烈月
漆駒が、低く息を吐いた。
宿場の南口へ至るまで、高成はあえて最短を取らなかった。
街道を駆け抜けるのではなく、一度横道へ入り、民家の軒先すれすれを抜け、土塀と裏庭の間の細道を縫う。
荷車の轍で抉れたぬかるみも、雪解け水の溜まった石畳も、漆駒は足を迷わせない。
そのたび、腕の中のまいの身体がこわばるのがわかった。
背に触れる呼吸は浅く、鞍の前輪を掴む指先にも力がこもっている。
高成は、それをなだめることはしなかった。
ただ落とさぬよう支え、進路だけを選び続ける。
そして、包囲を目視した瞬間、轡を静かに引いた。
蹄が泥を踏みしめ、止まる。
宿場町の出口。
民家と板塀、荷置き小屋に挟まれた南口は、もともと広くない。馬が二騎並べば窮屈になるほどの道幅しかなく、その先でようやく街道へ開ける。
そこを、塞がれていた。
歩兵が横一列に槍を構え、道を塞ぐ。
左右には騎馬隊。
――読み通りだ。
ここへ来るまで、あえて時間をかけた。
その甲斐あって、兵の疲労と集中力の揺らぎが、隠しきれずに滲んでいる。
高成の視線が、わずかに地面へ落ちた。
雪解けの泥。
踏み荒らされ、一部だけ深く抉れている。
歩兵の間隔が、右側だけ僅かに広い。
騎馬隊も同様だ。
馬がぬかるみを避けようとし、落ち着きを欠いている。
並の馬なら、足を取られ、滑り、転ぶ。
だが。
(漆駒なら、抜ける)
足裏の感触。
重心の運び。
この馬は、泥を嫌わない。
ならば。
――中央突破ではなく、斜め。
瞬時に、動線が頭の中で組み上がる。
突入角度。
歩兵の恐怖の揺れ。
騎馬の追尾軌道。
追いつかれるなら、斬るだけだ。
高成は静かに顔を上げる。
槍列の向こう、馬上の忠興と目が合った。
「待っていた」
忌々しげな声が、冷えた空気を震わせる。
「随分と、悠長に楽しんでくれていたようだな」
「………」
その裏にある感情を、高成は理解している。
今回の潜伏は、戦略としては下策。
追われる身で、宿場町に留まるなど。
それでも、実行した。
目的のために。
そして、それは果たされた。
忠興の矜持を逆撫でしたことも、承知の上だ。
だが、今はその機嫌を取る気はない。
「どけ」
声を低く落とす。
「無駄に血を流したくない」
目の前の布陣は、良い。
忠興らしく堅実で合理的だ。
だが。
(──忠興は、兵の震えを知らない。)
そこに、抜けられるという確信を得る。
言葉の裏に滲んだものが、忠興のこめかみに浮かぶ青筋となって現れた。
「ほざけ」
声音に怒気が混じる。
「行かせるものか」
当然だ。
高成はそれを織り込み済みで、一瞬だけ目を伏せる。
(致し方ない)
それを最後に、僅かな諦観は、静かな殺気へと変わった。
目を開く。
並ぶ兵を見渡し、怯えの滲むその目を見た。
異形と恐れられた元重臣の圧に、兵の肩が一斉に強張る。
腕の中のまいが、息を呑むのがわかった。
鞍の前輪を、震える指で握りしめている。
高成は両膝で、まいの腿を挟み固定し直した。
「掴まっていろ」
彼女にだけ聞こえるほどの、囁きに近い声。
それだけ告げて、意識を前へ切り替える。
鞘から、太刀を抜く。
重い金属音が冬の冷気ごと静寂を裂き、
その刃は、迷いなく忠興へ向いた。
双方の視線が、ぶつかる。
「ならば」
切っ先が、わずかに返る。
「押し通るだけだ」
その瞬間。
歩兵が一斉に槍を向け、穂先が揺れる。
騎馬隊も警戒態勢に入った。
風が、止まる。
漆駒の筋肉が、わずかに震える。
高成は轡を緩めに握り直し、太腿で静かに圧をかけた。
そして、
――爆ぜるように疾走する。
蹄が泥を抉り、一直線に歩兵へ向かう。
「ひっ……!?」
まさかの突進。
歩兵が後退り、隊列が乱れる。
兵は無意識にぬかるみを嫌い、左へ寄る。
そのまま中央突破──に見せかけ、
綻びを、漆駒が裂いた。
右側の兵の間、土の抉れた場所へと。
泥を蹴り上げ、深みに踏み込む。
並の馬なら沈む。
だが、漆駒は滑らない。
地を掴む。
横から騎馬が動こうとする。
だが、弾き出された歩兵が障害となった。
その遅れは、致命的だ。
高成の刃が、最も近い槍の柄を弾く。
「生田高成!!」
憤怒の声と共に、
視界の左端、最も濃い殺気が割り込んできた。
「顔を伏せろ」
左前腕を一瞬まいの腹前に入れ支える。
「……っ」
小さく息を呑む音だけがしたが、悲鳴はなかった。
忠興が左から斬りかかってくる。
高成は体を捻り、その斬撃を刀で受け流す。
馬は止めない。
そのまま、脚で漆駒を横滑り気味に振り、騎馬一騎の進路を斬るように遮った。
遮られた馬が嘶き、進路を失った騎馬がわずかに足踏みする。
さらに横から騎馬が動こうとするが、弾き出された歩兵が絡み、泥濘に足を取られた。
その一瞬で、間は開いた。
(このまま、駆け抜ける)
作戦通りだ。
だが。
────違和感。
言いようのない感覚が、背筋を撫でる。
何かを、読み間違えたかのような。
一瞬、馬上で体勢を立て直す忠興を見る。
その目が細くなる。
(……何だ)
違和感の正体は忠興ではない。
止まる理由はない。
そのまま漆駒を前へ走らせようとした。
その、視界の端。
左前方の、森の中。
黒い袈裟が、揺れた気がした。
「!」
高成は目を見開く。
影が、袖の内から手を上げる。
開いた掌が、狙い違わず高成を捉えていた。
(僧…!?なぜここに──!)
刹那。
空気が震えるほどの衝撃音。
木々が騒めく。
鉄砲ではない。
ましてや弓でもない。
――打たれた。
胸の奥で、何かが弾ける。
心臓が、止まる。
呼吸が、消える。
視界が白く抜け落ちる。
轡の感触が、高成の指から消えた。
漆駒が嘶き、体が宙に放り出される。
痛みは鋭いのに、傷のようではない。
熱いのに、火傷でもない。
ただ、己の内奥そのものを侵される不快さだけが、あまりにも鮮明だった。
「……っ」
地面に落ちる直前に、高成は意識を掴み戻した。
(法力、か……!)
空中で体勢を捻り、
敵の迫る後方へ向く形で、受け身を取る。
肩への衝撃とともに、泥が跳ねた。
「生田さん!?」
背後で、悲鳴のようなまいの声と、
戸惑う蹄の音がする。
来るな、と喉が叫ぶ。
だが肺が、呼吸を思い出せない。
四肢が遠い。
気を抜けば、再び意識を持っていかれそうだ。
(――止まるな)
懸命に、思考を回す。
だが酸素の薄い頭は働かない。
(──止まるな、考えろ)
この場を、切り抜ける方法を。
こんなところで、投げ出すわけにはいかない。
心拍の乱れを、強引に飲み込む。
空気を肺へ押し込み、
歯を食いしばる。
高成は痺れの残る四肢を叩きつけるようにして、体を起こした。
刀を握り直す。
万全ではない。
だが折れるわけにはいかない。
泥に膝をついたまま、切っ先を上げる。
その形相に、兵が一歩退く。
様子を馬上から見下ろしていた忠興の目が、わずかに揺れた。
(何故だ)
思わず、喉の奥がひくりと鳴る。
法力は、確かに、
効いた。
僧の法力は、人には効かぬ。
異形を穿つためのものだ。
現に高成は落馬し、泥に膝をついている。
(……やはり人ではない)
異形ゆえ、あの法力をまともに受けて、無傷では済まなかった。
(ならば、何故…)
やっと、その澄ました顔を歪ませたというのに。
胸の奥の屈辱が消えない。
何故、倒れぬ。
何故、立てる。
泥に濡れたその影が、夕光の中でわずかに揺らぐ。
その姿が、ひどく不気味だった。
完全な異形でもない。
人でもない。
ならば、
お前は何者なのだ。
「……化け物め」
忠興は、低く呟いた。




