった場所に、口を開けたような浅い岩屋があった。
人が数人、身を寄せるには足りる。
奥行きはないが、入口は広く、外も見える。
岩肌の下は解け水から少し外れていて、踏み込めば湿りはあるものの、びしょ濡れにはならずに済みそうだった。
小瀬が先に馬を下りる。
「ここでいい」
それに続くように、漆駒が足を止めた。
高成の腕が、まいの腹から離れる。
「……下りろ」
声は低い。
だが、その最後がわずかに掠れた。
まいは急いで鞍から下りた。
足が地を踏んだ瞬間、張りつめていたものが少しだけ緩み、膝が心もとなく揺れる。それでも転ばずに踏みとどまって振り返ると、高成も漆駒から下りようとしていた。
だが、着地したその瞬間だった。
ふらりと、身体が傾く。
「……っ」
まいが手を伸ばす。だが、それより先に、
「おっと」
横から、小瀬が高成の肩を支えた。
その動きは早かった。
あまりに自然で、まるで最初からそうするつもりだったかのように。
高成の体が小さく止まる。
まいの伸びかけた手も、そこで止まった。
小瀬と、また目が合う。
薄暗くなりかけた中でも、その目がこちらを一瞬見たのは分かった。
笑ってはいない。
だが拒むほど冷たくもない。
それなのに、何故か。
そこに一本、目に見えない線を引かれたような気がした。
──ここから先、お前は入るな。
言葉にすればそんなふうに聞こえそうな、ほんの一瞬の間。
まいは思わず、手を引っ込めた。
その時、高成が、小瀬の肩を払うように押し返した。
「……歩ける」
低く、短い声。
けれど、押し返した手にいつもの強さはなかった。
力を入れたというより、触れられたことを拒んだだけに近い。
小瀬は一歩も退かない。
「無理すんなよ」
軽い調子だった。
だが、茶化す響きはない。
高成は眉をわずかに寄せたが、言い返さなかった。
その沈黙を、もう一度ふらついた足が埋める。
小瀬は今度は構わず、高成の肩を抱えるように支えた。
「ほらな」
「……」
「意地張って倒れられっと、面倒なんだよ」
高成は何も言わない。
言い返す余力がないのか、言っても無駄だと判断したのか、それすら分からなかった。
小瀬に半ば支えられる形で、高成は岩屋の奥へ入っていく。
まいも、遅れてその後を追った。
岩屋は奥行きはさほど深くないが、入口の脇に張り出した岩があり、内側はわずかに折れるように陰っている。
中はひんやりとしていた。
湿った土と、冷えた石の匂いがする。
外ほど風は入らないが、そのぶん空気は動かず、息をすれば吐く白さがぼんやりと留まった。
少し奥まった、比較的平らな場所まで来ると、小瀬は高成をゆっくり座らせた。
高成は背を岩肌へ預けるようにして、ようやく腰を落とす。
その瞬間、抑え込んでいた息が一つ、大きく漏れた。
まいの胸が、またざわつく。
高成が人に支えられている姿そのものが、まいには衝撃的だった。
「水はあとだな。まずは呼吸整えろ」
小瀬はそう言って、ちらりと高成の顔色を見た。
冗談めいた調子は消えている。
代わりに残っているのは、妙に落ち着いた目だけだった。
高成は返事をしない。
額には汗が滲み、呼吸はまだ浅い。
けれど意識は飛んでいない。
その証のように、膝の上で握った指先だけがかすかに動く。
小瀬はそれを見届けると、立ち上がった。
「とりあえず今は休め。俺が見張る」
短く言って、岩屋の入口へ向かう。
外はもう日が落ちかけていた。
山際の光は細く削れ、代わりに群青が足元から這い上がってくる。
その入口に、小瀬の背がひとつ立つ。
振り返りもせず、馬の手綱を軽く引いて、外の様子を窺う位置に収まる。
その背を見たまま、まいはしばらく動けなかった。
小瀬は、敵なのか。
味方なのか。
まだ何も分からない。
分からないままなのに、今この場所を守る役目を引き受けている。
その事実だけが、薄暗い岩屋の中でひどく不安定に見えた。
だが、もう一つ確かなことがある。
岩屋の奥には、高成がいる。
肩で息をしながら、目を閉じもせず、ただじっと前を見ている。
まいはゆっくりと、少し離れた場所で膝をついた。
ようやく追手から離れたはずなのに、
胸の中の緊張は、まだ少しも解けてはいなかった。




