疑念
雪解けの道を、二騎が裂いていく。
漆駒の背は速い。だが、振り落とされるほどではない。後ろを走る馬もまた、無駄に詰めず、離れすぎもせず、一定の距離を保ったままついてくる。その規則正しい馬蹄の響きが、かえって高成の意識を乱した。
──俺はただ、知りたいだけだ。お前が、何を考えているのか。
あの日、小瀬はそう言った。
高成は答えなかった。答える必要がないと思っていた。理解されるとも思わなかったのだ。
なのに。
(……何故だ)
問いたいのは、こちらの方だった。
視界の端が、まだ白く滲む。
木々の影も、街道脇の畑も、輪郭がわずかに遅れて戻ってくる。胸の奥は焼けるように熱いのに、指先は痺れ、肩から腕にかけては鈍い痛みが重くへばりついていた。
刃傷の後のそれとは違う。筋の奥、骨の内側にまで、見えぬ杭でも打ち込まれたような不快な痺れだった。
法力。
あの一撃が、まだ身体の中に残っている。
轡を持つ指に力を込める。力を抜けば、感覚まで持っていかれそうだった。気を緩めれば落ちる。
今はまだ、何一つ終わっていない。
僧侶が裏切ったのか、小瀬がどこまで本気でこちらについたのか、忠興が追撃を諦めたのか。何も、確かなことは分からない。
ならば、考えるべきは一つだけだ。
落ちずに進むこと。
まいを乗せたまま、この場を完全に離れること。
高成は口を結んだまま、息を整えようとした。
吸気のたびに胸が軋み、吐くたび喉の奥が焼けた。呼吸を悟られぬよう浅く抑えても、荒れは隠しきれない。背後からついてくる気配が、余計にその乱れを際立たせる。
(……何故だ)
問いは、なおも消えなかった。
小瀬は、何を選んだ。
何を見て、あの場で刃を返した。
理解のつかぬまま、漆駒の首筋がひとつ上下する。高成は太腿で合図を送り、速度を保たせた。
まだ、止まるわけにはいかなかった。
***
まいは何度も背後を見たい衝動に駆られながら、それを堪えていた。
視界の端に、もう一騎の影がちらつく。泥を跳ね上げ、ぴたりと離れずについてくる馬。乗っている者の顔までは、この速さでは確かめられない。それでも分かる。あれは、小瀬だ。
森の中で、じっと立ち尽くしていた人。高成を案じるような顔をしていた人。あの人はさっき、確かに高成の前に立ちはだかっていた。南雲の側にいて、刃を向けて、けれどその次には、自分たちを逃がした。
(どうして……)
味方なのか。敵なのか。何を考えているのか。何も分からない。
だが、今は聞ける空気ではなかった。
それは、後ろを走る小瀬のせいではない。
自分を支える高成の気配が、いつもと違うからだ。
背に触れる胸の動きが荒い。吐く息が浅く、熱い。抱え直した時に腹へ回った左手は、妙に冷たかった。
大きな音がして、その直後、背後の高成の体が、ふっと消えるように下へ落ちたのだけは分かった。だが、何が起きたのかはわからなかった。その後に見えたのは、泥の上に膝をつきながらも立ち上がった背と、ただ斬って、斬って、斬り抜ける姿だけだった。
(生田さん……)
胸の奥がまた、きゅっと縮む。
あの時と同じだ、とまいは思った。
商家の裏で、高成の姿が見えなかった、あの一瞬。
離れた時、喉の奥が冷えて、振り返りたくなった、あの不安。
けれど、今、その正体がさらにその輪郭を強めた。
守ってくれる人が絶対ではないと知ったから、ではない。
違う。
“私は──この人が傷つくのが怖い”
その気づきは、思ったよりも静かに胸へ落ちた。大げさな言葉にはならない。ただ、鈍く、確かに、そこにあった。
あの時、震える自分の手に、高成は何も言わず手を重ねてくれた。強くもなく、弱くもなく、弱音を許さぬように、けれど怯えさせぬように。あの温度を、まいは覚えている。
いま、自分の腹に回されたその手は、ひどく冷たい。
まいはそっと、自分の片手を、その上に重ねた。
高成の馬の操作を邪魔しないよう、指先だけで、そっと包む。
冷えた手の甲の下で、一瞬だけ筋が強張ったのが分かった。
けれど、高成は何も言わない。振りほどきもしない。ただ、呼吸がひとつ深くなって、それきりだった。
まいは前を向いたまま、重ねた手にわずかに力を込める。
何が起きたのか。どこまで逃げるのか。後ろの小瀬を信じていいのか。聞きたいことは山ほどある。
けれど今は、それよりも、この人がここにいることを、ちゃんと感じていると伝えたかった。
言葉はいらないと思った。
雪解けの風が頬を打つ。
二騎の馬蹄が後ろで揃い、漆駒が前へ前へと道を裂く。
その只中で、まいは黙ったまま、高成の冷えた手を包み続けた。
***
二騎の馬蹄が、雪解けの道を絶え間なく打ち続ける。
風を裂く音の中で、背後を追っていたもう一騎が、すっと速度を上げた。
まいの視界の端に、鹿毛の馬の首が並ぶ。
そのまま小瀬が、漆駒の横へ馬を寄せてきた。
「で、どこまで走る気だ?」
軽い口調だった。
だが、遊んでいるわけではないことは、声の底で分かる。
まいは思わずそちらを見た。
小瀬と、目が合う。
口元には、薄い笑みが浮かんでいた。
けれどその目は、笑っていない。
冗談めかした顔のまま、こちらを静かに見ている。
──品定め、という言葉がふと頭に浮かんだ。
何を測られているのかは分からない。
ただ、落ち着かない。
まいはすぐに視線を外し、高成の返事を待った。
高成は、すぐには答えなかった。
漆駒の首筋に落ちる西日の色が、ゆっくりと流れていく。
背に当たる高成の呼吸は、先ほどよりは整っているように感じる。
だが、それでもまだ浅い。
わずかな沈黙のあと。
「……目的地が変わった」
低い声が、短く落ちる。
まいの胸の奥に、別の不安が静かに沈む。
“目的地”
その言葉に、思わず指先が強ばる。
自分はまだ、この逃亡が、どこへ向かっていたのかさえ、知らされていない。
何のためにここまで来たのか。
どこへ逃げようとしていたのか。
これから、どこへ行こうとしているのか。
高成の背を追うと決めたのに、その先にあるものを、自分は何一つ知らない。
小瀬は問い返さなかった。
ただ、横目で高成を見た気配がした。
「ひとまず、身を隠す」
今度は、はっきりと高成は言った。
だが、その短い言葉の中に、今の高成にこれ以上の余裕がないことが滲んでいた。
「……了解だ」
小瀬もまた、深くは聞かなかった。
そしてようやく、二人は少しだけ言葉を交わし始める。
「けどこのまま街道筋をなぞれば、追手も読みやすいな。どうする」
「外す」
「なら、次の分かれで沢沿いだな。」
「ああ」
「山は越えねえ方がいい。馬がダメになっちまえばお終いだからな。俺が後ろを見る。お前は──…」
「…………」
「……」
「⋯」
会話は続いているはずなのに、まいにはそれが遠く聞こえた。
風の音に混じって、途切れ途切れに耳へ入る。
言葉の意味は分かるのに、うまく頭の中で形にならない。
小瀬は、仲間なのだろうか。
違と思う。仲間、というには、あまりにも突然だった。
では敵なのかと問われれば、それも違う。
さっき、確かに南雲の前で刃を返したのほ事実だ。
忠興に向かって、はっきりと。
では、何なのだろう。
それに。
本来の“目的地”とは、どこだったのか。
変わった、と高成は言った。
変わったということは、最初から明確に、どこかへ向かおうとしていたのだ。
その場所を、自分は知らされていない。
知らないまま、ここまで来た。
知らないまま、この先も行くのか。
胸の奥で、不安がじわりと広がる。
高成を、このまま信じ続けていいのか。
その問いが浮かんだ瞬間、まいは小さく息を呑んだ。
違う。
信じると、さっき決めたばかりじゃないか。
疑いたいわけじゃない。
信じたいのに、分からないことが多すぎるのだ。
信じることと、何も知らないことは、
同じではない。
けれど今、それを問いただせる空気ではないことも、分かっている。
高成の腕に重ねた手の下で、筋が時折かすかに張る。
また無理をしている。
そのことだけは、はっきりと伝わってきた。
まいは、不安を振り払うように、その手を少し強く握った。
高成は何も言わない。
振りほどきもしない。
ただ、手綱を握る指に、わずかに力が込もった気がした。
西へ傾いた陽が、長く影を引いていく。
二騎と一頭の馬影が、雪解けの道の上に細く伸びた。
どこへ向かうのか。
誰を信じればいいのか。
何が本当で、何がまだ隠されているのか。
分からないことは、少しも減っていない。
それでも。
まいはその手を離さなかった。
あの雪の日、聞き返せずに置いてきた言葉がある。
この先もついていくなら、もう曖昧なままではいられない。
前を行く道だけが、夕暮れの中でかすかに続いていた。
読んで頂きありがとうございます。
荒削りだった一章を整え直してます。
説明不足だったところ、描写不足、誤字脱字を修正しているため、幾分か読みやすく、より物語に没入して貰えるようにできたかな?と思ってます。
そもそも投稿時が酷すぎたのですがね……。
そして、もしよければなんですが、簡単に一言で十分なので、コメント頂けたら嬉しいです。
「つまらん」「よくわからん」なんでもOKですので、お待ちしています。ちなみに、普通に傷つきはします!




