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──視界が、揺れる。


白く霞み、輪郭が遅れて戻る。


背後から不安が滲むまいの声と、

漆駒が地を踏み鳴らす音が聞こえる。


(……来るな)


振り返らない。

振り返ればまいが動くのがわかっていた。


それだけは、避ける。


高成はわずかに左手を後ろへ下げた。

声は出さない。


それだけで伝わると信じるしかない。


「………っ」


胸が焼ける。

止まりかけそうな呼吸を、無理やり吐き出す。


冷えた空気のはずなのに、

全身から汗が滲み、指先が痺れている。


だが。


立つ。


ゆっくりと。


地を踏みしめ、重心を取り戻す。

刀を、構え直す。



眼前には、まだ敵がいる。

倒れられない。

引くわけにはいかない。


前方から泥を踏む蹄の音と共に、忠興が馬を進めてきた。高成の前に出て見下ろしてくる。


「……やはり効くのだな」


口元が歪む。


「人の皮を被った化け物め」


高成は無言で忠興を見上げた。


その目に、揺れはない。




──化け物。




幾度となく投げつけられた言葉。


今さら、傷つきはしない。


化け物で構わない。

それでいい。


忠興の嘲りは、

高成の耳を滑り落ちた。


だが、その言葉を聞いていたのは、高成だけではない。


忠興の言葉に引きずられるように、沈黙していた兵がざわめきだす。


「怯むな!囲め!」

「弱っている今だ!」


その目は、敵を見る目ではない。

獣を囲う目だった。


歩兵がじりじりと半円を描き、

槍先が高成に向けられる。


高成は何も言わない。


ただ、兵の足運びを見ながら、

その視線はそのさらに奥へ向いた。


隊列の先、先程まで、黒い袈裟が立っていた木立の奥へと。


すでに僧侶の姿は見えない。


(……何のつもりだ)


胸の奥で、静かに問いが立つ。


ここでまいを南雲に渡すことは、

僧侶側の計画をも破綻させる。


僧侶側で意見が割れたか。


───あるいは、裏切ったか。


一瞬だけ、

思考がそこへ向かう。


だが。


高成はそれを切り捨てた。


(……今はいい)


考えるな。


背後にはまいがいる。


痺れは残る。


だが、

動ける。


まだ、動ける。


抜けることだけを考えろ。

それだけを、思考の中心に据えた。


動こうとしない高成に、忠興が口元を吊り上げる。


「どうした、高成」


馬上から、高成の後方に向けて、刃が向けられる。


「後ろの娘が怯えているぞ。」


わかりやすい挑発だ。


高成は浅く息をついただけで、乗ることはない。


ただ刀をわずかに下げ、重心を落とす。


背後で漆駒が鼻を鳴らす。

合図を待っている。


(……一度で抜く)


長引けば、二撃目が来るかもしれない。

法力は、もう一度は耐えられない。



ならば、一瞬で。



静かに息を吸った。

その目から、余計な感情が消える。


次の瞬間。


高成は地を蹴った。


僅かに遅れて、兵達も一斉に高成へと踏み込む。


槍が唸る。

刃が閃く。


一人が高成の間合いへと踏み込んだ。

槍が突き出される。

だが、高成の方がより先に、その奥へと踏み込んだ。


泥を跳ね上げ、刃が走る。


──狙ったのは槍の柄。


手元が、わずかに狂う。


「ぎゃああああ!?」


刃は、柄ではなく、手首を斬った。


血が噴きだし兵が悲鳴を上げる。

高成の眉が僅かに寄った。


(クソ…っ)


いつもならば。

受け、いなし、柄を払う。


だが今は違う。

胸の奥の痺れが、細微な感覚を奪う。


だが——躊躇えば、二撃目が来るかもしれない。


それが、高成を焦らせた。


(……構うな)


次が来る。


二撃目を避け、刃を返す。


「ぐぁ!?」


喉を浅く裂くつもりが、深く入った。

温かい飛沫が頬を濡らす。


刃を振るうたび、胸の軋みが増した。


「邪魔だ」


それを振り切るように、倒れかけた兵を踏み越える。


次から次へと、敵は殺到した。


息が、切れる。


白む視界の端で、

高成は黒い袈裟を探した。


——まだ近くにいるはずだ。


裏切るというなら、先に処理すべきは僧侶だ。その後はどうとでもなる。


(どこだ)


刃を受け流し、脇腹へ打ち込む。


血が、さらに舞う。


泥と混じる。


横薙ぎ。


踏み込み。


刃が沈む。


骨と肉を断つ感覚が不快だ。

だが、止まれば、終わる。


だから、高成は、斬り、払うのを繰り返した。

打ち合いにすらしない。


徐々に兵の顔が変わっていく。


最初は怒号。


次に動揺。


そして。



恐怖へと。



「ひっ……」


一人の兵が、槍を落とした。

別の兵が背を向ける。


「引け──」


誰かが命令しかけるより先に、

その背に、高成の刃が迷いなく届きかけた。




その時。


鋼が、鋼を打つ音。




高成と兵の間に割って入るように、

騎馬が一騎、動いた。


刃が横から弾かれる。


「…!」


高成は僅かに体勢を崩し、相手を見た。


見慣れた顔だった。



「そこまで」



──静かな、声。



高成の刃を止めたのは、小瀬だった。


小瀬は刃を受けた腕のしびれを払いながら、

南雲と高成の間に馬を止める。


高成の視線が、鋭く光る。

まるで、追い詰められた獣のように。


怒気の滲む声が響く。


「どけ。お前を、斬りたくはない」


対して小瀬は、馬耳東風とでもいうように、

その涼しげな表情を崩すことはなかった。


「嫌だね。俺は死ぬなら、美人の傍でって決めてんだ」


軽い調子で言う、的外れな言葉。


高成は苛立ちを隠さなかった。


「軽口はいい。邪魔をするなら、お前でも容赦はしない」


声音に揺れはない。

本気だ。


小瀬は動かない。


睨み合いが続く。


やがて、高成の目が細められ、軸足が静かに泥を踏みしめた、その時。


「乗れ」


小瀬の口が、小さく動いた。


(───…?)


高成の瞳が、僅かに揺れる。

高成はその意味が理解できなかった。

なのに、


「漆駒!こいつを乗せていけ!」


小瀬は高成の背後に目を向け、

声を張り上げる。


せわしなく回っていた思考がそこで一度止まる。


(は…?)


高成は、信じられないものを見るかのように、小瀬を見た。小瀬はその顔に、露骨に苛立ったように眉をひそめる。


「乗れ!!」


重ねて、叩きつけるような一喝。

泥と怒号の只中で、二人の視線が真っ向から噛み合う。


いつもの軽い調子を捨て、小瀬は高成をまっすぐ見つめている。



──その目が、高成の胸の奥の霧を裂いた。



(馬鹿なことを……!)


呼吸が深く入る。

視界が戻る。


兵の恐怖。迫る騎馬隊。背後の戸惑い。

全てが、同時に戻る。


周囲がざわめく。


「何を言っている小瀬!?」


そのざわめきに紛れ、

高成は背後を振り返った。


漆駒が、まいを乗せたまま泥を蹴って駆け寄ってくる。


忠興の怒声が響く。


「小瀬!やはり裏切るか…!!」


小瀬は嗤った。


「俺の友達を、寄ってたかって虐めるんじゃねーよ!」


「ッ貴様……!くそっ!斬れ!二人共々斬れ!!」


命が飛ぶ。

だが高成によって、歩兵は壊滅状態だ。


忠興は舌打ちをすると、

小瀬に向かって馬を突進させた。


再び刀同士がぶつかる音が響く。


二人は二、三合打ち合い、馬上で鍔迫り合いとなった。


「忠興殿!そんな短気じゃ、長生きできねーぜ」


とんでもないことをしておきながら、

やはり小瀬は、口元の軽い笑みを崩さない。


「ふざけるな。死ぬのは貴様の方だ…!」


双方の視線が、火花を散らす。


だが、それは長くは続かず、小瀬は馬腹を蹴り、忠興の馬を押し返した。


その隙を、騎馬が二騎抜ける。


「行かせねーよ!」


小瀬の手元が閃く。


腰の脇から引き抜いた細い鉄──打根が、手首の返しだけで放たれる。真っ直ぐ走ったそれが、一人の喉元へ深く突き立った。


「がっ……!?」


怯んだもう一騎へ、返す太刀が走る。

脇腹を深く抉られ、馬上の体がぐらりと傾ぐ。


二人は、ほとんど同時に崩れ落ちた。


周囲が息を飲む。

その二人は、隊の中でも随一の手練れだった。


小瀬にここまでの腕があるなど、誰も知らなかった。


その後方で、高成が馬に乗る。


「忠興様! 奴が逃げます!」

「高成が……!」


兵たちのどよめきが、一気に広がる。


小瀬はそれを確認すると、


「高成!走れ!」


軽く手を上げ、

馬を反転させた。


「く…っ」


小瀬に押し返された衝撃で、忠興の左肩には甲冑の下で血が滲んでいる。かつて高成に刻まれた傷だ。


腕に力が入らない。

だが、やっと掴んだのだ。

再び取り逃がすわけには行かなかった。


「追え!!!」


絞り出すような怒声と共に騎馬隊が動く。


その瞬間。

再び小瀬の手元が動いた。


馬の脇から、革袋が落ちる。


「なっ…!?」


勢いよくばら撒かれる鉄。


撒菱だ。


泥に黒い棘が散乱する。

馬が嘶き蹄が止まる。


「ぐっ……!」


前に出た騎馬が踏み抜き体勢を崩す。

次々に足を取られ隊列が乱れる。


後方の馬も強引に踏み込めず、急停止する。

その雑踏の中で小瀬は崩れ落ちた騎馬から槍を奪うと、忠興達に背を向けた。忠興を尻目に、ひらひらと手を振る。


「じゃ、悪ぃな」


去る時でさえ、小瀬はその軽い調子を崩さなかった。


「くそ……!」


怒りで震える視線が、小瀬よりも先の、

遠ざかる背中を追う。



——あの日と同じだ。


泥に膝をつかされ、

目の前で背を向けられた。


届かなかった。


今もまた、届かぬのか。


忠興は歯を食いしばる。


(おのれ……おのれ!生田高成……!!)


その背はどんどん遠ざかっていき、

やがて小さく見えなくなる。


もう届かない。


忠興の悔しげな咆哮だけが、雪解けの空へ鋭く突き上がった。







***






雪解けの泥を蹴り、

二騎は南へと駆け抜けた。


漆駒の背で、高成は振り返らない。


振り返らないまま、背後に迫るはずだった刃の気配が来ないことを確認する。


代わりにあるのは――馬蹄の規則正しい音。

一定の距離を保ち、乱れず追随する気配。


背を、任せている。


その事実が、胸の奥にわずかな違和感を残した。


高成は何も言わない。


ただ前を向いたまま、

漆駒の首筋を一度だけ強く叩く。


さらに速度が上がる。


背後では小瀬の馬が、ぴったりとその動きに合わせた。



初めてだった。

背を、誰かに預けたまま走るのは。



二騎の馬蹄が、雪解けの道を裂いていく。

その音だけが、確かに並んでいた。







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