表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
64/79

合流





大通りを抜けたときには、もう人影はなかった。


商家の並ぶ通りから外れ、

古びた民家の裏手へ入る。


雪解け水が軒から落ち、細い溝を流れていた。


漆駒は、

二度、三度と角を曲がり、

やがて歩みを緩めた。


蹄の音が、硬い地面から

湿った土の上へと変わる。


(……止まった)


完全には止まったわけではない。

だが、先ほどの爆ぜるような疾走ではない。


耳が動く。

鼻先が空気を探る。


それから、

ゆっくりと、息を吐いた。


——安全だ。


そう告げられた気がした。


まいは、

ようやく自分の呼吸が荒れていることに気づく。


喉が痛い。

指先が震えている。


手綱を握りしめたまま、

そっと身体を起こす。


「……はぁ……」


肺の奥に溜まっていた空気を、

ゆっくり吐き出す。


漆駒の首へ、

そっと額を預けた。


熱い。


馬の体温は、

冬の空気よりずっと温かい。


(……ありがとう)


声は出せなかった。

だが、それに答えるよう、漆駒が鼻を鳴らす。


自分は、何もしていない。

ただ、落ちないようにしがみついていただけ。


なのに。


人を避け、

荷車をかわし、

曲がり角を迷わず抜け、

人の気配のない裏へと自分を導いた。


(……すごい)


城を抜けたあの夜も、

そうだった。


高成からの最小限の合図だけで、

危険を避けて駆け抜けた。


賢い。


ただ速いだけではない。


状況を読んでいる。


まいはそっと漆駒の鬣を撫でた。


指の間に、硬い毛並みが触れる。


その安心に、

ほんの一瞬、身体の力が抜ける。


——でも。


背後を振り返る。


遠くの空は、まだ灰色だ。


商家の屋根は、ここからはもう見えない。


(……生田さん)


あの後。


背後で聞こえた金属の音。

短い怒号。


それらはすぐに遠ざかった。


だから、

生きている。


そう思いたい。


でも。


(生田さんは……無事に、抜けられた?)


心臓が、

また早くなる。


信じて行けと言われた。


なのに。


漆駒の鬣を握る手に、

再び力が入る。


(追いつくって、言った)


あの声は、

嘘ではない。


分かっている。


それでも。


胸の奥に沈むのは、

ただの不安ではない。


——失うことへの、恐れ。


まいはもう一度、街の方を見る。


風が、民家の間を抜ける。


誰もいない。


ただ、遠くで、かすかに蹄の音がした気がした。


まいの呼吸が止まる。


音は、まだ遠い。


敵か。

それとも。


漆駒の耳が、ぴくりと動いた。


鼻先が、風を読む。


そして——


ほんのわずかに、前足を踏み出す。


まいの喉が、鳴る。


(……来る)


信じるしかない。

信じて、待つしかない。

それまでは、何としてもこの背から

振り落とされないよう耐える。


まいは手綱を握り直しながら、

じっとその音の正体を待った。


後方から蹄の音が近づき、そして、隣の道からこちらを追い越す。


迷いのない速度。


速い。


だが、追い詰めるような圧はない。


まいは振り返りかけて、やめる。


まだ、断定はできない。


敵かもしれない。


けれど。


───漆駒が、逃げない。


耳を立て音の方向へと首を向けるが、

身体を強張らせる様子はない。


そして、一度だけ、低く鼻を鳴らした。


(……あ)


まいの胸が、どくりと跳ねる。


遠くの路地の先に、

黒い影が現れる。


陽の反射で、一瞬、輪郭が揺れた。


馬と、その上に乗る影。


近づくにつれ、

姿がはっきりする。


(……)


息が、止まる。


───高成だ。


漆駒が、

はっきりと前脚を踏み出す。


逃げるのではない。

迎えるように。


高成の馬は、まだ荒く息を吐いている。

鼻息が白く広がり、胸が大きく上下している。


全力で追ってきたのが、一目で分かる。


だが——


乗っている本人は、

息ひとつ乱していない。


視線は冷静。

背筋も、揺れていない。


まるで、

商家の裏で別れたあの瞬間から、

何も変わっていないかのように。


馬を寄せ、

数歩の距離で止まる。


「……待たせた」


短い。


それだけ。


まいの胸の奥に、

溜め込んでいた何かが、

一気にほどけかける。


(……本当に)


追いついた。


言葉通りに。


まいは、

思わず唇を噛む。


涙が出そうになるのを、

ぎりぎりで堪える。


声が震えないよう、

一度、息を吸ってから言った。


「……無事で、よかったです」


それが精一杯だった。


高成は、一瞬だけまいを見る。


視線が合う。

ほんの、瞬きほどの時間。


高成は、何も言わない。

何があったのかも、

商家がどうなったのかも。


それを問わぬままにしている自分に、

まいは気づいていた。



——あの場所を、自分に見せないために残ったのかもしれない。



荒らされる店先も。

怯える人の顔も。


あの平穏だった通りを、

戦場に変える瞬間を。


確かめることはしない。


けれど、

そうであってほしいと、

どこかで思っている自分がいた。


それだけで、

十分だった。


高成は小さく頷き、

すぐに自分の馬の首筋へ手を伸ばす。


荒く上下する呼吸を、

掌でなだめる。


「落ち着け」


低い声。


馬の耳が、ぴくりと動く。


まだ興奮は冷めていない。

だが、主の声を聞き分け、

次第に息が整い始める。


漆駒も静かに並んで立っている。


二頭の馬の呼吸が、

少しずつ揃っていく。


静かな裏通り。


雪解け水の音だけが、流れている。


まいは、ようやく指の力を緩めた。

手綱を握っていた手が、じんと痺れている。


(……生きてる)


目の前にいる。


ここにいる。


それだけで、

胸の奥が熱くなる。


けれど。


高成の視線は、

すでに街道の先を見ていた。


安堵は、短い。


まだ、終わっていない。


「行くぞ」


低い声。


問いではない。


まいは、こくりと頷く。


今度は、

一人ではない。


二頭の馬が、

ゆっくりと並び、

人影のない街道へと向きを変えた。


背後の街は、

もう見えない。


だが、

追撃が来ない保証はない。


静かな空気の中に、

まだ、張り詰めた糸が残っている。


まいは、ちらりと高成を見る。

その横顔は、変わらず冷静だった。


けれど、ほんのわずかに、

目の奥の光が柔らいでいるようにも見えた。


——追いついた。


その事実だけを胸に、

二人は道の先へと進んだ。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ