待つ者
寒村の街道を最後に消息を絶った高成を、
忠興は追うのをやめた。
正確には、
“追う”という考えを捨てた。
女を連れている。
山は越えぬ。
急げば目立つ。
ならば、遠くへは行けない。
野に潜る男ではない。
盗みに落ちる男でもない。
必ず、身を置く場所を選ぶ。
地図の上で、街道沿いの宿場町に印をつける。
大きすぎれば、噂が立つ。
小さすぎれば、余所者は目立つ。
中規模の町。
商いがあり、人の出入りがあり、
浪人を雇っても不自然ではない場所。
隊を分け、
踏み込まず、
溶け込ませる。
旅籠の帳面を洗い、
厩の出入りを探り、
馬売りに尋ねる。
「黒い馬を見なかったか」と。
一つ、また一つと可能性が消え、
そして、残った。
南方の宿場町。
ある商家。
外との取引が、急に増えた。
また、その頃から、護衛を一人雇ったという。
名は出ぬ。
だが、見目がよく、腕の立つ浪人だと。
そして、近隣の厩に預けられた馬は黒い。
よく躾けられている。
戦馬の体躯。
それで足りた。
忠興は笑わない。
「囲め」
ただ、それだけを告げる。
踏み込まぬ。
逃げ道を削る。
暴くも捕らえるも、すべてその後でよい。
***
宿場町の南口。
普段なら荷車と旅人で賑わう街道は、
今は、異様なほど静まり返っていた。
商人も、
行き交う百姓も、
すでに退かされている。
雪解けの泥だけが、
踏み荒らされた跡を鈍く光らせていた。
中央に、歩兵。
槍を構え、
間隔を空け、
道を塞ぐように並ぶ。
その後ろ。
馬上に忠興。
さらに左右には騎馬隊が控えている。
右翼の騎馬隊の中ほどには、
小瀬の姿があった。
腕は悪くない。
機転も利く。
だから右翼に入れた。
——完全に信じているわけではない。
裏切り者の、旧知。
高成は人付き合いを好まぬ男だった。
傍目には、小瀬が一方的に絡んでいるように見えていた。
だが、小瀬は生田家の家臣。
家ぐるみで動いていても、不思議はない。
(……いや)
小瀬のことは、幼少の頃から知っている。
家に縛られるのを、嫌っていた。
そして、人当たりはいいくせに、肝心なところでは誰にも腹を見せない男だ。
群れているようで群れず、笑っていても、その実いちばん信じているのは己だけ。
ああいう手合いは、情では動かない。
忠興は小瀬を横目に見た。
疑いを向けられていることなど露ほども気づかぬ様子で、小瀬は欠伸をしている。
槍を肩に担ぎ直し、隣の兵に何か囁く。
肩が揺れる。
笑っている。
緊張で張り詰めた隊列の中、
そこだけ空気が緩む。
忠興の視線が、冷たく落ちる。
小瀬は振り返らない。
気づいていないのか。
あるいは、気づいていて気にしないのか。
(もし裏切ったとしても……斬れば済む話だ)
そう、判断を下す。
小瀬はそれなりに腕は立つが、目を見張るほどではない。
仮に裏切ろうと、高成と違い、
脅威になる前に切り落とせる。
(……そろそろだ)
忠興は、じっと前方を見据える。
高成を、商家で捕えられるとは思っていない。
あれは、包囲を抜ける。
抜けて、
この一本道へ出る。
ならば、待つだけだ。
斥候の報せでは、
宿と商家は押さえた。
だが——
そこで捕らえたという報せは、
まだ来ない。
(遅い)
ほんのわずかに、忠興の眉が動く。
伝令役は、すぐ戻るはずだ。
戦闘は指示していない。
陽動である商家の正面の部隊の突入とともに、裏から奴が「突破した」と知らせる役。
それが来ない。
(何をしている……)
西日が、街道の泥を鈍く照らしていた。
日はすでに傾きかけている。
雪はほとんど消え、
残る白は、林の影だけだ。
長く張り詰めた隊列にも、
わずかな弛みが生まれ始めていた。
槍の穂先が、わずかに揺れる。
足を踏み替える音。
馬が鼻を鳴らし、蹄を鳴らす。
凍えの抜けきらぬ指が、柄を握り直す。
集中は、削られていた。
待つ戦は、刃よりも神経を摩耗させる。
忠興は、それを承知していた。
(早く来い)
苛立ちは、表情には出さない。
だが、
胸の奥で燻る。
忠興は、無意識に左肩へ手をやった。
籠手越しに、肩当を掴む。
鉄の冷たさの下に、
癒えきらぬ痛みがある。
高成に斬られた肩。
傷は塞がった。
だが、完全には消えていない。
寒い日には疼く。
そこを、わざと握る。
屈辱を、
忘れないために。
あの日。
裏切りが露見した夜。
澄ました顔で、
迷いなく刃を振るった男。
——南雲を斬り捨てた男。
それからの追撃の日々。
こちらが屈辱を抱え、体勢を整えている間。
高成はより遠くへ逃げるでもなく、
宿場町に紛れ、まるで普通の侍のように暮らしていた。
穏やかに。
人に混ざって。
それが、
忠興の神経を逆撫でした。
(逃げ切れると踏んでいたのか)
こちらの追撃など、
脅威ではないと。
馬鹿にされた気分だった。
昔からそうだ。
こちらが順当に道を踏み、役目を果たして積み上げてきたものを、高成はいつも当然のように追い越していく。
武功も景綱の覚えも、欲しているようには見えぬくせに、気づけばあの男のもとへ集まっていた。
誇るでもなく、見せびらかすでもなく、ただ出来てしまうという顔をしている。その無造作さが、何より腹立たしい。
だが。
今回は違う。
忠興は、
視線を細める。
(今度は逃がさん)
主命は、生け捕り。
だが、
五体満足である必要はない。
腕が折れても。
脚が潰れても。
生きていればいい。
屈服させる。
あの高みから、
引きずり下ろす。
女の方は、取るに足らない。
高成がいなければ、ただの娘だ。
高成さえ抑えれば、すべて終わる。
そして。
今回は──伏せ札がある。
歯痒いが、己の力だけで屈服させられぬ相手であることは、分かっている。
あの跳躍──
人の理を外れた者には、
理の外の手を打つ。
高成が、それを読めるかどうか。
(……試させてもらうぞ)
隊列のさらに後方。
街道を外れた林の奥。
人影が、
木立の影に溶けている。
法衣の裾が、
風にわずかに揺れた。
誰も声を出さない。
歩兵の背に隠れる位置でもない。
騎馬隊の列にも入らない。
ただ、
戦の輪から一歩外れた場所で、
じっと待っている。
忠興は、
それを振り返らない。
だが、存在は把握している。
(効くか、効かぬか)
口の端が、わずかに歪む。
人であれば、効かぬ。
人でなければ——
それもまた、面白い。
どちらでもいい。
高成の顔が歪むなら。
澄ましたその貌が、
初めて崩れるなら。
(化けの皮を剥がしてやる)
風が、雪解けの匂いを運ぶ。
その時。
遠く。
蹄の音が、
かすかに響いた。
まだ誰も顔を上げていない。
だが忠興だけは、先にそれを聞き取っていた。
隻眼が、細く光る。
「……来たか」
待ち続けた獲物が、
ようやく、姿を現そうとしていた。




