表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/78

張りつめた糸




二騎は、日が傾ききるまで走った。


宿場町を離れてしばらくは、まだ人の気配があった。街道脇の畑、枯れた草の向こうに見える小さな家、煙の薄く上る夕餉の支度。だが、南へ下るにつれ、それも次第に途切れていく。


道は細くなり、踏み固められた雪はほとんど消えた。

代わりに残ったのは、ぬかるみと、解け水に湿った土の匂いだけだった。


空は、ゆっくりと色を変えていく。


西の端から、淡い橙が落ち、山の影が濃くなる。

風は冷たいままだが、雪の底から滲み出た水気のせいで、空気は乾ききらない。袖口から忍び込む寒さとは別に、どこか生ぬるい湿りが肌にまとわりついた。


高成は、もうほとんど喋らなかった。


小瀬が一度だけ、

「まだ行けるか」

と後ろから声を投げても、


「……ああ」


返るのは、それだけだった。


短い。

いつも通りだ。


けれど、いつもと違う。


返事のあとに続く呼吸が、わずかに遅れる。

腹に回された腕の重みも、時折ふっと増す。

高成が、体を起こしているだけで力を使っているのが、まいには分かった。


それでも、止まるとは言わない。


漆駒もまた、何も訴えず、ただ黙って前へ進み続けた。

時折耳を後ろへ動かし、主の呼吸を確かめるように首を揺らす。

そのたびに、まいの胸は小さく縮んだ。


やがて街道を外れ、山裾に沿う獣道のような細い道へ入る。


小瀬が先に馬を進め、低い声で言った。


「この先、岩が張り出してる。深くはねぇが、雨風は避けられるだろ」


高成は答えない。

ただ、漆駒の向きをわずかに変えた。


山肌は黒く湿っていた。

解けた雪が細い筋になって流れ、ところどころ岩を濡らしている。

だが、その少し上、地面がわずかにせり上がった場所に、口を開けたような浅い岩屋があった。


人が数人、身を寄せるには足りる。

奥行きはないが、入口は広く、外も見える。

岩肌の下は解け水から少し外れていて、踏み込めば湿りはあるものの、びしょ濡れにはならずに済みそうだった。


小瀬が先に馬を下りる。


「ここでいい」


それに続くように、漆駒が足を止めた。


高成の腕が、まいの腹から離れる。


「……下りろ」


声は低い。

だが、その最後がわずかに掠れた。


まいは急いで鞍から下りた。

足が地を踏んだ瞬間、張りつめていたものが少しだけ緩み、膝が心もとなく揺れる。それでも転ばずに踏みとどまって振り返ると、高成も漆駒から下りようとしていた。


だが、着地したその瞬間だった。


ふらりと、身体が傾く。


「……っ」


まいが手を伸ばす。だが、それより先に、


「おっと」


横から、小瀬が高成の肩を支えた。


その動きは早かった。

あまりに自然で、まるで最初からそうするつもりだったかのように。


高成の体が小さく止まる。


まいの伸びかけた手も、そこで止まった。


小瀬と、また目が合う。


薄暗くなりかけた中でも、その目がこちらを一瞬見たのは分かった。

笑ってはいない。

だが拒むほど冷たくもない。


それなのに、何故か。

そこに一本、目に見えない線を引かれたような気がした。


──ここから先、お前は入るな。


言葉にすればそんなふうに聞こえそうな、ほんの一瞬の間。


まいは思わず、手を引っ込めた。


その時、高成が、小瀬の肩を払うように押し返した。


「……歩ける」


低く、短い声。


けれど、押し返した手にいつもの強さはなかった。

力を入れたというより、触れられたことを拒んだだけに近い。


小瀬は一歩も退かない。


「無理すんなよ」


軽い調子だった。

だが、茶化す響きはない。


高成は眉をわずかに寄せたが、言い返さなかった。

その沈黙を、もう一度ふらついた足が埋める。


小瀬は今度は構わず、高成の肩を抱えるように支えた。


「ほらな」


「……」


「意地張って倒れられっと、面倒なんだよ」


高成は何も言わない。

言い返す余力がないのか、言っても無駄だと判断したのか、それすら分からなかった。


小瀬に半ば支えられる形で、高成は岩屋の奥へ入っていく。


まいも、遅れてその後を追った。


岩屋は奥行きはさほど深くないが、入口の脇に張り出した岩があり、内側はわずかに折れるように陰っている。


中はひんやりとしていた。

湿った土と、冷えた石の匂いがする。

外ほど風は入らないが、そのぶん空気は動かず、息をすれば吐く白さがぼんやりと留まった。


少し奥まった、比較的平らな場所まで来ると、小瀬は高成をゆっくり座らせた。


高成は背を岩肌へ預けるようにして、ようやく腰を落とす。

その瞬間、抑え込んでいた息が一つ、大きく漏れた。


まいの胸が、またざわつく。


高成が人に支えられている姿そのものが、まいには衝撃的だった。


「水はあとだな。まずは呼吸整えろ」


小瀬はそう言って、ちらりと高成の顔色を見た。

冗談めいた調子は消えている。

代わりに残っているのは、妙に落ち着いた目だけだった。


高成は返事をしない。

額には汗が滲み、呼吸はまだ浅い。

けれど意識は飛んでいない。

その証のように、膝の上で握った指先だけがかすかに動く。


小瀬はそれを見届けると、立ち上がった。


「とりあえず今は休め。俺が見張る」


短く言って、岩屋の入口へ向かう。


外はもう日が落ちかけていた。

山際の光は細く削れ、代わりに群青が足元から這い上がってくる。

その入口に、小瀬の背がひとつ立つ。


振り返りもせず、馬の手綱を軽く引いて、外の様子を窺う位置に収まる。


その背を見たまま、まいはしばらく動けなかった。


小瀬は、敵なのか。

味方なのか。


まだ何も分からない。


分からないままなのに、今この場所を守る役目を引き受けている。

その事実だけが、薄暗い岩屋の中でひどく不安定に見えた。


だが、もう一つ確かなことがある。


岩屋の奥には、高成がいる。


肩で息をしながら、目を閉じもせず、ただじっと前を見ている。


まいはゆっくりと、少し離れた場所で膝をついた。



ようやく追手から離れたはずなのに、

胸の中の緊張は、まだ少しも解けてはいなかった。









評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ