読まなかった一手
漆駒の呼吸が、ようやく規則正しく整った。
荒れていた胸の上下が静まり、鼻先からこぼれる白い息も長く細い。
太陽は商家を出た時よりわずかに傾き、影が少し伸びている。
どれほど経ったのだろう。
まいには、ずいぶん長く感じられた。
その時、少し先を並走していた高成が、馬から降りるのが見えた。
「降りろ」
短い声で、自分も馬を降りるよう指示される。
だけど。
(高い……)
漆駒はわずかに歩みを残している。どう足を下ろせばいいのか迷った。
だが、そんなことも折り込み済みなのだろう。高成が轡を取って歩みを止めてくれた。
差し出された手を取る。
地に降り立つと、足裏に伝わる冷えがやけに鮮明だった。
そして、高成は、そのまま二頭の手綱を引き、近くの水場へ寄せ、手綱を緩めた。
まいも後を追う。
張り詰めていたものが途切れたせいか、膝がひどく頼りない。震える脚を叱るようにしながら、一歩ずつ確かめて進んだ。
馬は急がない。
静かに水を含み、喉を鳴らす。
その様子を見つめながら、胸の奥がざわつく。
(こんなに、ゆっくりしていていいのかな)
自分達は逃げている。
今にも背後から追っ手が迫るのではないか。
前からも兵が現れ、挟み撃ちに遭うのではないか。
焦りが、喉の奥を締めつける。
だが高成は何も言わず、地面に目を落としていた。
雪解けで緩んだ土。
轍の深さ。
踏み荒らされた足跡。
ただ休ませているのではない。
読んでいる。
まいは口を開きかけ、閉じる。
(……意味がある)
自分には分からなくても、高成が立ち止まる時は、必ず理由がある。
やがて高成は、自分の乗ってきた馬の手綱を放した。
(え…?)
馬は一瞬だけ立ち止まり、高成を見る。
命じられないと悟ると、鼻を鳴らし、来た道へと駆け去った。
蹄の音が遠ざかる。
「……いいんですか?」
思わず問う。
二頭で進むのだと思っていた。長い道のりと漆駒の負担を思えば、その方がよいはずだ。
高成はまいを一瞥すると、答えず、ゆっくりと地にしゃがみ込んだ。顔を上げ、言葉の代わりに目だけで隣を示す。
それに倣い、まいも高成の横に屈む。
高成は近くにあった小枝を取ると、地面に簡易的な地図を描いた。
迷いのない動きだった。
何をするつもりなのかと身構えたが、地に描かれていく線を見て悟る。
説明してくれるのだ。
まいが口を挟まず待つのを確かめるように、一度だけ視線を寄越し、高成は低く口を開いた。
「忠興は退路を残さぬ。北は既に見ていると考えるべきだ」
小枝の先が、地図の北側を容赦なく塞ぐ。
まいは小さく息を呑んだ。
脳裏に浮かぶのは、城を出る間際、高成に激しく詰め寄っていた隻眼の武士だ。
あの男は感情に任せているようでいて、実際はその怒りすら計算の内にあるように見えた。鋭く、執念深く、わずかな綻びも見逃さない。
そんな相手が、今まさにこちらの退路を読んでいる。
そう思っただけで、背筋の内側を、冷たいものがゆっくりと這い上がった。
高成は続ける。
「そして、西は守護大名の領地。」
一本、横へ線を引き、すぐに斜線を引く。
そして間を置かず、次は反対側へ短く刻む。
「東は山。抜け道にはならぬ」
次は、その二本の線の間に、細い道筋が引かれた。
「この宿場は、街道を通すために開けてはいるが、好きに抜けられる形はしていない」
高成の小枝が、囲うように線を重ねていく。
「左右を塀と家並みに挟まれ、外れには堀と斜面がある。東は山、西は他領。外から見れば開けていても、追われる側にとっては袋に近い」
小枝の先が、最後に南の道をなぞる。
「南へ抜けるしかない」
まいの喉が鳴る。
小枝が、ためらいなく下へ走った。
一本道。
その線が、ぴたりと止まる。
その先に、高成は容赦なく印を重ねた。
「だが、こちらが南へ向かうと分かれば、忠興は出口を押さえているだろう」
土の上、唯一の逃げ道に、バツ印がはっきりと刻まれる。
待ち構えられている。
そこへ、自ら向かう。
(……怖い)
だが、その感情は喉の奥で押し留める。
高成は気づいているはずだ。
代わりに、結論だけを示す。
「分かれている余裕はない。二人で乗り、突っ切る」
その時。
漆駒が水を飲み終え、顔を上げた気配がした。
言い終えると、高成は小枝をその場へ放り、土を払うようにして立ち上がった。
漆駒の側へと寄り、鬣に手を置いて軽く叩く。
漆駒が、低く鼻を鳴らした。
「前に乗れ」
「っ…はい」
促され、まいは駆け寄り鐙に足をかける。
高成が腰を支え、体を押し上げる。
続いて背後から跨り、まいの両脇を越えて手綱を取った。
高成の腕に囲われている。
城から連れ出された夜と、同じ位置。
あの時は、恐怖しかなかった。
どこへ連れていかれるのかも分からなかった。
だけど、今は違う。
背中に触れる体温は、支えだ。
守るための腕だと知っている。
同じ姿勢なのに、胸の内はまるで違う。
逃亡の月日が、少しずつ形を変えてきた。
(私は、生田さんを……信じている)
その自覚が、思いのほか静かな安堵をもたらしていた。
「振り落とされるな」
低い声が耳元に落ちる。
それ以外は自分が受け持つ、という響き。
まいに出来ることは多くない。
足手まといにならず、迷わず従うこと――今この場で求められているのは、それだけだ。
ならば返す言葉も、もう決まっていた。
「はい⋯!」
返事と同時に、
漆駒が地を蹴った。
南へ。
出口へと。
空気が、わずかに張り詰める。
まいは息を詰める。
その先に待つものを、知りながら。
高成の腕が、言葉の代わりのように、わずかに締まったのを感じた。
***
漆駒の歩みは、一定だった。
宿場町南の出口へ向かう道は、人がまばらだった。
普段なら荷を抱えた商人や旅人が増えるはずだが、今日は雪解け直後、あいにくの悪路だ。
高成は、前方を見据えたまま、頭の中で配置を組み立てていた。
(待ち構えるなら、出口だ)
街道は細い。
左右は建物と土塀。
正面を塞げば、逃げ場はない。
(中央に歩兵。両脇に騎馬)
騎馬で挟み、圧をかける。
歩兵は止める役。
弓があれば、後方。
人数は三十。
多くて四十。
それ以上の兵をこちらに割く余裕は、南雲にはない。
また、追撃は速さが命だ。数ではない。
一つ。懸念があるとすれば──
いや。
(……僧は来ない)
頭の中で、そう、断言した。
あの夜。
玄道と交わした密約を、思い出す。
──贄の娘だ。今宵、確実に連れ出せ。生贄の流れは断たせぬ。
あの男は、水面下でしか動かぬ。
兵の後ろに立つような真似はしない。
表の戦に混じる性質ではない。
南雲と、利害が一致するはずもない。
(人だけなら、抜けられる)
騎馬が詰めても、斬り開ける。
歩兵の間を裂いて、突破する。
漆駒は、ただの馬ではない。
殺気を読む。
道を選ぶ。
まいを乗せていても、
加速の一瞬を作れれば十分だ。
高成の指が、手綱をわずかに引く。
漆駒の耳が、ぴくりと動いた。
(囲まれる前に、突っ切る)
忠興は焦らない男だ。
待つ。
読んでいる。
だが、南雲のやり方を知っているこちらも、十分に分がある。
高成は、呼吸を整える。
焦りはない。
過信もない。
ただ、選択肢を削っていく。
西は守護大名の領地。
東は山。
南へ抜けるしかない。
そして南で待つのなら、
そこを越えればいい。
(問題はない)
声に出さず、そう結論づける。
腕の中のまいが、わずかに身体を強張らせたのが伝わる。
高成は、短く言った。
「掴まっていろ」
それだけ。
説明はしない。
安心させる言葉もない。
だが、その声に迷いはなかった。
漆駒が、歩みを少し速める。
宿場町南の出口が、ゆっくりと近づいていた。
──高成はまだ知らない。
その布陣の中に、
自分が読まなかった“一枚”が混じっていることを。




