表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
65/78

読まなかった一手




漆駒の呼吸が、ようやく規則正しく整った。


荒れていた胸の上下が静まり、鼻先からこぼれる白い息も長く細い。


太陽は商家を出た時よりわずかに傾き、影が少し伸びている。


どれほど経ったのだろう。

まいには、ずいぶん長く感じられた。


その時、少し先を並走していた高成が、馬から降りるのが見えた。


「降りろ」


短い声で、自分も馬を降りるよう指示される。

だけど。


(高い……)


漆駒はわずかに歩みを残している。どう足を下ろせばいいのか迷った。

だが、そんなことも折り込み済みなのだろう。高成が轡を取って歩みを止めてくれた。


差し出された手を取る。


地に降り立つと、足裏に伝わる冷えがやけに鮮明だった。


そして、高成は、そのまま二頭の手綱を引き、近くの水場へ寄せ、手綱を緩めた。


まいも後を追う。


張り詰めていたものが途切れたせいか、膝がひどく頼りない。震える脚を叱るようにしながら、一歩ずつ確かめて進んだ。


馬は急がない。

静かに水を含み、喉を鳴らす。


その様子を見つめながら、胸の奥がざわつく。


(こんなに、ゆっくりしていていいのかな)


自分達は逃げている。


今にも背後から追っ手が迫るのではないか。

前からも兵が現れ、挟み撃ちに遭うのではないか。


焦りが、喉の奥を締めつける。


だが高成は何も言わず、地面に目を落としていた。


雪解けで緩んだ土。

轍の深さ。

踏み荒らされた足跡。


ただ休ませているのではない。


読んでいる。


まいは口を開きかけ、閉じる。


(……意味がある)


自分には分からなくても、高成が立ち止まる時は、必ず理由がある。


やがて高成は、自分の乗ってきた馬の手綱を放した。


(え…?)


馬は一瞬だけ立ち止まり、高成を見る。

命じられないと悟ると、鼻を鳴らし、来た道へと駆け去った。


蹄の音が遠ざかる。


「……いいんですか?」


思わず問う。


二頭で進むのだと思っていた。長い道のりと漆駒の負担を思えば、その方がよいはずだ。


高成はまいを一瞥すると、答えず、ゆっくりと地にしゃがみ込んだ。顔を上げ、言葉の代わりに目だけで隣を示す。


それに倣い、まいも高成の横に屈む。


高成は近くにあった小枝を取ると、地面に簡易的な地図を描いた。


迷いのない動きだった。


何をするつもりなのかと身構えたが、地に描かれていく線を見て悟る。


説明してくれるのだ。


まいが口を挟まず待つのを確かめるように、一度だけ視線を寄越し、高成は低く口を開いた。


「忠興は退路を残さぬ。北は既に見ていると考えるべきだ」


小枝の先が、地図の北側を容赦なく塞ぐ。

まいは小さく息を呑んだ。


脳裏に浮かぶのは、城を出る間際、高成に激しく詰め寄っていた隻眼の武士だ。


あの男は感情に任せているようでいて、実際はその怒りすら計算の内にあるように見えた。鋭く、執念深く、わずかな綻びも見逃さない。


そんな相手が、今まさにこちらの退路を読んでいる。


そう思っただけで、背筋の内側を、冷たいものがゆっくりと這い上がった。


高成は続ける。


「そして、西は守護大名の領地。」


一本、横へ線を引き、すぐに斜線を引く。


そして間を置かず、次は反対側へ短く刻む。


「東は山。抜け道にはならぬ」


次は、その二本の線の間に、細い道筋が引かれた。


「この宿場は、街道を通すために開けてはいるが、好きに抜けられる形はしていない」


高成の小枝が、囲うように線を重ねていく。


「左右を塀と家並みに挟まれ、外れには堀と斜面がある。東は山、西は他領。外から見れば開けていても、追われる側にとっては袋に近い」


小枝の先が、最後に南の道をなぞる。


「南へ抜けるしかない」


まいの喉が鳴る。


小枝が、ためらいなく下へ走った。


一本道。


その線が、ぴたりと止まる。


その先に、高成は容赦なく印を重ねた。


「だが、こちらが南へ向かうと分かれば、忠興は出口を押さえているだろう」


土の上、唯一の逃げ道に、バツ印がはっきりと刻まれる。


待ち構えられている。


そこへ、自ら向かう。


(……怖い)


だが、その感情は喉の奥で押し留める。


高成は気づいているはずだ。


代わりに、結論だけを示す。


「分かれている余裕はない。二人で乗り、突っ切る」


その時。

漆駒が水を飲み終え、顔を上げた気配がした。


言い終えると、高成は小枝をその場へ放り、土を払うようにして立ち上がった。


漆駒の側へと寄り、鬣に手を置いて軽く叩く。

漆駒が、低く鼻を鳴らした。


「前に乗れ」


「っ…はい」


促され、まいは駆け寄り鐙に足をかける。

高成が腰を支え、体を押し上げる。


続いて背後から跨り、まいの両脇を越えて手綱を取った。


高成の腕に囲われている。

城から連れ出された夜と、同じ位置。


あの時は、恐怖しかなかった。


どこへ連れていかれるのかも分からなかった。


だけど、今は違う。


背中に触れる体温は、支えだ。

守るための腕だと知っている。


同じ姿勢なのに、胸の内はまるで違う。

逃亡の月日が、少しずつ形を変えてきた。



(私は、生田さんを……信じている)



その自覚が、思いのほか静かな安堵をもたらしていた。


「振り落とされるな」


低い声が耳元に落ちる。


それ以外は自分が受け持つ、という響き。


まいに出来ることは多くない。

足手まといにならず、迷わず従うこと――今この場で求められているのは、それだけだ。


ならば返す言葉も、もう決まっていた。


「はい⋯!」


返事と同時に、

漆駒が地を蹴った。


南へ。


出口へと。


空気が、わずかに張り詰める。


まいは息を詰める。


その先に待つものを、知りながら。


高成の腕が、言葉の代わりのように、わずかに締まったのを感じた。







***






漆駒の歩みは、一定だった。


宿場町南の出口へ向かう道は、人がまばらだった。

普段なら荷を抱えた商人や旅人が増えるはずだが、今日は雪解け直後、あいにくの悪路だ。


高成は、前方を見据えたまま、頭の中で配置を組み立てていた。


(待ち構えるなら、出口だ)


街道は細い。

左右は建物と土塀。

正面を塞げば、逃げ場はない。


(中央に歩兵。両脇に騎馬)


騎馬で挟み、圧をかける。

歩兵は止める役。

弓があれば、後方。


人数は三十。

多くて四十。


それ以上の兵をこちらに割く余裕は、南雲にはない。

また、追撃は速さが命だ。数ではない。


一つ。懸念があるとすれば──


いや。


(……僧は来ない)


頭の中で、そう、断言した。


あの夜。

玄道と交わした密約を、思い出す。



──贄の娘だ。今宵、確実に連れ出せ。生贄の流れは断たせぬ。



あの男は、水面下でしか動かぬ。

兵の後ろに立つような真似はしない。

表の戦に混じる性質ではない。



南雲と、利害が一致するはずもない。



(人だけなら、抜けられる)


騎馬が詰めても、斬り開ける。

歩兵の間を裂いて、突破する。


漆駒は、ただの馬ではない。

殺気を読む。

道を選ぶ。


まいを乗せていても、

加速の一瞬を作れれば十分だ。


高成の指が、手綱をわずかに引く。


漆駒の耳が、ぴくりと動いた。


(囲まれる前に、突っ切る)


忠興は焦らない男だ。

待つ。

読んでいる。


だが、南雲のやり方を知っているこちらも、十分に分がある。


高成は、呼吸を整える。


焦りはない。

過信もない。


ただ、選択肢を削っていく。


西は守護大名の領地。

東は山。


南へ抜けるしかない。


そして南で待つのなら、

そこを越えればいい。


(問題はない)


声に出さず、そう結論づける。


腕の中のまいが、わずかに身体を強張らせたのが伝わる。


高成は、短く言った。


「掴まっていろ」


それだけ。


説明はしない。

安心させる言葉もない。


だが、その声に迷いはなかった。


漆駒が、歩みを少し速める。


宿場町南の出口が、ゆっくりと近づいていた。





──高成はまだ知らない。




その布陣の中に、

自分が読まなかった“一枚”が混じっていることを。









評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ